天龍寺 塔頭
天龍寺 塔頭(てんりゅうじ たっちゅう) 2009年11月29日訪問
既に天龍寺 その6で触れたように、元治元年(1864)7月19日の早朝に天龍寺を進発した国司信濃軍は、蛤御門で奮戦するも、ついに幕府軍に撃退される。敗兵は進軍の道を辿り嵯峨に戻った後、渡月橋を渡り西国街道(物集女街道)を南下し山崎経由で長州に去っていった。翌20日の朝、長州兵を掃討すべき攻め寄せてきた薩摩軍の砲撃によって、天龍寺は灰燼に帰している。既に長州兵が立ち去った後であり、寺僧も避難していた中なので、なにも全山焼失までの必要がなかったようにも思えるが、賊軍に加勢(福田理兵衛によって宿舎を提供)した天龍寺にも“然るべき制裁”が必要だったのかもしれないし、略奪を隠蔽するためのものだったかもしれない。いずれにしても、「塔頭子院百五十カ寺」とも表現されていた創建時に盛観は、この日を以て完全に失われた。 さらに追い打ちを掛ける様に、明治10年(1877)太政官布告により、諸藩の領地及び社寺の境内の上地されることとなる。これにより天龍寺は嵐山53町歩(蔵王堂境内175町歩を除く)、亀山全山、嵯峨の平坦部4Km四方の境内ほとんどを上地されている。その結果、現在の境内地は十分の一の30ha(3万坪)に過ぎない。上記の禁門の変がなければ、嵐山は別としても、臨川寺周辺から川端一帯、それから京福電鉄付近には塔頭が残存し。寺有地として当然のことながら保存されるべきであった。そういう意味でも禁門の変による“制裁”がいかに嵯峨野の景観を変えてしまったことに今更ながら気がつかされる。
再び重要文化財に指定されている「応永鈞命図(絵本著色 240×272センチメートル)」を眺めてみる。二尊院や釈迦堂(清凉寺)等が描かれているものの、現在の丸太町通より南側、天下龍門すなわち京福電気鉄道嵐山本線嵐電嵯峨駅あたりの西側は、ほぼ天龍寺の塔頭と寺領で占められていたことが確認できる。この広大な面積に広がる天龍寺は現在の姿とは全く異なるものである。
「古寺巡礼 京都 天龍寺」(淡交社 1976年刊)P116に掲載している「現在の天龍寺伽藍図」によると、総門より西側の山内塔頭は妙智院、寿寧院、等観院、永明院、宝厳院、松巌寺、慈済院、弘源寺、三秀院の9院である。またこの図では弘源寺と宝厳院が隣接した形となっている。現在の宝厳院は、法堂の南側に位置していることから、その移転が比較的新しい(平成14年 2002年)ものであったことも分かる。また三秀院の東、総門の脇に南芳院という小さな塔頭が地図の上で確認できる。また、寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には、雲居菴、妙智院と真乗院の図絵が掲載されている。それぞれの図絵には、
天龍寺 雲居菴 此林泉も夢窓国師の作り給ふ庭荘也
天龍寺塔頭 妙智院 林泉 策彦和尚所作
天龍塔頭 真乗院 林泉 細川三斎翁所作といふ
と記されている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会には天龍寺の伽藍の図絵が掲載されている。この図絵は文化12年(1815)の火災、さらには元治元年(1864)の禁門の変の戦火に罹る前の天龍寺の姿を現わしている。
小林善仁氏の論文「近代初頭における天龍寺境内地の景観とその変化」には、天龍寺文書の嘉永3年(1850)「絵図目録」より作成した江戸時代末期の天龍寺の塔頭一覧が掲載されている。これによると、天龍寺境内には雲居庵を始めとした20塔頭、それから臨川寺とその8塔頭、鹿王院とその塔頭2。さらには宝篋院や西芳寺、地蔵院など10塔頭を加え42塔頭としている。また同じく小林善仁氏の論文「山城国葛野郡天龍寺の境内地処分と関係資料」には、天龍寺の境内地処分がどのように行われたかが分かる年表、天龍寺境内地における塔頭の合併状況表、そして明治8年(1875)から同9年にかけての天龍寺境内地の状況図が掲載されている。ここには元治元年(1864)の戦火に焼かれた後の天龍寺復興の状況が現れている。この後、上地により塔頭の統廃合や移転が行なわれていくため、現在の姿とは全く異なったものである。
