金戒光明寺 紫雲の庭
浄土宗大本山 紫雲山 金戒光明寺 紫雲山の庭(こんかいこうみょうじ しうんのにわ) 2008年11月22日訪問
真如堂から金戒光明寺へと続く道の東側には会津藩殉難者墓地、そして西側にはその墓地を管理している西雲院がある。これを過ぎると金戒光明寺の巨大な墓地の中に入っていく。東側の高台の上には三重の文殊塔が聳える。
現在は宅地化が進み判然としない状態となっているが、吉田神社のある吉田山から真如堂を経由して金戒光明寺に至る一帯は、白川通を挟んでいる西側の東山系の先端が、平坦な吉田、岡崎に延びてきたようにも見える。西山を望むのに適した地形は、城塞としての利用にも適っている。文久2年(1862)会津藩主・松平容保が京都守護職に就任すると、その年の12月24日には1000の兵と共に上洛し、金戒光明寺に入っている。御所へも東海道の京への入口となる粟田口にも近い上に、守り易い高台の上にある金戒光明寺は会津兵にとって頼もしい城のように見えたのではないだろうか。
参道をさらに進むと東西に連なる石段が現れる。東へ登ると寛永10年(1633)建立で重要文化財に指定されている文殊塔へつながるが、今回は西に下る。通常公開されていない大方丈東庭・紫雲の庭がこの時期に拝観できるため大方丈を目指す。石段を下りきると墓地も終わり、中央に橋を架けた放生池が現れる。池の北側に新清和殿と浄土宗教師修練道場、そして西側に慶長10年(1612)豊臣秀頼が再建した阿弥陀堂が並ぶ。多くの堂宇が応仁の乱を始めとする何度かの災禍に会い焼失しているため、この阿弥陀堂が黒谷で最も古い建物とされている。新清和殿と阿弥陀堂の間を抜けると大方丈の勅使門とその奥に建つ御影堂が現れる。この2つの建物は昭和9年(1934)に焼失したため、昭和19年(1944)に再建されている。残念ながら大方丈は松平容保が本陣として使用したものではなくなっている。
御影堂の前に立ち、南側を眺めると、万延元年(1860)に竣工した豪壮な山門が眼下に現れる。この山門には後小松天皇宸翰による浄土真宗最初門の勅額が掲げられている。山門は御影堂の中心線上に建てられていることがよく分かる。そして左手には阿弥陀堂と共に経蔵が見える。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会には、御影堂、方丈、阿弥陀堂そして文殊塔の姿が確認できる。これに対して元治元年(1864)刊行された花洛名勝図会に収められた図会1、図会2には、山門の姿が克明に描かれ、ほぼ現在と同じ姿になっている。
浄土宗総本山の金戒光明寺の山号は紫雲山。浄土宗の開祖・法然は、知恩院、安楽寺 そして法然院で触れたように、長承2年(1133)に現在の岡山県にあたる美作国久米南条稲岡庄、押領使(律令制の令外官の一つ。警察・軍事的官職)・漆間時国の長子として生れている。幼名を勢至丸と言い、9歳の時父が源内武者貞明の夜襲を受け不意討ちに倒れている。その後比叡山に登り、源光上人に師事するが、15歳の頃に同じ比叡山の皇円の下で得度し、比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名のる。比叡山は根本中堂のある東塔堂宇群、横川堂宇群そして西塔堂宇群に分かれるが、比叡山の黒谷は西塔堂宇群の北の外れに位置する。現在も天台宗でありながら総本山知恩院が管理を行っている比叡山黒谷青龍寺が法然上人御修行の地として大津市坂本に残る。 法然43歳の承安5年(1175)、善導の「観無量寿経疏」によって専修念仏、つまり「南無阿弥陀仏」とただ一心に称えることにより、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生できるという考えにたどり着く。この年に法然は比叡山を下り、東山吉水に住み、念仏の教えを広める。現在の知恩院勢至堂付近に草庵を営んだとされている。これが浄土宗の立教とされている。
