嵯峨南陵
嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ) 2009年1月12日訪問
史跡名勝天然記念物に指定されている天龍寺の庭園を拝観した後、今年度最後の訪問地に向かう。2008年5月10日、京都駅に降り立ち小雨の泉涌寺に最初に訪れて以来、幸いにも8ヶ月の間に何回か京都に来る機会ができた。その間に少しずつ、一般的には観光名所とはよばれない場所も含めて、訪問箇所が広がってきた。京都の全土を網羅的に見たわけではなく、結局見てきたものを書いている間に、見落とした場所を再度訪問していたことに気が付く。すなわち、書く度に泉涌寺や東福寺の周辺を、また歩いていてしまったというのが素直な感想である。2009度以降に撮影した写真も多く残っているため、まだまだブログを終えることはできないようだ。
日も暮れて写真を撮影できる時間も、あと僅かになりつつある。最後に後嵯峨天皇と亀山天皇の陵を訪問するのが当初の予定であった。庫裏の北側にあると思われた陵への入口が分からない。通りかかったお寺の方に伺うと、北側の墓地に繋がる門の中ということだった。門には竹棒が横に渡され、明らかに入門を拒んでいるように見えたため、ここではないと思い込んでいた。天皇陵は宮内庁の管理下にあるため、自由に参拝できると考えていたが、それも違っていたのかもしれない。とりあえず墓地の中へ入らせていただくと、庫裏の北側に檜皮葺宝形造の法華堂2棟が東西方向に建ち並ぶ。向かって右側の嵯峨南陵に第88代後嵯峨天皇、左側の亀山陵には第90代亀山天皇が祀られている。
大覚寺や妙心寺 その3で何回か書いてきたように、後嵯峨天皇は両統迭立とそれに続く南北朝時代を生み出す契機となった天皇であり、亀山天皇は最初の大覚寺統の天皇である 後嵯峨天皇は承久2年(1220)に土御門天皇の第二皇子・邦仁親王として生まれている。後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた承久の乱は翌年の承久3年(1221)5月14日に起きている。この乱の戦後処理として、同年7月に後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流が行なわれる。また討幕計画に反対していた土御門上皇も、自ら望んで土佐国(後に阿波国へ移される)へ配流されている。さらに後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇は廃され、行助法親王の子が即位し、10歳で後堀河天皇となる。
若い後堀河天皇に代わり、父親の守貞親王が後高倉院として院政を敷き、実質的には母方の九条道家や西園寺公経によって承久の乱の後処理が行われる。後堀河天皇は院政を行うべく、貞永元年(1232)2歳の四条天皇に譲位している。笠原秀彦著「歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか」(中央公論新社 2001年刊)によると、この譲位に対して幕府が反対であったばかりか、近衛天皇や六条天皇そして承久の廃帝である仲恭天皇の例より、幼少にして皇位を踏むことに将来を危ぶむ声もあったとしている。元来病弱であった後堀河上皇は院政開始後2年足らずの天福2年(1234)に23歳で崩御し、観音寺陵に葬られる。そして四条天皇も仁治3年(1241)事故がもとで12歳の若さで崩御する。父の後堀河天皇と同様に泉涌寺の月輪陵に葬られる。この2代にわたる天皇の死は、後鳥羽法皇の生霊のなせる怪異であるなどと噂されたといわれる。 若くして崩御した四条天皇には兄弟も跡継ぎも存在しなかった。そのため、当然のように皇位継承を巡る物議が持ち上がる。当時、実権を握っていた九条道家や西園寺公経らは、順徳天皇の皇子である忠成王の即位を画策する。