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妙心寺 塔頭 その4 



妙心寺 塔頭(みょうしんじ たっちゅう) その4 2009年1月12日訪問

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妙心寺 塔頭 隣華院

玉鳳院と龍泉庵、東海庵、霊雲院、聖澤院の本派四庵以外の43の塔頭を南西、北西、北東、南東そして一条通の北側の5つのエリアに分けて見て行く。

北西エリア
14大通院 天正14年(1586) 開山 南化玄興 妙心寺58世
                開基 一柳直末
15春光院 天正18年(1590) 開山 猷山景嘉 妙心寺113世
                開基 堀尾吉晴
16麟祥院 寛永10年(1633) 開山 碧翁愚完
                開基 春日局
17智勝院 慶長 2年(1597) 開山 単伝士印 妙心寺74世
                開基 稲葉貞通
18寿聖院 慶長 4年(1599) 開山 伯蒲慧稜 妙心寺62世
                開基 石田三成
19天祥院 正保 2年(1645) 開山 乳峯義元 妙心寺154世
                開基 松平忠弘
20金牛院 慶安 3年(1650) 開山 環陵
21天球院 寛永 8年(1631) 開山 江山景巴 妙心寺140世
                開基 天球院(池田恒興の娘)
22隣華院 慶長 4年(1599) 開山 南化玄興 妙心寺58世
                開基 脇坂安治

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妙心寺 塔頭 大通院 山門
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妙心寺 塔頭 大通院

14 大通院 東海派

大通院は庫裏の北側に位置する。天正14年(1586)妙心寺58世南化玄興を開祖として一柳直末が創建した塔頭。
 開基の一柳直末は天文15年(1546)斎藤家の家臣で斎藤義龍の頃に織田信長に仕えた一柳直高の子として生まれている。直末は羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃から家臣のであったため、秀吉古参の武将である。秀吉に仕えて各地を転戦して武功を挙げ、秀吉の黄母衣衆となる。天正13年(1585)田中吉政、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊らとともに豊臣秀次の宿老に任命され、美濃国に3万石を領する。さらに天正17年(1589)には軽海西城に転封となり、6万石に加増。しかし天正18年(1590)小田原征伐に参加したが、その緒戦である伊豆国山中城攻めで間宮康俊の軍の銃弾に当たり戦死。直末の死を悲しんだ秀吉は、家督を弟の一柳直盛に継がせ、尾張国葉栗郡西部に黒田城を中心として3万5000石を与えた。また、母らくにも直末の死を悼んだ豊臣秀次から800石の知行地が与えられている。一柳家は幕末まで続き、明治には子爵となっている。
 開山の南化玄興は天文7年(1538)美濃に生まれている。妙心寺43世快川紹喜に師事し、快川の法嗣となる。美濃瑞龍寺、尾張妙興寺、京都祥雲寺等に住し、後陽成天皇や豊臣秀吉をはじめ諸大名の崇敬を受ける。一柳直末に請ぜられて大通院を開創した他にも、稲葉貞通による智勝院、脇坂泰治による隣華院の開創の際にも開山として迎えられている。慶長9年(1604)入寂。67歳。著作に「虚白外集」など。
 大通院の2世住持には妙心寺114世湘南宗化が就いている。湘南は南化玄興の法嗣で妙心寺74世単伝士印の法を嗣いでいる。湘南の養父は山内一豊であったが、豊臣秀次が跡継ぎ問題で切腹した文禄4年(1595年)頃に、家を離れて出家している。山内家が土佐入国後には、土佐吸江寺住職と大通院住職とを兼務し、土佐慶徳山円明寺(焼失)の中興を行っている。慶長10年(1605)養父の一豊亡くなる。戒名は、大通院殿心峯宗伝大居士。見性院は家督を継いだ康豊に忠義を後見させ、半年後には土佐を引き払い湘南のいる妙心寺近くに移り住んで余生を京都で過ごしている。見性院も元和3年(1617)山城国で亡くなる。寛永10年(1633)湘南は見性院の17回忌にあたり見性閣を建立する。現存する宝形造の霊屋はこれに比定されている。湘南は寛永14年(1637)に入寂。以後、大通院は山内家の菩提所となっている。
 江戸時代の儒者、朱子学者そして幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えた思想家である山崎闇斎は、湘南宗化の弟子である。

