天龍寺 その6
臨済宗 天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ)その6 2009年11月29日訪問
国司信濃が天龍寺に駐留し蛤御門に進攻した経緯と薩摩軍の長州兵掃討隊が天龍寺全山を焼失させた状況については、寿寧院月航住職に日単に詳細に残されている。この日単については、「古寺巡礼 京都 天龍寺」(淡交社 1976年刊)でかなりのページを割いて掲載されている。また石田孝喜氏の「幕末京都史跡大辞典」(新人物往来社 2009年刊)の福田理兵衛邸跡の項にも天龍寺の記録として、ほぼ同じ内容が記載されている。
禁門の変の前段として、文久元年(1861)天龍寺は毛利家が入京した際の宿舎となっている。この時は家来が来寺しただけで、毛利公の宿泊はなかったようだ。その後、岩国藩主吉川経幹の宿所となったと日単には簡単に記されている。天龍寺を長州藩の旅館として斡旋したのは、下嵯峨村で材木問屋を営む福田理兵衛であった。理兵衛は下嵯峨村の庄屋、総年寄、村吏を勤める一方、長州藩の支援者として有名な在野の勤皇家でもある。文久2年(1862)末、天竜寺の用達であった理兵衛は、長州藩士の楢原善兵衛より同寺の借用を依頼されている。翌文久3年(1863)1月、寺の借用に関し長州藩側として交渉斡旋し、天龍寺山内24ヶ寺、清涼寺ほか民家30戸を借入している。そして天龍寺に長州旅館の門標を掲げている。以後、長州藩の御用達となり一切の経理をまかされ、経済面で莫大な支援を行なっている。
同年2月、世子毛利定広が寺町二条の妙満寺から天龍寺へ移った際、理兵衛は隣村まで出迎えに行き、謁見を賜っているし、上記のように岩国藩主吉川経幹が代理で天龍寺に訪れた時にも、全て長州藩世子毛利定広に準じて待遇している。既にこの頃には、天龍寺を宿舎として使用する永代借用の契約を長州藩は結んでいるが、その交渉には理兵衛が当たっていた。天龍寺を藩主並びにその代理人の旅館となった際には、料理の供給、資金調達の斡旋から、出立時に残された道具類の保管まで命じられていた。すなわち福田理兵衛が長州藩と天龍寺の関係を深めたとも言える。
八月十八日の政変の時も、理兵衛は長州藩邸と妙法院の間の連絡役を買って出ており、後に京都に潜伏する桂小五郎などの長州藩士の便宜も図っている。
そして元治元年(1864)6月28日明け方に突如して長州藩兵凡そ1000名余が現れ、第一大方丈を本陣、大庫裏を炊事場とする。大将の国司信濃は妙智院に、副将の児玉民部は真乗院に居することとなる。この時も福田理兵衛は、兵糧米およびその他一切の雑品を牛車で運び込んでいる。第二本山執事である真乗院以明と延慶庵温洲に対して長州藩士奈良林某が説明したところでは、来京の目的は国元で蟄居している毛利父子の嘆願を朝廷に行なうためであり、その宿舎として諸伽藍ならびに塔頭数ヶ寺を貸与して欲しいとのことだった。執事は町奉行と所司代にお伺いをたてないと貸与することができないとの返答であった。
山内の数ヶ寺だけでなく、境内、池畔そして表門から裏門そして間道や亀山の頂にも兵が陣取るようになる。さらに数日すると総門前の石橋の脇に木砲2門を据え、門戸を閉ざし寺僧といえども出入りを改めるようになっていく。さらに総門内に1門、中門と弘源寺の間に2門、大方丈の裏の池畔から亀山に向けて1門、そして三軒屋東手の藪の中から渡月橋を狙う2門、亀山の頂から安堵橋方向(太秦)に向けて2門を設置している。さらに3日から5日経つと兵の数は更に増え、北は清涼寺本堂から広沢要行院から南は法輪寺及び松尾神社までに至り、夜間の篝火が数千箇所に及び、幾万の軍勢が駐屯している様に見えたとしている。
