安楽寺
浄土宗住蓮山 安楽寺(あんらくじ) 2008年05月17日訪問
櫻本陵から哲学の道に戻り、一本北側の道を東に入ると、法然院、安楽寺そして霊鑑寺をつなぐ道に出る。この道を南に下ると、程なくして道沿いに植えられた大樹と石段とその上に建つ萱葺きの山門が現れる。
鎌倉時代の始め、浄土宗の開祖・法然上人には住蓮房と安楽房遵西の弟子がいた。2人は鹿ケ谷草庵を結び、恵心僧都源信作の座像の阿弥陀如来を本尊として、六時礼讃の念仏会を行っていた。六時礼讃とは、浄土教における法要のひとつであり、中国の僧善導の「往生礼讃偈」に基づいて1日を日没、初夜、中夜、後夜、晨朝、日中の6つに分け、誦経、念仏、礼拝を行うことである。鎌倉時代には浄土宗の開祖法然が礼讃に節をつけ、念仏三昧行のひとつとして完成している。天台声明を基にした美しい旋律が特徴で、後半になるにしたがい高音の節が増す。特に安楽房遵西は音楽的な才能に恵まれていたようで、住蓮とともに六時礼讃に曲節を付け、念仏の信者たちに合唱させることで専修念仏の普及に大きな役割を果たしてきた。専修念仏とはただひたすら南無阿弥陀仏を唱えることで西方極楽浄土へ往生することができるという考え方である。
専修念仏については、既に元久元年(1204)比叡山の衆徒は専修念仏の停止を訴える延暦寺奏状を天台座主真性に提出している。その翌年には興福寺の僧徒も興福寺奏状がまとめられ、朝廷に専修念仏停止の訴えを出している。しかし朝廷内にも信者もいたことためか、法然や親鸞に対する弾圧は、この時点ではまだ行われなかった。
建永元年(1206)に入り状況は一変する。後鳥羽上皇が熊野行幸中に、上皇が寵愛する松虫と鈴虫という女官が、御所から抜け出して鹿ケ谷草庵で行われていた念仏法会に参加する。松虫と鈴虫は住蓮房と安楽房遵西に出家を懇願し剃髪を行ってしまう。
建永2年(1207)松虫と鈴虫が尼僧となった事を知った後鳥羽上皇は憤怒し、専修念仏の停止を決定するとともに、住蓮房を六条河原において、安楽房を近江国馬渕において斬首に処す。その上で法然は土佐国番田へ、親鸞は越後国国府への配流が決まる。知恩院の項で触れたように、既に74歳と高齢だった法然は、九条兼実の庇護により土佐まで赴くことはなかった。九条家領地の讃岐国に配流地が変更され、讃岐で10ヶ月ほど布教している。その後、法然に対し赦免の宣旨が下ったものの入洛は許されず、摂津の勝尾寺で滞在する。ようやく建暦元年(1211)11月、法然に入洛の許可が下り、帰京する。しかしその2ヵ月後の建暦2年(1212)1月25日、東山吉水で死去する。この一連の専修念仏停止に伴う弾圧は承元の法難と呼ばれている。
住蓮房・安楽房の亡き後、鹿ケ谷草庵は荒廃するが、再び入洛した法然が両上人の菩提を弔うために一寺を建立し、住蓮山安楽寺と名付けている。幾度かの荒廃を繰り返し、延宝9年(1681)に現在地に仏堂が再建され今日に至っている。
その後、松虫姫と鈴虫姫は、安芸の生口島へ逃れ、念仏三昧にくれたという。真言宗泉涌寺派光明坊の公式HP(http://homepage2.nifty.com/koumyobo/sub2.htm : リンク先が無くなりました )にはその後の松虫姫と鈴虫姫のことが記されている。また安楽寺の公式HPに掲載されている 安楽寺松虫姫鈴虫姫和讃には松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で亡くなったことが記されている。
現在の安楽寺は浄土宗住蓮山 安楽寺と称する単立寺院である。また原則的には非公開寺院であるが、春は桜、躑躅、皐の美しい時期の土日祝日と7月25日のカボチャ供養の日、そして紅葉の季節の土日祝日に公開される。今回は残念ながら公開時期ではなかったが、山門から中の様子を伺うことはできた。
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