しかし幕府の強い反対にあい断念せざるを得ない状況に追い込まれる。承久の乱で、後鳥羽上皇とともに順徳上皇も佐渡に配流されている。順徳上皇の皇子であり第85代仲恭天皇は廃帝になっている。20年経ったとしても、その兄弟の忠成王を幕府が即位させることはできなかったと思われる。11日間の空位期間を挟んで、ついに土御門上皇の皇子である邦仁王が擁立されることとなる。乱に積極的に関与しなかった土御門上皇の皇子が、幕府にとって次善として選ばれたと考えるのが妥当であろう。また皇位継承者の選定が幕府主導に行われるようになったのもこの時期からである。
承久2年(1220)に生まれた邦仁親王は、乱の後に母方の源通方のもとに身を寄せ、その後祖母である承明門院のいる土御門殿にて養育されてきた。しかし土御門家一門の経済状態も良くなかったため、苦しい生活を送ってきた。さらに、その上23歳を過ぎても元服もままならないという中途半端な状況に置かれていた。指名された仁治3年(1241)土御門殿で元服を果たし、四条隆親の冷泉万里小路殿で践祚し、まもなく即位して後嵯峨天皇となった。
後嵯峨天皇は、寛元4年(1246)わずか在位4年で、4歳の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始している。そして、正嘉2年(1258)後深草天皇の同母弟で10歳の恒仁親王(亀山天皇)を皇太子とし、翌正元元年(1259)後深草天皇から恒仁親王に譲位を促している。さらに文永5年(1268)には後深草天皇の第2皇子煕仁親王をさしおいて、亀山天皇の第2皇子世仁親王(後宇多天皇)を皇太子としている。この後嵯峨上皇の行為は、少しでも長く自らの院政を継続するためであったと考えられているが、両統迭立(持明院統と大覚寺統)を生み出したことは事実であった。後の後宇多天皇を皇太子にしたことからも、亀山天皇を自らの後継者としその子孫に皇統を伝える意図を持っていたことは推測できるものの、上皇はその意図を明確にせずに文永9年(1272)に崩御している。後継者を指名する文言は残されておらず、次代の治天の指名は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけが示されたことが、さらに問題を複雑化したのではないだろうか。
鎌倉幕府は両統迭立の定着を図るため、正安3年(1301)治天・天皇の交替を要求し、皇太子邦治親王(後二条天皇)が践祚している。後二条天皇は後宇多上皇の第1皇子であり、後宇多上皇による院政が開始することとなった。
文永9年(1272)2月17日に崩御された嵯峨天皇は、同月19日に薬草院で火葬され、翌日、遺骨は銀の壺に納められ浄金剛院に安置された。文永11年(1274)法華堂の落慶のとき同堂に移し納めた。その後、中世に入り山陵が所在不明になる。細井知慎の「元禄諸陵周垣成就記」、松崎祐之の「歴史徴」、蒲生君平の「山陵志」そして「山陵私記」など、後嵯峨天皇陵の所在地を求めてきた。現在、治定されている地は、平塚瓢斎が嘉永7年(1854)にまとめた「陵墓一隅抄」に依っている。瓢斎は天龍寺方丈北雲居庵の四辺の場所と、現在の陵の位置を指摘している。文久2年(1862)より始まった修陵の際に同地に治定され、元治元年(1864)11月起工され、慶応元年5月6日竣工に際して山陵修補竣工巡検使野々宮中納言が遣され、奉幣があった。亀山天皇陵とともに浄金剛院法華堂とよばれていたものは、亀山天皇の亀山殿法華堂にと嵯峨殿法華堂と称されるようになる。そして明治39年(1906)嵯峨陵と号され、明治45年(1912)嵯峨南陵と改称された。火葬所は天龍寺裏山に、後伏見天皇および亀山天皇とともに、同域内にある。
