徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2014年 12月 27日

京都御苑 賀陽宮邸跡 その3

 

京都御苑 賀陽宮邸跡(きょうとぎょえん かやのみやていあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 賀陽宮邸跡 貽範碑  京都御苑 賀陽宮邸跡 その2が条約勅許と将軍継嗣問題の行方で紙数が尽きた。ここでは更に進めて朝彦親王を中心とした安政の大獄について書いてみる。 安政5年(1858)4月23日、彦根藩主・井伊直弼は大老が就任すると、翌24日には堀田正睦をハリスに会見させ条約調印の延期を申し込んでいる。そして25日に調印期日を7月27日まで延期することに成功する。6月朔日、幕府は養君一件を公式に発表するが、誰を世子としたかは明かさなかった。幕府閣僚たちが世論の反発を憚ったためであるが… ►続きを読む

 

京都御苑 賀陽宮邸跡 その2

 

京都御苑 賀陽宮邸跡(きょうとぎょえん かやのみやていあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 賀陽宮邸跡 2014年10月8日撮影  京都御苑 賀陽宮邸跡では安政年間に入るまでの朝彦親王の事蹟について書いてきた。ここでは親王の周囲に集まってきた有志の人々とそれが親王自身に与えた影響について考えてみる。  「野史台 維新史料叢書 雑3」(東京大学出版会 1975年刊)に所収されている「唱義聞見録」によれば、池内大学は四条通の商家に生まれ、儒学者で書家そして文人画家の貫名海屋に学ぶ。その学問詩文は人の知るところとなり、知恩院宮尊超親王に仕えるようになる。宮に従い関東に下り3年を過ご… ►続きを読む

 

京都御苑 賀陽宮邸跡

 

京都御苑 賀陽宮邸跡(きょうとぎょえん かやのみやていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 賀陽宮邸跡  出水の小川の苑路を挟んで東側に貽範碑と賀陽宮邸跡の駒札が残されている。西側の烏丸通からこの一帯にかけて、かつての朝彦親王の邸宅があった。そしてその庭に榧の巨木があったことから賀陽宮と称したとある。親王は青蓮院門跡、天台座主をつとめ孝明天皇の信任厚く天皇を助けてきたが、その公武合体政策は尊皇攘夷派から敵視され、明治維新後は広島に移されたと駒札は記している。最後に貽範碑建設に名を連ねた梨本宮守正王が朝彦親王の第4王子であることを付け加えている。 中川宮朝彦親王が元治元年(1864)… ►続きを読む

 
 

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