東福寺 龍吟庵 その3
東福寺 龍吟庵(とうふくじ りゅうぎんあん)その3 2009/11/28訪問
2008年秋に引き続き、2009年も龍吟庵特別拝観のため、東福寺を訪れる。前回と同じように6時発の新幹線で東京を出る。今回はJR京都駅より徒歩ではなく、JR奈良線に乗車し東福寺駅で下車してみた。乗り換えの時間を入れるとほぼ歩くのと変わらないことが確認できた。京都から東福寺までの区間の料金精算に多少の時間を要したが、東福寺へ向かう人々の列に加わり、前へ前へと進む。
北門から入り霊源院の前の太い道を進み、退耕庵の前を曲がる。さらに月下門を過ぎ、いよいよ臥雲橋に入る。臥雲橋は通天橋を背景とした洗玉澗の紅葉の絶好の鑑賞場所となっている。立ち止まり禁止とはなっているものの、橋の東側欄干沿いに写真を撮影する人々が滞留している。既に通天橋の上にも多くの拝観者が写真撮影を行なっているように見える。今年の紅葉は素晴らしいようで、人出もまた素晴らしいものになっている。
中央の日下門から境内に入り、方丈と通天橋の前の広場に出る。既に通天橋への入場を待つ人が巨大な列を成している。一瞬立ち止まったものの、目的地である龍吟庵が混み合う前に拝観をしたいので、先を急ぐ。方丈と本堂の間を入って行くと、突き当りにある旧鹿児島藩士招魂碑を示す道標に即宗院の特別公開を示す看板が見える。11月は室町庭園を特別公開していることを示すと共に「関白藤原兼実月輪殿旧蹟」と記してある。 これを左に折れると、偃月橋越しに龍吟庵方丈の屋根が見えてくる。この場所から偃月橋は少し下った位置に架けられているため、見下ろしとなる。橋の東側には例の国宝龍吟庵の看板が今年も出ている。慶長8年(1603)築の偃月橋は桁行11間、梁間1間、単層切妻造の桟瓦葺の屋根を持つ木造橋廊で重要文化財に指定されている。普段はこの橋と洗玉澗を見るものしか訪れないが、この日は龍吟庵の公開によって人出は多い
龍吟庵は、東福寺第3世大明国師の最晩年の住房とされている。正応4年(1291)に国師が遷化すると塔所となり、東福寺塔頭の第一位に置かれるようになる。
無関普門禅師(大明国師)は建暦2年(1212)に信濃国に生まれ、13歳で越後国正円寺において出家する。19歳の時に上野国長楽寺で栄朝禅師から菩薩戒を受け、栄西禅師から受け継がれた禅を学ぶ。関東や北越を遊歴した後、東福寺の円爾禅師に参禅する。その後、建長3年(1251)宋に渡り、弘長元年(1261)の帰国までの約10年間 浄慈寺の断橋妙倫に参禅する。ここにおいて断橋禅師の法を嗣ぎ、禅の深興に達する。帰国後、禅師は再び正円寺に戻り、静かに坐禅三昧の時を過すが、弘安3年(1280)東福寺円爾禅師が病気であることを知り、既に70歳に達してはいたが上洛する。同年、円爾禅師は遷化し、その後を継いだ第2代住持も数ヶ月で退任したため、弘安4年(1281)一条実経により東福寺第3世住持に迎えられている。
ちなみに、無関普門を招いた一条実経は東福寺の開基である九条道家の4男として生まれている。兄で次男の二条良実が九条道家と不仲な関係にあったのに比べ、実経は父から愛されていたようで、寛元4年(1246)正月28日に関白、藤原氏長者となり、翌日に後嵯峨天皇が譲位したため、後深草天皇の摂政となっている。また関東申次の職務の一部も代行する。東福寺 その6で記したように、その直後に鎌倉で起こった宮騒動に連座した実経は、寛元5年(1247)1月19日に摂政、内覧そして藤原氏長者を辞している。これは事実上の罷免である。これは道家による鎌倉幕府への介入を排除しようとした執権北条時頼の措置であったが、実経は父道家の道連れとなった感が強い。この後の弘長3年(1263)には左大臣に還任し、文永2年(1265)には再度の関白宣下となっている。しかし同年に左大臣を辞し、翌々年の文永4年(1267)に関白も辞している。そして無関普門を東福寺第3世住持として迎えた後の弘安7年1284年には自らも出家し行祚を号している。山城国山崎の円明寺で晩年を過ごし、弘安7年(1284)に薨去。享年62、圓明寺関白と号す。墓は東福寺内の一条家墓所にある。自らが建立した常楽庵、すなわち普門院と共に公開されている開山堂には実経像が安置され、その背後の一条家八代墓(実経、家経、内実、内経、経通、経嗣、兼良、冬良)の中心に実経の墓がある。また開山堂の東の丘の上には宝形造りの堂宇と共に一条家墓所がある。いずれも非公開部分である。
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