三条通に面した臨川寺の東には蔵光庵と寿寧院が並ぶが、蔵光庵は寿寧院に合併し、やがて天龍寺境内の栖松軒跡地へ移転したため、建物取払いのうえ上地となっている。現在、嵯峨嵐山良彌とその駐車場となっているあたりである。金剛院は造路の北角から移動していないように見える。
天龍寺の総門を入ると北側には、招慶院、維北軒、慈済院、南芳院が並ぶ。南芳院の地には、明治10年(1877)真乗院と合併した松巌寺が移り、南芳院とも合併し寺号を松巌寺としている。慈済院は福寿院と明治5年(1872)に合併している。維北軒も弘源寺と明治17年(1884)に合併し、寺号を弘源寺と改称している。招慶院は明治5年(1872)に喜春軒と合併し、寺号を招慶院と改称するが、明治21年(1888)兵庫県神戸区福原町へ移転している。三秀院は養清軒と明治9年(1876)に合併し、寺号を三秀院と改称する。そのさらに明治12年(1879)瑞雲院(山城国乙訓郡大山崎)を合併している。こうして南芳院、三秀院、弘源寺、慈済院、松巌寺の並びになる。なお松巌寺の南に八幡宮が移されたのは明治8年(1875)のことである。
総門の南側には、禅昌院、華蔵院、栖松軒そして永明院が並んでいた。この内、華蔵院は明治10年(1877)に妙智院と合併し、妙智院に改称されている。そして明治14年(1881)に禅昌院も合併されている。明治15年(1882)栖松軒は建物を存置したまま天龍寺に合併される。同年に前述のように臨川寺の東側にあった寿寧院が栖松軒跡地に移ってくる。永明院は禁門の変の後、慶応2年(1865)に再興される。等観院が現在の地に移ったのは、明治9年(1876)遺構のことであっただろう。永明院の南側には真乗院があったが、松岩寺と合併し南芳院の地に移ったため、現在は湯豆腐嵯峨野と旧小林家住宅になっている。
現在の大堰川から法堂へ続く道の西側には北から松巌院、妙智院、多宝院そして三秀院が並んでいた。松巌院は、前述のように明治10年(1877)に真乗院と南芳院に合併し、南芳院のあった地に移っている。現在は禅堂、晴耕館や天龍寺直営の精進料理店「篩月」などが建っている。その南側にあった妙智院も明治10年(1877)に華蔵院と合併したため総門の南側に移っている。また、明治9年(1877)に養清軒と合併した三秀院も、明治21年(1888)に兵庫県に移って行った招慶院の跡である総門の北側に移っている。この妙智院、多宝院そして三秀院のあたりは、宝厳院と小倉百人一首殿堂時雨殿と嵐亭になっている。
天龍寺の塔頭も泉涌寺の塔頭と同じく七福神巡りが行なわれている。一般的な七福神は、恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋であるが、こちらは寿老人と布袋の替わりに稲荷大明神と不動明王が加わっている。
■01 妙智院
亨徳2年(1453)に竺雲等連が開山として創建。戦国時代には二度の入明を通じて明の禅文化をもたらした策彦周良が住持となり、この寺院で示寂する。旧跡は現在の長慶天皇嵯峨東陵あたりと思われる。華蔵院(明治10年)と禅昌院(明治14年)を合併し、再建される。
宝徳稲荷大明神
■02 寿寧院
夢窓国師の門弟である龍湫周丹の開基。臨川寺の子院。旧跡は臨川寺の東側で芹川との間。一時廃絶したが,明治18年(1885)に廃寺となった栖林軒の跡地に移される。不動明王図を多く描いた龍湫周丹の絵画が遺されている。
身守不動明王
■03 等観院
至徳3年(1386)徳叟周佐が開基した正持庵を復興したとされる。また一説には明治18年(1885)に廃寺となった京都府向日市寺戸の正持庵を復興したものとされている。
■04 永明院
文禄2年(1593)天龍寺第46世住持、大岳周崇を開基に水野守信が創建。
恵比寿
■05 宝厳院
寛正2年(1461)室町幕府の管領であった細川頼之により、天龍寺の開山である夢窓国師の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に迎え創建。 その後、天龍寺塔頭弘源寺内にあったが現在の地(旧塔頭跡)に移転再興。
■06 松巌寺
