晃庵
晃庵(こうあん) 2008年11月22日訪問
建仁寺 両足院の拝観を終え、ライトアップによる夜間拝観が始まるまでの間に、少し早いが夕食をとることとした。建仁寺の北門を出ると祇園の最も華やかな花見小路通に出る。毎回同じことを感じるが、なんとも不思議な空間である。聖と俗は表裏一体ということは、まさにここで実感できる。人通りの多い四条通を避け、四条通の南の道を西に向かい、四条大橋の一本下流の橋を渡る。そして、木屋町通から分かれる西石垣通に入ると四条通の南側に延びる先斗町に入る。わずか100メートルもしないうちに四条通に出てしまう。四条通に出て西に進むと、かつて鳥新があったとされる四条小橋東南である。近江屋 その3でも触れたように慶応3年(1867)11月15日の夜、醤油商を営む近江屋・井口新助邸に潜伏していた坂本龍馬は峯吉に軍鶏を買いに行かせる。それが鳥新ではないかとされている。峯吉は中岡慎太郎の住んでいた菊屋の子息である。菊屋は近江屋の斜め向いにあり、現在はあぶらとり紙専門店・象の河原町本店が入っている場所でもある。中岡慎太郎寓居地の碑が建てられている。
河原町四条の角から裏寺町通に入り、柳馬場三条下ルの晃庵を目指し碁盤の目を西北の方向に進む。お店の入口左手には、坂本龍馬妻お龍実家楢崎家跡の碑が建っている。碑の傍らには中村武生氏の記した解説パネルが掲示されている。この碑の建立については中村氏の「歴史と地理な日々(新版)」で「龍馬の妻お龍の実家跡に建碑がなされた」で記されている。
お龍の父である楢崎将作は文化10年(1813)に生まれている。楢崎家は長州藩士であったが、祖父源八郎の時に除籍処分となって京都柳馬場三条南で医者を開業している。そして青蓮院宮尊融法親王の侍医として召されている。お龍は天保12年(1841)将作の長女として生まれ、妹二人弟二人と共に何不自由なく暮らしていたと思われる。
ところで青蓮院宮尊融法親王は、文久3年(1863)に還俗し中川宮朝彦親王を名乗る。文久3年(1863)8月18日薩摩藩・会津藩を中心とした公武合体派は、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放している。中川宮は、この八月十八日の政変の朝廷内の立役者でもあった。この政変の後、朝彦親王は二品弾正尹に任ぜられ尹宮とも称されている。元治元年(1864)頃より中川宮から賀陽宮に宮号を改めている。しかし第14代将軍徳川家茂が死去し、長州戦争において幕府の敗北が決定する。そして慶応2年(1866)孝明天皇の崩御とその後の尊攘派公卿の復権により、朝廷内での求心力を急速に失って行く。そして慶応3年(1867)12月9日の小御所会議とそれによる王政復古が決定的な打撃となり、朝彦親王は明治元年(1868)広島藩預かりになっている。短期間に何度も宮号が変わっているため、幕末史の中で宮の足跡を辿ることがわかり辛い状況になっているとも言える。
楢崎将作は青蓮院宮の侍医を勤める一方、梅田雲浜や頼三樹三郎らの尊王の志士らと積極的に交流したために安政5年(1858)安政の大獄に連座し投獄されている。将作が仕えた青蓮院宮尊融法親王も一橋派と見なされ隠居永蟄居が命じられている。将作の投獄の理由は尊融法親王に関係したものだったのかもしれない。投獄の翌年の安政6年(1859)には釈放されるが、文久2年(1862)この柳馬場三条の自宅で病死したと考えられている。もともと資料の少ない人物であるため、よく分からないところが多いようで、一説には釈放されずそのまま六角獄舎で獄死したとも言われているらしい。
ともかく将作の没後、お龍の一家の生活は一変している。長弟の太一郎はまだ幼少であったため、母の貞と長女であるお龍が支えることとなった。一家は離散し、母と末妹の君江は洛東大仏方広寺南門前の河原屋五兵衛(もしくは五郎兵衛)の隠居所に居住し、土佐亡命志士の賄いのため住み込みで働いている。ここに龍馬が住んでいたのでお龍と出会ったのであろう。
この柳馬場三条下ルで亡くなった楢崎将作は、蛸薬師北西角にあったとされている西林寺に葬られた。ここは近江屋の主人井口新助の井口家の菩提寺でもあった。現在は左京区八瀬秋元町に移転しているが、本堂裏手にある墓地内の北側にある無縁墓石群の中に埋没する形で楢崎家の墓がある。 「写真が紐とく幕末・明治」には、「おりょうさんの父・楢崎将作の墓」(http://morishige.omlog.net/archives/887 : リンク先が無くなりました )という記事が記されている。本当に良く無縁墓石の中に楢の一文字を見つけ出したものだ。
こちらのお店には何回か来ているので何時のことだったかは覚えていないが、中村武生先生と京都龍馬会の方々を御見かけしている。
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