文書と写真・地図による「記憶」の再現

アーカイブ:2010年

晃庵

 

晃庵(こうあん) 2008年11月22日訪問 晃庵 店頭に建つ「坂本龍馬妻お龍実家楢崎家跡」の碑  建仁寺 両足院の拝観を終え、ライトアップによる夜間拝観が始まるまでの間に、少し早いが夕食をとることとした。建仁寺の北門を出ると祇園の最も華やかな花見小路通に出る。毎回同じことを感じるが、なんとも不思議な空間である。聖と俗は表裏一体ということは、まさにここで実感できる。人通りの多い四条通を避け、四条通の南の道を西に向かい、四条大橋の一本下流の橋を渡る。そして、木屋町通から分かれる西石垣通に入ると四条通の南側に延びる先斗町に入る。わずか100メートルもしないうちに四条通に出てしまう。四条通に出て西に進むと、かつて鳥新があったとされる四条小橋東南である。近江屋 その3でも触れたように慶応3年(186… ►続きを読む

 

建仁寺 両足院

 

建仁寺 両足院(けんにんじ りょうそくいん) 2008年11月22日訪問 建仁寺 両足院 書院前庭  金戒光明寺大方丈の東庭 紫雲の庭を後にして、次に予定していた清水寺成就院を目指す。本来ならば山門を潜り春日北通に面した高麗門を通るところだが、放生池の南側から真宗大谷派岡崎別院と岡崎神社の間の坂道を下る。突き当たった丸太町通を東に進み、天王町の交差点辺りでタクシーを見つけ乗車する。予め運転手さんより、清水寺の周辺は人混みが凄く近くまでは行けないとの断りがあったが、ともかく五条大橋をわたり進めるところまでお願いした。車は東大路通を通り過ぎ、鴨川沿いの川端通を南下する。五条通に入ると、車はなかなか前に進まなくなったため、大和大路通あたりで下車する。このあと徒歩で清水寺に向う。東大路通と五条通が交… ►続きを読む

 

金戒光明寺 紫雲の庭

 

浄土宗大本山 紫雲山 金戒光明寺 紫雲山の庭(こんかいこうみょうじ しうんのにわ) 2008年11月22日訪問 金戒光明寺 紫雲の庭  真如堂から金戒光明寺へと続く道の東側には会津藩殉難者墓地、そして西側にはその墓地を管理している西雲院がある。これを過ぎると金戒光明寺の巨大な墓地の中に入っていく。東側の高台の上には三重の文殊塔が聳える。 金戒光明寺 墓地の中の参道 金戒光明寺 紅葉の墓地  現在は宅地化が進み判然としない状態となっているが、吉田神社のある吉田山から真如堂を経由して金戒光明寺に至る一帯は、白川通を挟んでいる西側の東山系の先端が、平坦な吉田、岡崎に延びてきたようにも見える。西山を望むのに適した地形は、城塞としての利用にも適っている。文久2年(1862)会津藩主・松平容保が京都守護職… ►続きを読む

 

金戒光明寺 西雲院

 

金戒光明寺 西雲院 (こんかいこうみょじさいうんいん) 2008年11月22日訪問 金戒光明寺西雲院  真如堂から金戒光明寺の境内に入り、御影堂へと続く道の途中に会津藩殉難者墓地がある。道の東側に墓地、そして西側の塀の中が金戒光明寺の塔頭である西雲院の境内となっている。また会津藩殉難者墓地自体も西雲院の墓地の一部である。 西雲院の開山である宗厳は天正3年頃(1575)朝鮮に生まれたとされている。文禄・慶長の役の時に秀吉の家来小野木重勝に捕らえられ、日本に渡っている。その後、蜂須賀正勝(小六)の長男である家政が宗厳を北政所に献上し、北政所の命により滝川雄利の娘の使用人となっている。大変器量の良い娘で北政所にも大層気に入れられていたから宗厳が遣わされたのであろう。また宗厳も娘に良く仕えたが、慶長… ►続きを読む

 

会津藩殉難者墓地 その2

 

会津藩殉難者墓地 (あいづはんじゅんなんしゃぼち) その2 2008年11月22日訪問 会津藩殉難者墓地  真如堂から金戒光明寺の境内につながる道の左側に会津藩殉難者墓地がある。 金戒光明寺にある会津藩殉難者墓地は、坂本龍馬や天誅組の祀られている霊山墓地と違い、訪れる人も疎らで永久の眠りを護る静寂さを常に保っている。前の道は真如堂から金戒光明寺へ抜ける裏道になっているので、ある程度の数の人が行き交っているが、この墓地内で人に出会うことは少ない。恐らく明治維新史に名を留めることのない無名の人々の墓であること、そして旧幕府軍として鳥羽伏見で戦い、敗れ去った人々の慰霊の場であるからかもしれない。同じ旧幕府軍でも壬生寺の新選組との間には大きな差がある。 会津藩殉難者墓地 明治43年(1909)3月に建… ►続きを読む

