東福寺 即宗院
東福寺 即宗院(とうふくじ そくしゅういん) 2008年11月22日訪問
龍吟庵の中門を出て、小振りな表門を背にして偃月橋を眺めると、左手に即宗院の山門が石段の上に見える。即宗院は最勝金剛院とともに東福寺の境内の中でも東端にあるため、東山の峰々の斜面上に位置する。この地形的な特徴は、泉涌寺の塔頭・悲田院から日吉ヶ丘高校の南東を通り、東福寺へと向うと即宗院の高台に突き当たることで良く分かる。つまり即宗院の境内の東半分は、鬱蒼とした樹木に覆われているが、明らかに日吉ヶ丘高校や周囲の民家に比べて小高くなっている。どうも東福寺自体が一様な傾斜面上にあるわけでなく、悲田院・日吉ヶ丘高校と即宗院の間には洗玉澗のような谷が走っていたようだ。
即宗院は元中4年(1387)島津家第6代当主・島津氏久が、東福寺第54世住持・剛中玄柔を開基として東福寺山内に創建したのが始まりとされている。この元中4年(1387)は氏久の没年でもあることから、菩提寺として創建されたのであろう。氏久は足利尊氏より偏諱を賜ったように、父の貞久、兄の師久らと共に尊氏の北朝に属し南朝と戦い、正平23年(1368)には大隅守護となっている。
しかし天授元年(1375)室町幕府が九州の南朝勢力制圧のために派遣した九州探題・今川了俊が菊池氏討伐のために九州三人衆を招聘する頃から、氏久の運命は大きく変わっていく。この招聘に応じた氏久は大友親世と共に了俊に着陣する。そして氏久は、着陣を拒んだ筑前守護少弐冬資を説得し、了俊の下に冬資も参じるように図る。それでも冬資に対して疑念を持っていた了俊は、歓迎の宴の最中に冬資を暗殺している。この謀殺事件は水島の変と呼ばれ、後の南九州の南北朝情勢を大きく変えることとなる。
面目を失った島津氏久は帰国し、了俊と絶縁する。また大友親世も中立的な態度に転じたことにより、やがて九州の南朝側の一斉蜂起につながっていく。この後、氏久は了俊に敵対し、甥の島津伊久(第7代当主)とともに南朝側につくこととなるが、弘和2年(1382年)北朝に帰順し、伊久が薩摩守護に復職している。即宗院の創設はこの北朝への帰順後の出来事である。なお明徳元年(1392年)に南北朝が合一されると、応永2年(1395年)に了俊が九州探題を更迭され、駿河半国守護へ左遷されている。
開基の剛中玄柔は、文保2年(1318)豊後に生まれている。生地にある崇祥寺では玉山玄提、京では東福寺、南禅寺の住持となる無徳至孝や虎関師錬に学ぶ。日向大慈寺の開山となった玉山に従い、後に住持となる。明国から大蔵経2部を求め、大慈寺と東福寺にこれを納める。東福寺第54世住持となり、元中5年(1388)71歳で死去。玄柔は薩摩藩士の猶子として豊後に生まれたということもあり、島津家とは近い関係にあったと思われる。上記のように即宗院が島津氏久の没年に菩提寺として創建されたため、寺号は氏久の戒名「齢岳立久即宗院殿」から取られている。なお開基の玄柔も、この翌年に死去している。
創建された当時の即宗院は現在の地にあったわけではなく、成就院の南に立地していたという記録が残っている。残念ながら現在の東福寺には成就院が残されていないので、それがどの場所だったかは不明である。ばんないさんのHP「戦国島津女系図」に掲載されている即宗院の項には、現存する五社成就宮(http://www.tofukuji.jp/keidai/joju.html : リンク先が無くなりました )の近隣に即宗院があったのではないかと推測している。この辺りは東福寺の前身である摂関家氏寺・法性寺の旧蹟として伝わっている。 即宗院は戦国時代の戦乱に巻き込まれ、永禄12年(1569)に全焼している。そして慶長18年(1613)頃、島津家第16代当主・島津義久の施入により、現在の地に移った。ただし義久は慶長16年(1611)に国分城にて病死しているので、その死後に18代当主であり初代鹿児島藩主の島津家久によって現在の私達が見る即宗院が築かれたことになる。
