京都御苑 貽範碑
京都御苑 貽範碑(きょうとぎょえん いはんひ) 2010年1月17日訪問
京都御苑 賀陽宮邸跡 その3で記したように明治元年(1868)8月16日、朝彦親王は広島に流謫されている。奇しくも文久3年(1863)8月18日から丁度15年となる2日前の出来事であった。翌3年(1870)閏10月20日の見邸帰還までの凡そ2年間を広島で過ごしたことになる。人より疎まれていると感じていた親王が冤罪と訴えることなく広島に去って行った背景には、恐らく安政の大獄で感じ得たものがあったと思う。
賀陽宮邸跡には昭和6年(1931)に貽範碑が建てられている。貽範と難しい言葉であるが、貽は残や遺などと同じ「のこす」という意味を持つ。つまり模範となるものを将来の人々に贈り残すということになる。碑の東面に嵌められた銅板には下記のような言葉が見える。
恭シク惟ルニ朝彦親王懿親ノ思寄
ヲ荷ヒテ夙ニ力ヲ国事ニ尽シ維新
ノ大業ニ献替スル所少カラズ後胤
ノ茂栄亦積善ノ餘慶ヲ被ル茲ニ薨
後四十年ニ値ヒ児孫相謀リ守正王
ノ題表ヲ請ヒテ碑ヲ其邸阯ニ建テ
永ク報恩景仰ノ微衷ヲ致ス
「朝彦親王景仰録」(西濃印刷出版部 1942年発行 皇學館 2011年覆刻)の「朝彦親王の御遺蹟」によれば、親王がこの地に屋敷を賜ったのは文久3年(1863)10月19日のことであった。そして同月29日には新しい屋敷に移徒されている。国際日本文化研究センターが所蔵する文久3年の「内裏図」には「新御殿 御旧地」と記されている通り、恭礼門院の女院御所として使われていた場所である。恭礼門院とは、関白一条兼香の女・一条富子のことであり寛保3年(1743)に生まれている。桃園天皇の女御であり後桃園天皇および伏見宮貞行親王の母となる。国母となった富子は、明和8年(1771)に皇太后に冊立され、即日院号が宣下され恭礼門院の院号を受けて新女院、後に女院と称された。安永8年(1779)に後桃園天皇が崩御した後も、孫の欣子内親王を手元で養育し、光格天皇へ入内、中宮に冊立されるのを見届けた後、寛政7年(1795)に崩御している。享年53。 文久3年の「内裏図」には、未だ賀陽宮邸が描かれていなかったが、「別冊太陽 京都古地図散歩」(平凡社 No86 1994年夏刊)に掲載されている慶応2年(1866)の「校正再刻 内裏細見之図」では、北側が「御旧地」、南側が「嘉陽宮」となっている。さらに慶応4年(1868)に刊行された「改正京町御絵図細見大成」(「もち歩き 幕末京都散歩」(人文社 2012年刊))では、「御旧地」は無くなり「嘉陽宮」のみとなっている。
以上のように賀陽宮邸は下立売御門の東側に位置し、北東には御花畑、南東には九条殿があった。そのため元治元年(1864)の甲子戦争において、西の天龍寺から凝華洞(御花畑)の松平容保を目指した国司信濃軍は、中立売御門、蛤御門そして下立売御門で戦闘状態に入っている。また遅れて山崎から攻め込んだ真木和泉軍も鷹司殿に籠もったため、隣りの九条殿の間で激しい銃撃戦を引き起こしている。長州軍は意図していなかったかもしれないが、攻撃の対象としていた会津藩の極近くに八月十八日の政変で長州藩の追い落としを図った中川宮朝彦親王の屋敷があり、これらの周辺で激しい戦闘が行われた。親王は戦闘が始まる前に既に参内していたため、賀陽宮邸で戦闘に巻き込まれることはなかった。しかし禁裏にも長州軍の銃弾が到達していたため、決して安全な場所に居たという訳ではなかった。
慶応2年(1866)将軍徳川家茂そして孝明天皇の相次ぐ崩御に伴い、政治的な発言力を失い参内する機会も少なくなった朝彦親王は、邸宅を移ることなくこの御所の近傍の地で明治維新を迎えている。そして明治元年(1868)8月、この地より広島に向かっている。明治3年(1870)閏10月20日に京に戻ると、賀陽宮邸ではなく伏見邸に入っている。
しかし明治7年(1874)11月20日にかつての賀陽宮邸を静寛院宮旧邸として再び下賜されている。静寛宮とは和宮親子内親王のことである。父である仁孝天皇陵の参拝と徳川家寛典処分の御礼のため上洛を願っていた静寛院宮は、明治2年(1869)1月18日に東海道を京都へと向かい、2月3日に帰着している。聖護院に入り2月24日に参内し明治天皇との対面している。同年5月19日には京都在住の沙汰が下り、宿所であった聖護院が栄御殿と改称される。仁孝天皇二十五回忌にあたる明治3年(1870)1月25日、輿入れ以来念願であった仁孝天皇陵への参拝を果たしている。静寛院宮が下立売の屋敷に入ったのは明治4年(1871)4月5日のことであった。「続日本史籍協会叢書 静寛院宮御日記」(東京大学出版会 1927年発行 1976年覆刻)の同日の条に以下のように記されている。
五日 天晴 醍醐宮内権大丞出門見届ニて直ニ新殿へ廻ル巳刻出門ニて移徒橋本正二位出匆々来られ御所御初より給り物所々より到来物あり
ここで明治7年(1874)までの凡そ4年を過ごした後、再び東京に戻っている。つまり親王に旧邸宅地が下賜されたのは静寛院宮が東京に戻ってから後のことであり、その沙汰には岩倉具視が関わっていたとされている。翌明治8年(1875)1月29日に親王は移徒を行っている。
明治8年(1875)に新たな久邇宮家を創設した朝彦親王は、東京へ移住することもなく伊勢神宮の祭主を務め、皇學館大学を創立している。そして明治24年(1891)に没している。碑の作られた昭和6年(1931)は親王の没後40年にあたる。既に徳富蘇峰による「維新回天史の一面 久迩宮朝彦親王を中心としての考察」(民友社 1929年刊)も発刊されている。また明治6年(1873)に生まれ、久邇宮を継いだ邦彦王も昭和4年(1929)に没しているので、この建碑の頃の久邇宮家当主は、朝彦親王の孫にあたる朝融王である。
先の「朝彦親王の御遺蹟」によれば、文学博士内藤虎次郎が貽範の語を選び、碑文は梨本宮守正王の筆による。碑石は高さ6尺2寸、幅九尺四寸の自然石で、かつての庭園の小高い場所に建てられている。
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