西村家別邸
西村家別邸(にしむらけべってい) 2008年05月19日訪問
上賀茂神社の一の鳥居を出、酒殿橋を渡り、再び社家町に戻る。既に9時30分を廻っているため、西村家別邸の公開が始まっている。
社家の町並みの項で触れたように、社家の建築として梅辻家住宅(https://vinfo06.at.webry.info/201006/article_9.html : リンク先が無くなりました )、岩佐家住宅(https://vinfo06.at.webry.info/201006/article_9.html : リンク先が無くなりました )、井関家住宅(https://vinfo06.at.webry.info/201006/article_9.html : リンク先が無くなりました )が京都市の指定有形文化財に指定されている。西村家別邸は、岩佐家庭園ともに京都市指定文化財・名勝に指定されている。つまり西村家別邸の庭園が名勝として指定されているのであり、社家の建築として指定されている訳ではない。
上賀茂神社の境内東側の森の中を流れる楢の小川が、境内を出て酒殿橋を潜り明神川と言う名前に変わった後、藤木通に沿って掘割となって東に向って走る。この掘割は藤木社の楠の大樹の足元で流れを変え、その後暗渠に入り賀茂用水路を経て再び賀茂川に流れ込む。この明神川から水を取り込むことのできるのは、藤木通に面した数軒の住宅に限られる。西村家別邸はこの水を社家の庭園に使用している。
京都市指定・登録文化財のHPでは、この庭園の特徴と指定の理由を下記のように挙げている。
「かつては,明神川の流水を引き入れて二筋の鑓水とし,再び川に返す構造になっていた。水垢離の場として使われたと推測される円形の窪みや,神社の北に位置する神山の降臨石をかたどったといわれる石組みなどがある。池を設けず,幅広い二つの鑓水としている点で,他の社家庭園とは異なった印象を受ける。今もなお,社家の庭園らしい意匠を有する庭園として貴重である。」
残念ながら梅辻家住宅、井関家住宅そして岩瀬家住宅とその庭園が、常時一般に公開されていない。このことからも西村家別邸の公開は、社家町を知る上で重要な役割を果たしている。
西村家別邸は、上賀茂神社の社家であった錦部家の旧宅。明治時代後期に西陣で織物業を営む西村清三郎が別邸として購入し、江戸時代の趣を残して主屋を建て、庭園の整備も行っている。現在公開されている建物は、庭に対して二方向に開口を持ったものになっているが、この時に庭を観賞しやすいように建て替えたものであろう。もとの庭園は養和元年(1181)上賀茂神社の神主・藤木重保の作庭と言われている。藤木社の藤木であり、現在も上賀茂藤ノ木という地名も残る。藤木重保というよりは賀茂重保の方が(インターネットでの検索の)通りがよいかもしれない。
賀茂重保は、元永2年(1119)賀茂別雷社神主・賀茂重継の子として生まれている。権禰宜を経て治承元年(1177)別雷社神主に就任している。正四位上に至り、藤木神主と号する。平安時代末期の歌人で、多くの歌合に出詠するだけに留まらず、自らも歌会、歌合を主催して賀茂社歌壇を形成する。治承2年(1178)藤原俊成を判者に迎えて別雷社歌合を開催している。賀茂社家には多くの歌人が出たが、賀茂氏久とともに注目すべき存在である。建久2年(1191)に没している。
西村家別邸には北、西、南の3つの庭がある。明神川より邸内に水が引き込まれ、かつては曲水の宴に利用された。遣水は屋敷を流れ再び川に還されているが、生活用水は裏の小川へ流している。そして汚水は地中の穴・水口に流し濾過していた。
神官が神事に使った降り井の「みそぎの井戸」。庭園の隅にある深さ1メートル余りの円形の窪みは、神官が冷水を浴び身体の穢れを去るために使った「水垢離場」と考えられている。上賀茂神社の御神体である「神山」を模った降臨石の石組みなど、社家独特の特徴が現れた庭となっている昭和61年(1986)京都市指定名勝に指定されている。
現在、西村家別邸は大橋家庭園とは異なり住宅としては使用さていない。別邸の名称どおり、こちらの公開のために毎朝”通勤”されているとのことである。
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