現在即宗院がある地は、平安末期の摂政・関白藤原忠通が九条家の祖となる九条兼実に相続した別荘・月輪殿のあった場所とされている。
九条兼実は久安5年(1149)忠通の三男として生まれている。仁安元年(1166)に右大臣、承安4年(1174)従一位に昇っている。この時期の政治情勢は、専横を極めた平清盛を中心とする平氏一門と強力な院政を目論む後白河法皇の両者の対立構造となっていた。兼実は両者に対して一定の距離をとっていたが、特に平氏に対しては非協力的であった。
源平の戦いを経て源頼朝が鎌倉幕府を確立すると、兼実は文治元年(1185)頼朝の強い推薦によって内覧の宣旨を受け、翌文治2年(1186)には摂政・藤原氏長者となる。これは平清盛とのつながりが無かったためだと考えられる。しかし兼実が朝廷内で強い影響力を持った期間は、それ程長いものではなかった。もともと後白河院の影響力のため、政権内での孤立は否めなかった。その上頼朝との関係が冷え込み、建久7年(1196)に起きた政変いわゆる建久七年の政変によって関白の地位を追われることとなる。
失脚後の兼実は、孫にあたる道家を育てることに持てる全てを傾けた。道家は九条家を確立し、子供達が二条家、一条家を創設している。そして嘉禎2年(1236)道家が、高さ5丈の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願したことが、東福寺の始まりとなっている。
このような経緯があるため即宗院に残る庭は、九条兼実の月輪殿が建った頃に造営された物ではないかと考えられ、即宗院庭園は平成元年(1989)に京都市指定・登録文化財(名勝)となっている。
また寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には、江戸時代の庭の姿とともに以下のような記述が残されている。
「客殿の美観なり。東の山間に茶亭あり採薪亭といふ、又其上に自然居士墓あり。」
自然居士は、南禅寺開山大明国師の弟子で鎌倉後期の禅宗系の説教師で勧進聖とされている。簓(ささら)を摺り、歌い舞いながら説教したので簓太郎とも呼ばれていた。永仁4年(1296)頃にまとめられたと考えられている「天狗草紙」には自然居士、蓑虫、電光、朝露ら放下の禅師4人組の歌舞説教が描かれている。この4人組は永仁2年(1294)延暦寺の大衆僉議により京都から追放されている。異形での歌舞説教よりも聖一派であったことが追放の一因とも考えられている。脇田修・脇田晴子著の「物語 京都の歴史 花の都の二千年」(中央公論新社 2008年)にも、鎌倉新仏教の教線として曹洞宗の道元に対する比叡山の弾劾と共に触れている。そして自然居士は単なる破戒僧ではなく雲居寺や法城寺に居住した在家の帰依者であり、大悟の禅者にして庶民に分かりやすく法を説いたため、人気を得たとしている。室町時代の祇園祭の山にも「しねんこし山」があったり、観阿弥作の能楽「自然居士」にも現れてくる。橋勧進など土木技術を通して社会事業を行ってきた人であったと思われる。
この自然居士の墓については、ヨウダさんのHP「花にいとふ風」の中で写真付で紹介(http://noubue.com/shiseki/shi18.html : リンク先が無くなりました )されている。自然居士の墓と伝えられる五輪塔の傍らには採薪亭址と記された石碑がある。採薪亭は、第13世龍河が自然居士を偲び、寛政8年(1796)に建てた草庵で、建物は方三間二階建、階上に「雲居」の額を掲げ、階下を「採薪亭」と名付けられた茶室とされている。上記の都林泉名勝図会は龍河が採薪亭を建ててすぐの発刊ということが分かる。確かに藁葺き屋根の建物が描かれ、その奥の高台に自然居士の墳が見える。この採薪亭は、明治の中頃に失われている。
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