文和2年(1353)源氏物語の注釈で知られる公家四辻善成の建立。晦谷祖曇を開祖とする。明治になって南芳院の跡地に真乗院を合併し、再建される。
福禄寿
■07 慈済院
貞治2年(1363)創建。天龍寺第二世、無極志玄を開基とする。明治5年(1872)塔頭福寿院を合併する。元治元年(1864)の天龍寺大火を免れたため、室町時代の建築様式が残る。
水槢福寿台弁財天
■08 弘源寺
文安3年(1446)細川持之が創建。開基は玉岫英種。当時は落柿舎のあたりにあったが、明治16年(1883)に維北軒を合併して天龍寺境内に移転する。元治元年(1864)の天龍寺大火を免れたため、室町時代、江戸時代の建築様式が残る。
三國傳来毘沙門天
■09 三秀院
貞治2年(1363)に夢窓国師の法嗣不遷法序を開基として創建される。後に荒廃するが後水尾天皇によって寛文年間(1661~72)に中興される。明治5年(1872)に養静軒を合併して現地に再建される。
東向福聚大黒天
■10 南芳院
明治までは現在の松巌寺の位置にあったが、明治3年(1870)に廃絶され、近年再興される。禅僧のヘンリ・ミトワ氏(http://akai-kutsu.org/akai-kutsu/H.Mittwer.html : リンク先が無くなりました )が留護する塔頭としても知られている。何度かテレビでお見かけしたことがあったが、つい最近お亡くなりになったこと(http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20120605000012 : リンク先が無くなりました )を知った。
先の嘉永3年(1850)に存在していた42塔頭の名称を以下に記しておく。
■天龍寺境内
雲居庵 →禁門の変で焼失
多宝院 →禁門の変で焼失
喜春軒 →招慶院に合併
弘源寺 現存
維北軒 →弘源寺に合併
慈濟院 現存
南芳院 →松巌寺に合併→近年復興→現存
禅昌院 →妙智院に合併
松岩寺 現存(松巌院)
妙智院 現存
三秀院 現存
養清軒 →三秀院に合併
真乗院 →松巌寺に合併
永明院 現存
龍昇院 →禁門の変で焼失
栖松軒 →天龍寺に合併
宝徳院
華蔵院 →妙智院に合併
逸休庵
栖林軒 →廃寺
■臨川寺境内
臨川寺 現存
三會院 →臨川寺の建物名称として残る
金剛院 現存
吉祥庵
梅陽軒
福寿庵 →慈済院に合併
蔵光庵 →寿寧院に合併
寿寧院 現存
華徳院
■鹿王院境内
鹿王院 現存
正圓庵
瑞応院 →曇華院に売却
■その他
宝寿院 京都市右京区嵯峨朝日町29
応永鈞命絵図によればもう少し西にあったと思われる
法苑寺 応永鈞命絵図によれば現在の嵐山小学校の西あたりか
招慶院 →兵庫県神戸区福原町に転出 宝篋院 現存
西芳寺 現存
地蔵院 京都市西京区山田北ノ町23 臨済宗系単立寺院
延慶庵 →地蔵院に合併
龍濟軒 →地蔵院に合併
崇恩寺 向日市物集女町中海道93
景徳寺 所在不明 応永鈞命絵図によれば金剛院の北あたりか
「天龍寺 塔頭」 の地図
天龍寺 塔頭 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 天龍寺 妙智院 | 35.0153 | 135.6766 |
02 | ▼ 天龍寺 寿寧院 | 35.0151 | 135.6758 |
03 | ▼ 天龍寺 等観院 | 35.0151 | 135.6754 |
04 | ▼ 天龍寺 永明院 | 35.0151 | 135.6751 |
05 | ▼ 天龍寺 宝厳院 | 35.0147 | 135.6736 |
06 | ▼ 天龍寺 松巌院 | 35.0162 | 135.6748 |
07 | ▼ 天龍寺 慈済院 | 35.0162 | 135.6754 |
08 | ▼ 天龍寺 弘源寺 | 35.0163 | 135.676 |
09 | ▼ 天龍寺 三秀院 | 35.0162 | 135.6767 |
10 | ▼ 天龍寺 南芳院 | 35.016 | 135.6769 |
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