法然は自ら寺院を開創することを行わなかった。この草庵は白川の禅房と呼ばれ、もとは比叡山黒谷の所領であった。法然の師である叡空が入滅すると、黒谷の本房と白川の本房は法然に与えられ、比叡山の黒谷は元黒谷、岡崎の地は新黒谷と呼ばれていた。元久元年(1204)から始まる天台宗の浄土門に対する弾圧、いわゆる承元の法難に際し、弟弟子にあたる信空は、信者に戒めを求める七箇条制戒の執筆を法然に勤めている。そして法然が流罪となっている間は京都における教団維持に尽力している。そのため法然は、信空に黒谷の本房と白川の本房を与え、信空もこの新黒谷の地に住んだ。第5世法主恵顗の時代に堂宇は整えられ、法然の故事に因み紫雲山光明寺と号する。第8世法主運空は後光厳天皇に戒を授けたことにより、金戒の二字を賜り金戒光明寺と呼ぶようになっている。さらに先に触れたように後小松天皇から浄土真宗最初門の勅額を賜っている。浄土真宗とは現在の浄土真宗や真宗を指すものではなく、浄土の真なる宗という意味で使われている。第二次大戦後、黒谷浄土宗として一派独立するが、現在は浄土宗に合流し七大本山の一翼を担う寺院となっている。
紫雲の庭へは、御影堂より大方丈に連なる回廊を通り、大方丈南庭とその先にある勅使門と阿弥陀堂の屋根を眺めながら東庭へと入っていく。勅使門と阿弥陀堂が重なることから御影堂と山門と同じく、大方丈は阿弥陀堂の軸線上に建設されている。紫雲の庭は大方丈の北東に開けた場所に作庭されている。この庭は、平成23年(2011)の法然上人800年大遠忌を記念して、平成18年(2006)に第73世法主坪井俊映の監修のもと、植彌こと加藤造園によって作庭された新しい庭園である。植彌は嘉永元年(1848)に南禅寺の御用庭師・加藤吉兵衛が鹿ケ谷に創業したもので、昭和41年(1966)南禅寺本坊の小方丈庭園、翌昭和42年(1967)六道庭、そして昭和58年(1983)に華厳庭を作庭し、渉成園などの多くの名庭の管理を行っている。
拝観の栞によると紫雲の庭は、「幼少時代 美作の国」、「修行時代 比叡山延暦寺」そして「浄土開宗 金戒光明寺の興隆」という法然の3つの時代を表現している。大方丈の東縁から庭を眺めると、ほぼ三角形上に白砂が敷き詰められている。その白砂の中を茶室・花峯庵に連なる道が緩やかに蛇行しながら進む。この道の存在により座観式庭園が持つピクチャレスクな構成だけでなく、回遊的な楽しさが生まれているのではないだろうか。先の法然の3つの時代は、東庭の北側から「比叡山延暦寺」、中央に「金戒光明寺の興隆」、そして蛇行する道の南側に「美作の国」という順に白砂の上に築かれた苔地と石によって表している。中央に最も重要な「金戒光明寺の興隆」を置き、池泉に近い北側に琵琶湖の背にして建つ延暦寺を配したのだろう。
「美作の国」では父・漆間時国と秦氏出身の母に囲まれた幼少の法然(勢至丸)と母の弟で比叡山の学僧であった観覚とそれに学ぶ勢至丸の姿が表現されている。
次の「比叡山延暦寺」の時代では、観覚の紹介により延暦寺において勢至丸を預かった学僧の源光、勢至丸に大乗戒を授け正式な僧侶とした皇円阿闍梨と勢至丸の3つの石。その右手には皇円阿闍梨のもとを暇乞いした後に弟子として就いた叡空と源空と名を改めた勢至丸の2石。その背後には熊谷直実が鎧を洗ったという言い伝えのある鎧池を琵琶湖、その手前に勢至丸が延暦寺に登った坂本の町並みをと見立てている。
中央の「金戒光明寺の興隆」では一番左に金戒光明寺の始まりとなる紫雲石を置いている。西雲院の項でも触れたように、比叡山を降りてきた法然はこの黒谷の地で半畳程の大きさの白河石に腰を掛け念仏を称えると、紫色の雲がたつのを見たと言われている。この故事に因んで庭の名称となる紫雲石を白砂の中に独立して配している。また「金戒光明寺の興隆」の中央に置かれた巨石を法然と見立てている。法然の手前右より前2世法主源智と後2世法主信空、第3世法主の湛空そして熊谷直実が一列に並ぶ。そしてさらに右側には第5世法主恵顗と第8世法主運空が小振りな石で表現されている。また法然の背後には摂政関白の九条兼実を表す石が見える。兼実は承元の法難の際に法然を庇護し、流刑地の土佐から九条家領地の讃岐国に配流地が変更させている。そして法然の右奥に植えられた松は、翔鶴の松と呼ばれ浄土宗の興隆を表現している。
先に触れたように紫雲の庭は法然上人800年大遠忌を記念し、法然の事跡を辿ることを目的に造られた庭である。茶室・花峯庵から鎧池の奥の部分の回遊式庭園は、この事跡の借景として使われている。あまりにも多くの事柄を方丈の東縁に面したこの庭の狭い部分に籠め過ぎたような感が強い。造形的にはもう少しゆったりとした構成にした方がよいように思うのは私だけなのか。
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