7月10日より警備は厳重になり、南は芹川橋より北は大門町石橋まで竹柵を巡らせ、要所要所に関門を設けている。芹川橋とは芹川の大堰川に注ぎこむ場所、現在の三条通に架かる橋のことであろう。また北の大門町石橋は嵯峨釈迦堂大門町の地名の残るあたりだろうか。いずれにしても当時の天龍寺は広大な寺域であったことから臨川寺から清涼寺までの芹川沿いに竹柵を設け、警備強化を図ったということだろう。そしてこの日、和総門前の金剛院へ本山事務所を移している。金剛院は造路の北の角に天龍寺の境外塔頭として現存している。そして14日には寺僧全て総門の外へ立ち退くように迫られる。15日の法要の後、祖塔を守護する僧1名と小僧2名を塔所に残し、総門外に退去している。この日より門外に出ることも門内に入ることもできず、「不自由極マル」とある。
そして遂に19日丑刻(2時頃)本陣にて法螺貝が吹かれ、兵が法堂前に整列を始める。そして一隊毎に本陣内に入り、すぐに戻り元の場所で整列する。これを繰り返した後に、本陣内に太鼓三声が轟き、京に向かって出陣した。これが午前3時頃のことだったようだ。午前6時には福田理兵衛が陣営の返謝として金300円を持参している。毛利家が朝敵となるため、寺門に災いが降りかからないように、長州軍の幕を取り除き、寺門の幕を張り、高張提灯等も取り替えた上で、境内の清掃を行ない平常を整えている。長州軍の大砲は既に境内にはなく、総門前の木砲2門おんみが残っていたようだ。
同日午前8時頃から11時頃まで敗兵負傷兵が三々五々と帰ってくるが、門内には入らず渡月橋を渡り西国街道を南下し山崎に向かって立ち去って行った。この日の明け方に金地院僧録より、兵火の心配はないので、宝物や什器等はそのままにして寺僧だけではなく門前の民も思い思いに避難を始めた。
翌20日午前8時頃、今度は薩摩兵数百名が長州兵掃討のため、天龍寺に攻め寄せている。島津図書、島津備後の両将を先鋒に、小松帯刀自らが一番隊、二番隊と三番隊を率いて双ヶ丘から広沢の池に沿って天龍寺に至っている。小銃を数百発撃ちながら山内を捜索したが、既に長州兵は退去し、寺僧も避難したため境内は無人であった。薩摩兵は数両の荷車を集め、兵器は勿論とし米300石、雑具を山のように収集し、自らの陣営である相国寺に運び始めている。さらに土蔵を破り什器等を持ち去っている。執事の滴水長老が制止しても略奪は続き、「是、実ニ白昼ノ強盗ト云テ可ナリ」とある。
荷の搬出が終わった午前11時頃、大砲数門を発し、法堂、客殿、大小庫裏、書院、開山堂、侍真寮、土蔵4箇所、僧堂(雲居院)、多宝院(聖廟 13棟)塔頭の松岩寺、妙智院、真乗院、永明院、三秀院、龍昇院の6カ寺が灰燼と帰している。さらに洗心亭や隣地の三軒屋へ類焼している。
石田孝喜氏の「幕末京都史跡大辞典」(新人物往来社 2009年刊)の天龍寺 長州藩屯所跡によると、この掃討戦に三番隊長として参戦した柴山景綱は、
火薬庫および兵器などは焼きすて、残されていた米穀は、兵火に罹災した貧民に分ち与えて、凱旋した
と語っている。柴山景綱は柴山竜五郎のことで、文久2年(1862)寺田屋事件の際には、大山巌、西郷従道、三島通庸、篠原国幹、永山弥一郎など共に2階にいたため、事件後に投降している。この寺田屋事件のこと、そして天龍寺での長州兵掃討については、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに所蔵されている「柴山景綱事歴」(山崎忠和著 非売品 1896年刊)に記されている。
天龍寺を長州藩に斡旋した福田理兵衛と信太郎の父子は来島の遊撃隊に加わる。しかし敗戦により下桂の山口薫次郎や上桂の武田伊勢介を密訪した後、理兵衛は大阪に逃れ8月5日に三田尻に上陸している。子の信太郎も同年冬には薩摩艦に便乗し三田尻に上陸している。理兵衛邸は車折神社の西100メートルの三条通の北にあったとされ、現在の嵯峨中通町あたりだと思われる。理兵衛父子が禁門の変に参戦したため、家財は公売に付され、家宅は破却されている。長州では京都の功績により優遇されたが、京に戻ることなく明治5年(1872)4月13日防府宮市で逝去している。
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