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妙心寺 塔頭 春光院 山門
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妙心寺 塔頭 春光院 庫裏

15 春光院 龍泉派

 春光院は大通院の斜め前に位置する。天正18年(1590)堀尾吉晴が長子金助の菩提を弔うため妙心寺113世猷山景嘉を請じて創建した塔頭。長子の法号にちなみ俊巌院と称した。
 豊臣政権三中老(生駒親正:讃岐高松17万石、堀尾吉晴:遠江浜松12万石、中村一氏:駿河府中14万石)の一人で後に出雲松江藩の初代藩主となる堀尾吉晴は、天文13年(1544)に尾張国丹羽郡に堀尾泰晴の長男として生まれている。父の泰晴が岩倉織田氏に仕えていたことから、出自は山内一豊と似ている。岩倉織田氏が滅亡したため浪人となるが、尾張を統一した信長に仕え、間もなく木下秀吉に仕える。
 天正13年(1585)佐々成政征伐に従軍。そして田中吉政、中村一氏、山内一豊、一柳直末らとともに豊臣秀次付の宿老に任命され、近江国佐和山に4万石を与えられる。天正18年(1590)の小田原征伐にも従軍。この役の途中でともに出陣した嫡子・金助が戦傷死している。これが俊巌院建立へとつながる。慶長4年(1599)家督を次男の忠氏に譲り隠居する。そして慶長5年(1600年)に起こる関ヶ原の戦いでは東軍に与している。慶長9年(1604)家督を継がした忠氏が早世する。家督は孫の堀尾忠晴が継ぐこととなる。慶長16年(1611)松江城を建造し本拠を移したのを見届け死去。享年68。さらに寛永10年(1633)堀尾忠晴が死去する。嗣子が無く堀尾氏嫡系は3代で改易となる。

 この堀尾氏断絶の後、膳所藩、伊勢亀山藩そして淀藩主を歴任する石川氏が堀尾氏と姻戚関係にあったことより檀越となる。そして寛永13年(1636)中興して春光院と改める。大書院は石川憲之が淀城寝堂を移建したものである。寛政から天保にかけて(1789~1844)大規模な改修がおこなわれ、庭園も慶応3年に築造されて今日におよんでいる。伝張平山筆「東方朔奪桃図」(重要文化財)とイエズス会章の入った洋風の「南蛮寺鐘」(重要文化財)を有する。

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妙心寺 塔頭 麟祥院 山門
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妙心寺 塔頭 麟祥院 春日局菩提寺の碑
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妙心寺 塔頭 麟祥院 庫裏