 

真正極楽寺 その2

 

天台宗鈴聲山 真正極楽寺 (しんしょうごくらくじ) その2 2008年11月22日訪問 真正極楽寺  櫻本陵から、再び哲学の道に戻り、そのまま東に進む。鹿ケ谷通と白川通を横断すると次第に上り坂になってくる。そのまま進むと、北側から真如堂の境内に入っている。紅葉の名所だけに、やや盛りを過ぎているものの人出は多い。今回は金戒光明寺へ急ぎ、本堂の前を通り西雲院へ出ることとする。 真正極楽寺 白川通からの坂道  真如堂は本堂を意味する言葉で、本来の名称は、鈴聲山 真正極楽寺という天台宗の寺院である。永観2年(984)比叡山の僧である戒算が比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を一条天皇生母である東三条院詮子の離宮に安置したのが始まりとされている。 比叡山常行堂の本尊・阿弥陀如来が戒算の夢に現れ、「人の集まる所… ►続きを読む

 

櫻本陵 その2

 

櫻本陵 (さくらもとのみささぎ) その2 2008年11月22日訪問 櫻本陵  安楽寺の石段を下りた先に、東西50メートル南北100メートル位の大きな緑地が残っている。既に周囲は宅地化された中に、矩形の敷地が手付かずに残されている。この冷泉天皇の櫻本陵の正面は、哲学の道をよーじや銀閣寺店の角から東に入った先にある。 冷泉天皇は天暦4年(950)村上天皇の第2皇子・憲平親王として生まれる。生後間もなくして、第1皇子の広平親王を押しのけて立太子となる。これは時の権力者である藤原実頼・師輔兄弟の力が働いていたと考えられている。広平親王の母は大納言藤原元方の娘・祐姫であり、憲平親は藤原師輔の娘・安子を母としている。この決定を聞いた藤原元方は失望し、まもなく病になり天暦7年(953)に亡くなっている。… ►続きを読む

 

安楽寺 その2

 

浄土宗住蓮山 安楽寺 (あんらくじ) その2 2008年11月22日訪問 安楽寺 方丈の東庭  霊鑑寺門跡の石段を下り、道を北に進むと右手に安楽寺の大樹と石段、その上に建つ萱葺きの山門が現れる。 安楽寺 山門前 拝観者の途切れることがない  安楽寺は2008年5月に訪れたが、霊鑑寺と同様に非公開のため山門の写真を撮影し、中の様子を伺うだけであった。こちらの寺院も春と秋に特別公開が行われる。春は桜、躑躅、皐の美しい時期に土日と祝日のみ公開される。夏は7月25日に行われる鹿ケ谷カボチャ供養の日、そして秋は紅葉の11月から12月初旬の土日、祝日に公開される。前回の5月の訪問は丁度、躑躅と皐の間の日だったのかもしれない。 安楽寺 本堂 安楽寺 本堂前 安楽寺 仏足石  鎌倉時代の始め、浄土宗の開祖・法然… ►続きを読む

 

霊鑑寺門跡 その2

 

臨済宗南禅寺派円成山 霊鑑寺門跡 (れいかんじもんぜき) その2 2008年11月22日訪問 霊鑑寺門跡 中門から庭園を眺める  大徳寺の塔頭 総見院を出て再び東門を出てタクシーを捜す。大徳寺を訪問する観光客は、この東門の前にある駐車場で下車するため、乗車客待ちのタクシーが停まっている確率が高い。 タクシーは霊鑑寺門跡と法然院を目指して北大路通を東に進む。賀茂川と高野川を越えると一乗寺町に入る。白川通で右折し南に下り、今出川通の交差点から鹿ケ谷通に入る。鹿ケ谷通は観光客の多い哲学の道の西側を平行に走る道である。そして市立第三錦林小学校の角を東に入り、霊鑑寺門跡の石段の前に約30分で到着する。 霊鑑寺門跡 表門前の石段 門跡寺院の優美さを備えている 霊鑑寺門跡 歴史的風土特別保存地区の碑が建つ… ►続きを読む

 

大徳寺 総見院

 

大徳寺 総見院 (だいとくじ そうけんいん) 2008年11月22日訪問 大徳寺 総見院  興臨院を出て、三門、仏殿そして法堂を左手に見ながら北に進む。孤篷庵へと続く東西路を西に曲がると右手に総見院の山門が見える。通常非公開の塔頭であるが、何かの催しが行われているのか、門が開いているので少し中を覗いてみる。 総見院は、大徳寺117世住持古渓宗陳と開山として、天正11年(1583)織田信長の一周忌の追善のために秀吉によって創建されている。そのため寺名は信長の戒名 総見院殿贈大相国一品泰厳大居士に由来している。しかし天正16年(1588)後で触れるように古渓は秀吉の怒りに触れ九州に配流される。そして130世住持玉甫紹琮が継いだため、総見院は古渓と玉甫を両祖としている。  天正10年(1582)6… ►続きを読む

 

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