天龍寺の項で触れたように現在の天龍寺の地には、かつて後嵯峨天皇が造営した亀山殿が存在していた。亀山殿が建立され最初の移徒が行なわれたのは、慶長7年(1255)のこととされている。譲位したのが寛元4年(1246)であり、その翌年より後鳥羽上皇の先例に倣い祖母承明門のもとへの正月御幸始、続いて石清水や賀茂行幸を行なうなど、次第に行動範囲を広げて行った。在位中は京より離れることができなかったが、譲位したことにより宇治行幸や熊野詣そして西園寺氏が管理していた鳥羽殿への行幸も可能になった。建長5年(1253)山科実雄が造営した嵯峨御所への行幸が行なわれたことから、小規模ながら院御所の造営が行なわれていたと考えられている。そして完成した亀山殿への後嵯峨上皇の移徒の経路は一条大路から西大宮大路を南に下り、近衛大路で西に曲がり、そのまま西に向かう。そして法金剛院を経由して嵯峨大路を西に向かい清涼寺から南下するというものだったらしい。近衛大路は現在の出水通で妙心寺道となる。「京都坊目誌」によると上ノ下立売通が嵯峨大路とされていた。すなわち妙心寺の南総門前を過ぎ法金剛院の北側から双ヶ丘の東麓を南に下る道が妙心寺道であり上ノ下立売通でもある。さらに西に進むと、清涼寺に行き着く。清涼寺の山門を南に進むと現在の天龍寺の総門の前を通り、大堰川と渡月橋に着く。すでに荒廃した右京の先に、双ヶ丘の南そして法金剛院から嵯峨大路と呼ばれる道が整備されていたことは、注目すべきことであろう。13世紀中葉の亀山殿を中心とした嵯峨全域の開発によるインフラの整備とともに、それ以前から発展してきた京への木材輸送の拠点としての嵯峨も見逃すことはできない。 原田正俊氏の「中世の嵯峨と天龍寺」(「講座 蓮如」第4巻 平凡社 1997年刊)は、中世嵯峨の地域社会と天龍寺を中心とする禅宗寺院とのつながりを3つの絵図を用いて考えたものである。この論文には、南北朝期に作成された「山科国亀山殿屋敷地指図」、貞和3年(1347)の「山科国臨川寺領大井郷界畔絵図」そして応永33年(1426)の「山科国嵯峨諸寺応永鈞命絵図」が掲載されている。特に最後の「山科国嵯峨諸寺応永鈞命絵図」は、天龍寺所蔵の重要文化財に指定されている「応永鈞命絵図(絵本著色 240×272センチメートル)」をもとに、主となる寺院の名称を活字に書き起こしているため、非常に判読しやすい絵図にとなっている。この絵図の添状より、応永33年(1426)9月に4代将軍足利義持の命によって臨川寺住持月渓中珊が作成したことが分かる。西を上にして描かれた絵図には、西は亀山、南は嵐山に接し、中央に天龍寺、臨川寺そして釈迦堂をはじめとし、関係する寺院や塔頭など100以上の名が確認できる。天龍寺を基点として夢窓国師の法嗣春屋妙葩によって禅宗社会が統一を持ち、夢窓国師一門が極めて隆盛を誇った室町時代初期の天龍寺の繁栄を示す絵図でもある。この論文には掲載されていないが、天龍寺に所蔵されている「嵯峨遮那院御領絵図」は建永2年(1207)に作成されたもので、未だ天龍寺の開創や亀山殿の造営前の嵯峨の状況を描いたものである。この絵図から「応永鈞命絵図」までは200年以上の年月が過ぎている。この4枚の絵図が嵯峨の開発と禅宗の興隆の歴史を現している。
特に「山科国亀山殿屋敷地指図」から「山科国嵯峨諸寺応永鈞命絵図」を見ると、亀山殿から天龍寺への変遷がよく分かる。亀山殿の北に北殿御所、寿量院殿そして後嵯峨天皇が火葬されたとされる薬草院が建てられ、さらにその北に、浄金剛院と後嵯峨天皇の遺骨が納められた法華堂を見ることができる。亀山殿の北端は現在の天龍寺の総門と法堂を結ぶ線より南に位置していたとされていることから、現在の方丈と庫裏の北側に山陵があったとする現在の説も否定できない。
応永鈞命絵図を含む3枚の絵図は、木村拓生氏の「中世嵯峨の都市的発展と大堰川交通」(都市文化研究3号 2004年)に転載されているので、こちらを参照すれば見ることができる。
この記事へのコメントはありません。