アーカイブ:2011年 10月
成菩提院陵
成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ) 2009年1月11日訪問 成菩提院陵 安樂壽院南陵と安楽寿院の間の道を再び西に向かう。さらに安樂壽院南陵の西側を南に進むと、片側2車線の大通り・新城南宮道に出る。そのまま西に進むと油小路通とその上に架かる阪神高速8号京都線の高架が現れる。とても京都の町並みとは思えない光景ではある。乗用車ではなく大型車が続く流れを見ると、京都・大阪間の物流の大動脈としての必然性を強く感じる。この交差点を西に渡ると、角地には建物は立っておらず、そのまま白河天皇の成菩提院陵の姿が良く見える。 成菩提院陵 天下三不如意の御陵とは思えない現状 白河天皇は尊仁親王… ►続きを読む
安樂壽院南陵
安樂壽院南陵(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ) 2009年1月11日訪問 安樂壽院南陵 近鉄京都線の竹田駅から安楽寿院へ向かう道で見えた多宝塔が近衛天皇の安樂壽院南陵である。現在の安楽寿院の書院、庫裡、阿弥陀堂、大師堂そして三宝荒神社が東西軸に並ぶのに対して、安樂壽院南陵はその南に位置している。さらに御陵の南側には新しい小枝橋へとつながる4車線の幹線道路・新城南宮道が西に向かって走る。 この安樂壽院南陵に祀られている近衛天皇は、安樂壽院陵でも触れたように、鳥羽上皇の第九皇子・体仁親王である。生母は上皇の寵愛を受けた藤原得子(美福門院)であった。保延5年(1139)に生まれた親王は、… ►続きを読む
安樂壽院陵
安樂壽院陵(あんらくじゅいんのみささぎ) 2009年1月11日訪問 安樂壽院陵 工事中 安楽寿院の収蔵庫から道路を隔てた西側に鳥羽上皇の安樂壽院陵がある。丁度訪問した時は陵の塀の工事中のようで、一部仮囲いが架かり、宝形の屋根のみがぽつんと見えた。 鳥羽天皇は康和5年(1103)堀川天皇と女御・藤原苡子の間に宗仁親王として生まれている。苡子は大納言藤原実季の娘で堀川天皇の中宮ではない。中宮である篤子内親王が高齢で子女に恵まれなかったため、苡子は皇子出産の期待をかけられて入内している。宗仁親王を出産したものの、苡子はその直後に28歳の若さで亡くなっている。宗仁親王は祖父の白河法皇の下に引き… ►続きを読む
安楽寿院 その2
真言宗智山派 安楽寿院(あんらくじゅいん)その2 2009年1月11日訪問 安楽寿院 左に大師堂 右に阿弥陀堂 安楽寿院の項で記したように、応徳3年(1086)白河上皇は、藤原季綱から献上された巨椋池の畔の別業を拡張して南殿を造営している。これが後の鳥羽殿の始まりとされている。しかし鳥羽殿の大部分は、白河上皇の孫に当たる鳥羽上皇の時代に造営されている。 安楽寿院 庫裏と書院 安楽寿院 安楽寿院は鳥羽殿にあった東殿の仏堂として造営されている。鎌倉時代の史書・百錬抄によると、その創建は保延3年(1137)のこととされ、創建当時は単に御堂と呼ばれていた。なお安楽寿院の名称が現れ… ►続きを読む
安楽寿院
真言宗智山派 安楽寿院(あんらくじゅいん) 2009年1月11日訪問 安楽寿院 書院庭園 御香宮神社の山門を出て、大手筋通を西に下っていく。近鉄京都線桃山御陵前から乗車し、竹田駅で下車する。ここから安楽寿院へ徒歩で向かう。安楽寿院は通常非公開の寺院であるが、今回は第43回京の冬の旅で特別公開となっている。本日訪問した東寺は、鳥羽伏見の戦いで新政府軍の本営となり、東福寺の退耕庵は長州藩の本営であり、後に菩提所となっている。そして伏見奉行所は旧幕府軍の伏見方面の本営であり、御香宮神社には新政府軍が駐屯した。このように洛南の地には鳥羽伏見の戦いに関係するものが点在している。そういえば、油小路… ►続きを読む
伏見義民の碑
伏見義民の碑(ふしみぎみんのひ) 2009年1月11日訪問 伏見義民の碑 御香宮神社の表門を入った左手には伏見義民の碑が建つ。伏見義民については、大黒寺の項で、木曽川治水工事の責任をとって自害した薩摩藩家老・平田靭負、寺田屋事件の薩摩九烈士とともに触れているが、ここで改めて書いてみる。 御香宮神社庭園 その2で書いたように小堀政一すなわち小堀遠州は、元和5年(1619)に備中松山藩から近江小室藩に移封されている。政一の父・小堀政次はもともと近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)の土豪で、浅井長政の家臣であった。そういう事情から、政一にとって近江小室藩への移封は祖先の地に戻ることでもあ… ►続きを読む
御香宮神社庭園 その2
御香宮神社庭園(ごこうのみやじんじゃていえん)その2 2009年1月11日訪問 御香宮神社庭園 前回の訪問は小雨降る夕方だったため、御香宮神社の広い境内のどこに庭園があるか分からず、境内を探したことを思い出す。今回は拝殿の西側にある社務所に迷わずに向かう。この庭園の謂れが記されている駒札が社務所の入口前に立てられている。 御香宮神社庭園 御香宮神社庭園 御香宮神社庭園 茶人であり建築家、そして作庭家として有名な小堀遠州は、天正7年(1579)小堀政次の長男として生まれている。父の政次は近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)に生まれ、豊臣秀長に仕えている。最初は10… ►続きを読む
御香宮神社 その3
御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)その3 2009年1月11日訪問 御香宮神社 明治維新伏見の戦跡の碑 前項で御香宮神社と徳川家の関係を記してきた。徳川家康が伏見城の再建に着手すると、豊臣秀吉により深草大亀谷古御香町に移された御香宮神社(古御香宮)は、家康によって旧地に戻され、本殿が慶長10年(1605)に寄進されている。その後も、元和8年(1622)初代水戸藩主・徳川頼房によって伏見城の大手門を表門に、そして拝殿を寛永2年(1625)初代紀州藩主・徳川頼宣よりの寄進を受けている。さらに社殿修復に関しては伏見奉行に出願し、その費用は徳川三家の御寄進金を氏子一般の浄財で行われてきた。また… ►続きを読む
御香宮神社 その2
御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)その2 2009年1月11日訪問 御香宮神社 表門 伏見奉行所跡から、やや上り勾配の道を進むと大手筋通に出る。右手前方に御香宮神社の石垣と築地塀が見える。石垣の高さは大手筋通の上り勾配を示している。大手筋通には朱に塗られた鳥居があるが、御香宮神社の境内への入口には神門が設けられている。石垣に築地塀そして薬医門とは、府社御香宮神社の社号標石がなければ武家屋敷のようにも見える。 御香宮神社 一の鳥居 御香宮神社 境内西南隅の石垣 2.5から3メートル位の高さがある この表門は元和8年(1622)初代水戸藩主・徳川頼房が伏見城の大手門を拝領し寄… ►続きを読む