文書と写真・地図による「記憶」の再現

アーカイブ:2014年 11月 30日

京都御苑 桜町 その2

 

京都御苑 桜町(きょうとぎょえん さくらまち)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 桜町 紀氏遺蹟碑 2014年10月8日撮影  京都御苑 桜町では、いくつかの地誌から、紀貫之邸は中御門北、万里小路東の左京一条四坊十二町、あるいは勘解由小路北、富小路東の左京一条四坊十四町にあったと考えられてきた。ここでは、紀氏遺蹟碑が残る仙洞御所の阿古瀬淵と紀貫之との関係についてみてゆく。 紀氏遺蹟碑の建つ仙洞御所の地には、かつて豊臣秀吉の京都新城があったと考えられている。聚楽第破却後の豊臣家の京における拠点として、慶長2年(1597)4月末から京都新城の建設が始まっている。既に、京都御所 その3、高台寺 その3でも書いた通りである。その位置は「言経卿記」(「大日本古記録 言経卿記 7」(東京大学史料編… ►続きを読む

 

京都御苑 桜町

 

京都御苑 桜町(きょうとぎょえん さくらまち) 2010年1月17日訪問 京都御苑 桜町  博覧会場跡の駒札のある富小路広場に紀貫之邸跡を説明する駒札も建てられている。 京都御苑 その他の邸宅 その3でも記したように、平安京左京一条四坊十二町にあたる。この地に平安時代前期の歌人・紀貫之の邸宅が所在したことは「拾芥抄」の下記の記述に従っている。 桜町 同(中御門北)万里小路東 南庭多桜樹故号 歌仙貫之之家  貫之が南庭に桜樹を多く植えたことから、この名が付いたとしている。駒札の説明では、源氏物語の末摘花の邸宅、桐壺帝の麗景殿女御とその妹花散里の暮らしていた中川邸、源氏が空蝉と出会った紀伊守中川家がこの付近を想定して描かれたとしている。  ただし紀貫之邸については、鴨長明の「無名抄」の貫之家 ある人… ►続きを読む

 

京都御苑 博覧会場跡 その2

 

京都御苑 博覧会場跡(きょうとぎょえん はくらんかいじょうあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 博覧会場跡地  明治14年(1881)の第十回からは現在の富小路広場で常設博覧会場として行われた。これは大宮御所が取り壊されることとなり、新たな会場を用意しなければならなかったためである。 「京都区分一覧之図、改正、附リ山城八郡丹波三郡」は明治9年(1876)の状況を現わした地図でまだ公家町が残っている。大内保存事業は明治10年(1877)に行われた明治天皇大和国並京都行幸以降の事である。明治18年(1885)の「明治新刻京都区組分細図」には既に博覧会場が描かれている。ただし明治25年(1892)の「京都」の方が建物の大きさや屋根形状などは実際に近いだろう。フィールド・ミュージアム京都… ►続きを読む

 

サイト ナビゲーション

投稿カレンダー

2014年11月
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930

過去の記事

カテゴリー

最近の投稿