16 麟祥院 東海派

 麟祥院は大通院の北隣、春光院の斜め前に位置する。寛永10年(1633)徳川家光の乳母春日局が、妙心寺74世単伝士印の法孫の碧翁愚完を請じて創建している。または家光が正暦年間(990~994)に源頼信の創建した天神社を鎮守として春日局の香萃寺をここに創建したとも、あるいは寛永11年(1634)春日局が子稲葉正勝の死を悼んで興したともいわれている。寛永11年(1634)院領朱印200石が特賜された。当初、仙洞女御所釣殿であった建物を後水尾天皇より局に下賜された後、二条城に移築し局在世中は能舞台として使われたとされている。寛永20年(1643)の局逝去後に、麟祥院に移し祠堂となり、現在は霊屋となったとされている。または、元和年間(1615~24)内裏庭園内の御亭として使われていたものとも謂われている。
 春日局は朝廷から賜った称号。天正7年(1579)父は美濃国の斎藤利三、母は稲葉一鉄の娘のもとに斎藤福として生まれている。斎藤家は美濃守護代を代々務める名家であった。利三の所領は丹波国であったため明智光秀から領地を与えられていた。利三は光秀に従ったため山崎の戦いに敗れ処刑されている。福は女であることから追われることがなく、伯父の稲葉重通の養女となり、小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となる。正成は関ヶ原の戦いにおいて、主君の秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いている。福は正成との間に正勝を生んでいる。
 将軍家の乳母となるために夫の正成と離婚し、慶長9年(1604)2代将軍徳川秀忠の嫡子・竹千代の乳母に正式に任命される。息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、元和9年(1623)老中に就任、寛永9年(1632)には相模国小田原藩主となる。しかし激務がたたったのか、寛永10年(1633)夏頃から吐血するなど体調を著しく悪化させ、翌寛永11年(1634)に死去。享年38。福も寛永20年(1643)に死去、享年64。戒名は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺。
 開山の碧翁愚完は鍋島勝茂の子で妙心寺74世単伝士印の法孫となっている。単伝は慶長2年(1597)稲葉貞通が父一鉄の菩提を弔うため創建した智勝院の開山である。一鉄の孫にあたる春日局も単伝に帰依していた。しかし単伝が紫衣事件に連座して出羽由利郡本荘藩の泉流寺に配流されたため、法孫の碧翁が開山となったと考えてよいだろう。
 明治11年(1878)麟祥院は花園高等学校の敷地内にあり、明治30年(1897)に現在地に移建されている。

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妙心寺 塔頭 智勝院 山門 もはや駐車場・・・
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妙心寺 塔頭 智勝院 庫裏

17 智勝院 東海派

 智勝院は麟祥院の北に位置する。慶長2年(1597)稲葉貞通が父一鉄の菩提を弔うため、妙心寺74世単伝士印を開祖として創建される。
 稲葉貞通は天文15年(1546)稲葉良通(一鉄)の嫡男として生まれる。始め父と共に美濃斎藤氏に仕えていたが、永禄10年(1567)織田信長の美濃侵攻の前に降伏し、その後は父と共に、信長の命に従って各地を転戦する。天正7年(1579)家督を譲られ、美濃国曽根城主となる。本能寺の変では京都にいたが、信長が殺されたことを知ると、急いで本国に逃走。翌年の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に与したが、当時の美濃は織田信孝の支配下にあったため、旧主の息子に刃向かう迷いがあり、長男典通に家督を譲っている。しかし天正15年(1587)九州の役に典通と共に出陣したが、典通が秀吉の機嫌を損ねて蟄居を命じられたため、再び家督の座につく。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、当初は西軍に与して郡上八幡城に籠もったが、東軍の攻撃により落城し、その後は東軍に就く。本戦では加藤貞泰隊に従って活躍した功績により、美濃国八幡藩4万石から豊後国海部郡、大野郡、大分郡の3郡内に領地を持つ5万60石余の臼杵城主として初代臼杵藩主となる。慶長8年(1603)57歳で死去。戒名は智勝院殿一等玄規大居士。
 稲葉貞通は早くから妙心寺58世南化玄興に帰依しており、その関係で智勝院の開祖には南化の法嗣である単伝が招かれている。また単伝は、麟祥院を創建した春日局の帰依も得ていたが、紫衣事件に連座して寛永6年(1629)に87歳の老齢で出羽由利郡本荘藩の泉流寺に配流されている。寛永9年(1632)には許され、その2年後に帰洛している。寛永18年になってようやく幕府から赦免されている。「輝岳宗暾墨蹟 尺牘」は、この時に江戸と京都でやりとりされた書状を纏めたもので、単伝士印に帰依した春日局の口添えが功を奏したことがうかがえる。

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妙心寺 塔頭 寿聖院 山門
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妙心寺 塔頭 寿聖院 庫裏

