安樂壽院南陵
安樂壽院南陵(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ) 2009年1月11日訪問
近鉄京都線の竹田駅から安楽寿院へ向かう道で見えた多宝塔が近衛天皇の安樂壽院南陵である。現在の安楽寿院の書院、庫裡、阿弥陀堂、大師堂そして三宝荒神社が東西軸に並ぶのに対して、安樂壽院南陵はその南に位置している。さらに御陵の南側には新しい小枝橋へとつながる4車線の幹線道路・新城南宮道が西に向かって走る。
この安樂壽院南陵に祀られている近衛天皇は、安樂壽院陵でも触れたように、鳥羽上皇の第九皇子・体仁親王である。生母は上皇の寵愛を受けた藤原得子(美福門院)であった。保延5年(1139)に生まれた親王は、僅か2歳の永治元年(1142)に崇徳天皇より譲位され近衛天皇として即位している。その治世は当然のことながら、鳥羽法皇の院政であった。近衛天皇は病弱で15歳の時には一時失明の危機に陥り、退位の意思を藤原忠通に告げたともいわれている。
当時、左大臣は藤原頼長が占め、太政大臣は藤原忠通から実行へ、右大臣は実行から源雅定へ移行していた。忠通と頼長は、異母ながら藤原忠実の子である。忠実は康和元年(1099)父である師通が急死したため、22歳の若さで摂政となっている。既に白河上皇による院政が完成しており、摂関家といえども完全に院政の風下に立たされていた。そのため摂関家の権勢を再び取り戻すことが、忠実の生涯の目標となっていった。まず康和2年(1100)に右大臣となり、長治2年(1105)に堀河天皇の関白に任じられている。しかし保安元年(1120)娘の勲子を入内させようと工作したことが白河法皇の激怒を招いている。このことにより忠実の内覧は停止され、事実上関白を罷免されるに等しい状況に陥っている。翌保安2年(1121)長男の忠通が関白となり、忠実は宇治で10年に及ぶ謹慎を余儀なくされる。
大治4年(1129)白河法皇が崩御すると情勢は一変し、鳥羽院政が始まる。天承2年(1132)忠実は再び内覧の宣旨を得て、政界への復帰を果たす。そして長承元年(1133)には娘の勲子を鳥羽上皇の妃としている。これは白河上皇時代に失脚する原因となったことである。この勲子は院号宣下を受けて高陽院となる。忠実は鳥羽上皇の寵妃・藤原得子や寵臣・藤原家成とも親交を深めて、摂関家の勢力回復に努めた。
しかし忠実が次第に復権するにつれて、失脚中に白河法皇によって取り立てられ関白となった忠通との父子関係は次第に悪化していく。そして忠通との軋轢は、才気ある次男の頼長に対する偏愛へつながっていく。久安6年(1150)忠実は氏長者を忠通から奪い頼長に与えている。そして仁平元年(1151)には忠実により頼長は内覧の宣旨を受けている。すなわち忠実は関白と内覧が並立するという異常事態を作り出している。
笠原英彦著「歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか」(中央公論新社 2001年刊)によると、近衛天皇の治世は正に上記のような摂関家の内部抗争の中にあり、これに翻弄された一生であったともいえる。久寿2年(1155)眼病により17歳で崩御する。
近衛天皇を継いだのは、崇徳上皇の第一皇子である重仁親王でも、鳥羽上皇の孫王である守仁親王でもなく、守仁親王の父で鳥羽上皇の第四皇子であった雅仁親王であった。久寿2年(1155)雅仁親王は、立太子しないまま29歳で即位することになった。これは明らかに守仁親王即位のための中継ぎであった。この背景には、崇徳の院政により掣肘されることを危惧した美福門院、そして父である忠実と異母弟の頼長との対立を続けてきた藤原忠通、そして雅仁親王の乳母の夫である信西らの利害関係が一致した結果と見ることもできる。忠通の娘である藤原聖子は崇徳上皇の中宮(皇嘉門院)となったが、上皇の寵愛は兵衛佐局に移り、重仁親王が生まれている。忠通はこのことを恨みに思っていたとも言われている。近衛天皇の死は呪詛によるものという噂が世間に流れ、呪詛したのは忠実と頼長の父子であると美福門院と忠通が鳥羽法皇に告げたため、頼長は内覧を停止されて事実上の失脚状態となった。忠実は娘の高陽院を通して法皇の信頼を取り戻そうと試みるが、同年(1155)12月に高陽院が死去したことでその望みは絶たれる。そして保元の乱へと突入していく。
保元元年(1156)5月、鳥羽法皇は病に倒れる。そして1か月後の7月2日法皇は崩御している。同月5日には、「上皇(崇徳)左府(頼長)同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対して、勅命により検非違使の平基盛・平維繁・源義康が召集され、京中の武士の動きを停止する措置が執られる。また同月7日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の綸旨が諸国に下されている。さらに蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至る。没官は謀反人に対する財産没収の刑であることからも、既に頼長に謀反の罪がかけられたことは明らかである。しかしここまでは忠実や頼長が何らかの行動を起こした様子はない。そのため武士の動員に成功した後白河・守仁陣営が忠実・頼長陣営に対して挑発を行ったと考えられている。ついに忠実・頼長は追い詰められ、もはや挙兵以外に局面を打開する術はなくなった。
7月9日の夜、崇徳上皇は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出し、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入る。そして同月10日、頼長も宇治から上洛して白河北殿に入る。既に謀反人と目されていた頼長は、身を護るために挙兵することが必要であり、その名目として崇徳上皇を担ぐこととなったとも考えられる。武士集団の取り込みに成功した後白河天皇方は圧倒的な武力を背景に、7月11日白河北殿に夜襲をかける。源為朝の奮戦などにより戦局的には一進一退の場面もあったが、同日の昼には勝敗は決している。崇徳上皇と藤原頼長は御所を脱出する。上皇は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼するが覚性に断わられている。また頼長は首に矢を受け、重傷を負いながらも木津川をさかのぼり南都まで逃げ延びている。しかし父の忠実に対面を拒絶され、14日に死去。
藤原忠実は子の頼長の敗北を知り、宇治から南都へ逃げているため、保元の乱には直接的には加わっていない。しかし朝廷では忠実こそが謀反の張本人であるという認識であり、忠実が管理する膨大な所領を没官している。しかし忠通が氏長者を受諾することを条件に、「長者摂る所の庄園においてはこの限りにあらず」とし、忠実の全ての所領の没収を回避できるようにしている。
忠実の断罪を主張する信西に対して忠通が激しく抵抗したということが保元物語に残されている。これは決して父子の情によるものではなく、忠実が守ってきた摂関家の権益、特に経済的な基盤の維持が目的であったことは確かである。ともあれ忠実は高齢と忠通の上記のような奮闘もあり、罪名宣下を免れ洛北知足院での幽閉となった。
安楽寿院には本御塔と新御塔の2つの塔が鳥羽上皇によって建立されている。これは上皇と皇后美福門院のための御陵として用意したとされている。しかし上記のように、鳥羽上皇より以前の久寿2年(1155)に近衛天皇が崩御されたため、新御塔が近衛天皇の御陵とされたのだろうか?そして保元元年(1156)に鳥羽法皇が崩御され安樂壽院陵、すなわち本御塔に葬られた。ちなみに美福門院は永暦元年(1160)に44歳で白河の金剛勝院御所で亡くなっている。遺令により遺骨は高野山に納められている。女人禁制である高野山での埋葬はかなり揉めたとされている。
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