18 寿聖院 霊雲派

 寿聖院は金牛院と春光院の間の参道を入った右にある。慶長4年(1599)関ケ原の戦いの前年に、石田三成は父正継の菩提所として、妙心寺62世伯蒲慧稜禅師を開祖として創建する。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが勃発すると、嫡男である石田重家は豊臣家に対する人質として大坂城に留め置かれる。しかし西軍大敗の知らせを知り、密かに寿聖院に入り、伯蒲慧稜によって剃髪し仏門に入る。重家は天正11年(1583)に嫡男として生まれたとされるから、まだ7歳の時のことであった。そして寿聖院も現在の4倍以上の面積を有し、本堂、客殿、庫裏、書院がならぶ大伽藍であったが、敗戦後に縮小を余儀なくされる。
 慶長9年(1604)伯蒲は重家に宗亨の法号を授けている。そして慶長16年(1611)寿聖院2世住持で妙心寺107世雲屋祖泰が再興の許可を受け、書院を残して本堂としている。元和9年(1623)宗亨は寿聖院2世の雲屋祖泰に済院の道号を送られ、寿聖院3世住持となる。貞享3年(1686)入寂。享年104。生年には異説が多く、正確な年齢とはいえないだろう。諡号は済院宗亨大禅師。境内の一隅に石田一族の供養塔を建立している。

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妙心寺 塔頭 天祥院 山門への道
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妙心寺 塔頭 天祥院 山門
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妙心寺 塔頭 天祥院 庫裏

19 天祥院 龍泉派

 天祥院は寿聖院の西、金牛院と春光院の間の参道の突き当たりにある。正保2年(1645)松平忠弘が父忠明の菩提をとむらうため、大機東愚の法嗣で妙心寺154世乳峯義元を開祖に請して創建した塔頭。
 松平忠弘は寛永8年(1631)大和国郡山藩主松平忠明の長男として生まれる。忠弘は三河の豪族奥平氏の流れをくむが、天正16年(1588)父の忠明が家康の養子となり、松平姓を許されると、それ以来松平を名乗るようになる。そのため奥平松平家とも呼ばれる。忠明は、慶長3年(1598)秀吉晩年の大坂城三の丸工事、京都伏見町人の大坂移住、京町堀川・江戸堀川・道頓堀川の開削、寺院および墓地の移転廃合、元締衆の任命と市中町割の施行、水帳の制定と町中の制度化など大阪の都市計画に力を発揮している。寛永21年(1644)江戸藩邸で死去。享年62。天祥院心巌玄鉄大居士。
 父の死去により12歳で姫路藩18万石の家督を相続した忠弘であったが、直後に弟に3万石を分地する。4年後、年少を理由に山形に転封を命じられるが、のちに宇都宮への転封。さらに天和元年(1681)陸奥白河藩へと入封する。ここで後継者をめぐって家臣団を巻き込む騒動、すなわち白河騒動が勃発する。内紛は幕府の知るところになり、元禄5年(1692)減封の上山形10万石に国替、忠弘は隠居という裁定になる。元禄13年(1700)死去。享年70。
 現在も埼玉県行田市に臨済宗妙心寺派 海東山 天祥寺がある。天祥寺の公式HP(http://tensyouji.sakura.ne.jp/otera.htm#ayumi : リンク先が無くなりました )によると、松平下総守家の藩祖松平忠明が創建した寺院としている。その上で、
     天祥寺は妙心寺塔頭の一つ天祥院の本寺にあたり、近年天祥院の住職、釈浩堂師によって再建がなされました。

と記されている。この記述を信じるならば、天祥院創建前に、生前の松平忠明が天祥寺を創建したことになる。ただし奥平松平家が忍藩主となるのは、文政6年(1823)の松平忠堯であり、忠弘を初代とすると10代目となる。
 天祥院は、明治11年(1878)延宝年間(1673~81)に開創された慈照院を併合している。しかし明治19年(1886)土蔵と門を除く諸堂宇を焼失する。明治22年(1889)再建し、昭和51年(1976)に本堂を建立している。

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妙心寺 塔頭 金牛院 山門
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妙心寺 塔頭 金牛院 庫裏

20 金牛院 東海派

 金牛院は智勝院の向かいに位置する。慶安3年(1650)環陵を開祖として創建された塔頭。後に妙心寺417世通翁毒箭によって中興される。明治の始めまで北総門外の谷口村に所在していたが、明治11年(1878)に、妙心寺境域内の万猷院に併合され現在地に移る。さらに明治16年(1883)に万猷院を金牛院に改めている。一説に、元和年間(1615~24)に妙心寺境域内に創建された松濤庵がその前身であるともいうが、明確ではない。ちなみに、万猷院は鋼峰良を開祖とし寛永4年(1627)に創建された塔頭であった。

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妙心寺 塔頭 天球院 山門
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妙心寺 塔頭 天球院 庫裏

21 天球院 東海派

 天球院は金牛院の北、北総門を入った右側に位置する。寛永8年(1631)池田光政の大伯母である天球院が自分の永代追善のために、妙心寺140世江山景巴を請じて創建した菩提所。天球院の前半生から考えると岡山藩主池田光政兄弟が財政的にかなり支援していたと思われる。
 天球院は尾張織田氏の重臣・池田恒興の娘で、池田輝政の妹にあたる。摂津三田藩主・山崎家盛の室となるが、後に離縁している。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、家盛は大阪で人質になりかかっていた徳川家康の次女の督姫(池田輝政の継室)を救い出している。この功績が認められて、戦後の慶長6年(1601)に因幡若桜3万石に加増転封となっている。天球院と離縁になったのはこの関ヶ原の戦いの際であったとされている。家康の娘で兄嫁である督姫を逃がすため、夫より大阪城への入城を強いられたとも言われている。女ながらに怪力で妖怪退治の逸話も残っている天球院ならばと思わせる話である。
 慈雲院で触れたように、かつて池田輝政が妙心寺88世宙外玄杲を請じて創建した盛岳院があった。すでに廃院となっているが、現在の慈雲院には池田信輝と養徳院の墓がある。
 寺地は寿聖院から譲り受けているが、重要文化財に指定されている方丈は、桁行七間、粱行六間の単層入母屋造桟瓦葺で、唐破風柿葺の玄関と共に江戸時代の禅宗方丈建築の典型として貴重なものである。明治維新まで岡山、鳥取両池田家の菩掟所として外護を受けてきた。
 方丈内は、狩野山楽・山雪筆の障壁画(重要文化財)「竹虎図」、「梅遊禽図」、「籬草花図」、「牡丹・槇図」、「牡丹唐獅子図」等の金碧画を始め、「竹叭々鳥図」、「山水人物図」等の水墨画で飾られ、杉戸には、二十七面にも及び彩色画が描かれている。創建当時の絢爛豪華さを今に伝えている。また藤原宣房筆の法華経陀羅尼(重要文化財)を所蔵している。

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妙心寺 塔頭 隣華院 山門
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妙心寺 塔頭 隣華院 庫裏

22 隣華院 東海派

 隣華院は天球院の向かい、北総門を入った左側に位置する。慶長4年(1599)脇坂安治が妙心寺58世南化玄興を開祖に請じて創建された塔頭。
 天文23年(1554)脇坂安明の長男として、近江国浅井郡脇坂庄で生まれる。なお、脇坂氏は脇坂野に居住し、その土地の名から脇坂と称していた。はじめ浅井長政に仕えるが、天正元年(1573)の浅井氏滅亡以後は、織田家に属し、明智光秀の与力として黒井城の戦いなどで功を立てる。後に、木下藤吉郎に自ら頼み込んで家臣となる。その後は播磨国の三木城、神吉城攻めなど、秀吉の諸戦に従軍して功を重ねる。
 天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いでは、賤ヶ岳の七本槍(福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元)の1人に数えられ、その戦功により山城国に3000石を与えられる。ちなみに脇坂氏を除く大半が徳川政権になってからは御家取り潰しなどに遭っている。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでも家康に与するつもりであったが、大坂滞在時に石田三成が挙兵したため、やむなく西軍に付いたとされる。本戦では、東軍と内通の風聞があった小早川秀秋に備えて配置されていたが、午後に入り小早川隊が大谷隊を攻撃するとそれに乗じて寝返る。戦前に通款を明らかにしていた為、当初からの味方と見なされ、戦後に家康から所領を安堵されている。慶長14年(1609)伊予大洲藩5万3500石に加増移封される。慶長19年(1614)からの大坂の陣では徳川・豊臣のどちらにも参加せず、元和元年(1615)次男・安元に家督を譲り隠居する。
 その後は大洲を去って京都西洞院に住み、剃髪して臨松院と号する。寛永3年(1626)京都で死去。享年73。戒名は臨松院殿前中書少卿平林安治大居士。
 中務少輔を務める脇坂は、その役職の唐名より中書様という別名がつき、彼の下屋敷のあった伏見の宇治川支流の島のような場所を中書島と呼ぶようになったといわれている。

 既に何度か取り上げているように、妙心寺58世南化玄興は大通院、智勝院、隣華院の開創、東海派の本庵である東海庵の中興を果たすなど、安土・桃山時代から江戸時代初期の名僧の一人と数えても良いだろう。天文7年(1538)美濃に生まれ、妙心寺43世快川紹喜に師事する。
 快川もまた美濃の出身で、永禄7年(1564)には武田信玄に招かれて甲斐国の恵林寺に入寺し、武田氏と美濃斎藤氏との外交僧も務めている。元亀4年(1573)武田信玄が三河に没し、天正3年(1575)長篠の戦いで敗戦すると武田家の崩壊は現実的なものとなる。天正10年(1582)織田信長による甲州攻めにより、恵林寺は焼き討ちに遭い、快川も焼死する。
 南化は天龍寺の策彦周良の勧めで安土山記を草し、織田信長を大いに喜ばせたという話しが残っている。また豊臣秀吉の世嗣鶴松の夭折に伴い東山に祥雲寺を開いている。この祥雲寺の内部を飾ったのが長谷川等伯によって描かれた楓図をはじめとする障壁画郡である。のちに祥雲寺は寺地が智積院に与えられている。 信長や秀吉という時の権力者だけではなく、後陽成天皇から豊臣政権の五大老の一人である上杉景勝そして直江兼続など安土桃山時代から江戸時代にかけての多くの人々の帰依を受けていた。そのことは妙心寺内の多くの塔頭の開創の逸話からも分かる。慶長9年(1604)入寂。67歳。

 堂宇が落慶した慶長4年(1599)脇坂安治は父安明の33回忌法要を営む。安明の法名「隣華院殿陽春聯芳大禅定門」に因み、「院に扁するに隣華を以てす」と隣華院が名付けられている。南化亡き後、隣華院は安治の三男である定水玄済が嗣ぎ、以来脇坂家縁者が住持を勤め、同家の香華所とされてきた。文化14年(1718)隣華院9世江山祖成が大願を立て、引き継いだ10世南海玄等により大改修が進められた。文政3年(1820)正月に工事を始め、約5年を要して方丈の上棟を果たし、その後も諸堂を建て、表門の重修、大玄関の再造など全てを終えたのは天保3年(1832)のことであった。創建当時に描かれた長谷川等伯の「山水図」を除く客殿の障壁画はこの再建時に狩野永岳によって描かれている。

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妙心寺 塔頭 春光院の塀

「妙心寺 塔頭 その4 」 の地図


大きな地図



妙心寺 塔頭 その4  のMarker List

No. 名称 緯度 経度
14  妙心寺 大通院 35.0239 135.72
15  妙心寺 春光院 35.024 135.7194
16  妙心寺 麟祥院 35.0242 135.7203
17  妙心寺 智勝院 35.0247 135.7202
18  妙心寺 壽聖院 35.025 135.7193
19  妙心寺 天祥院 35.0249 135.7189
20  妙心寺 金牛院 35.025 135.7197
21  妙心寺 天球院 35.0254 135.7196
22  妙心寺 隣華院 35.0253 135.7204

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