京都御苑 中山邸跡
京都御苑 中山邸跡(きょうとぎょえん なかやまていあと) 2010年1月17日訪問
年末年始の特集ということで、京都の地図を3回(その2・その3)にわたって書いてみました。GoogleMapやYahooMapなどのオンライン地図は非常に便利ですが、いざオフライン環境で地図を持って歩こうとすると結構大変なことになるという実験になってしまいました。ただもう少し改善する余地はあると思うので、いつかの機会にまた報告してみたい。
さて2014年6月以来書いてきた京都御所と京都御苑について、さらに書き続けて行く。次第に幕末史に触れることが多くなってきたが、最終的には甲子戦争と京都御所について今回は考えてみたい。
中山邸については既に京都御苑の三井として、京都御苑 祐ノ井で取り上げている。権大納言・中山忠能の次女・中山慶子は天保6年(1836)に生まれている。嘉永4年(1851)3月に典侍御雇として宮中に出仕した慶子は4月に典侍に進み、7月には権典侍を称している。懐妊の兆しが見られたのは翌嘉永5年(1852)3月で、典薬寮医師女医博士賀川満崇の診断では四ヶ月を経ていた。そして同年9月22日に中山邸で皇子祐宮(睦仁親王)を出産している。 祐ノ井は祐宮の産湯を汲んだ井戸とされることもあるが、この井戸が掘られたのは嘉永6年(1853)の夏であった。日照りとなり邸内の井戸が全て枯れた中で、清浄な水がこんこんと湧き出たことから親王の幼名に因んで祐ノ井と名付けられている。祐宮の産湯は陰陽頭土御門晴雄の勘文に依り、出町橋の上流の水を嘉永5年(1852)9月4日に汲んでいる。井戸の傍らには明治10年(1877)が中山忠能建立の祐井碑があり、この碑文にも以下のように記されているので明白である。
嘉永六年夏京師大旱第内諸井皆涸時
上生而二年尚以幼沖在第官因令鑿新井於此深
三丈八尺清泉忽涌出第内頼得蘇息者凡五十有
餘人事聞 先帝大喜錫号曰祐井蓋祐者
明治天皇御集 : 類纂謹註には以下の明治36年(1903)の明治天皇御製は、かつて過ごした邸の井戸を懐かしむ歌である。
故郷井
わがために汲みつときゝし祐の井の
水はいまなほなつかしきかな (三六)
また、類題昭憲皇太后御集にも昭憲皇后の下記の歌も残されている。
寄水祝
わが君のうぶゆとなりし祐の井の
水は千代までかれじとぞ思ふ (四十四年)
祐の井 サチノ井、京都御苑内ニアリ。
皇后の歌は明治44年(1911)に詠まれているが、当然「うぶゆとなりし」は誤りである。
羽林家の家格を有し権大納言を務める中山家も、御領は僅かに200石に過ぎなかった。家格に比べ収入も少なく他の公卿屋敷に比べても狭かったため、祐宮のための御産所を新築する場所と普請の工面には相当頭を悩ましたようだ。このことについては既に、大佛次郎の「天皇の世紀」(朝日新聞出版 2005年刊)を引用して説明したので繰り返さない。特に幕末期には宮中も公卿達も日々の生活に困窮していた。
中山慶子の父である忠能は文化6年(1809)生まれで、弘化4年(1847年)には権大納言を務めている。嘉永6年(1853)ペリーが来航し通商を求めた際には攘夷論を主張し、条約締結を巡り関白九条尚忠を批判している。特に安政5年(1858)江戸幕府老中の堀田正睦が上洛し条約の勅許による許可を求めた際には、正親町三条実愛らと共に廷臣八十八卿列参事件を起こしている。既に京都御苑 賀陽宮邸跡 その2でも書いたように、九条関白が作成した勅答案には「何共御返答之被遊方無之此上ハ於関東可有御勘考様御頼被遊度候事」(「孝明天皇紀 巻78」(平安神宮 1967年刊)3月20日の条「長谷家記」)という一文が加えられ、結局は幕府に一任するという内容だった。中山忠能と正親町三条実愛らの廷臣八十八卿列参事件によって九条関白の勅答案は否定され、改めて三条実萬等複数の公家によって作成されることとなる。安政5年(1858)3月20日、参内した堀田正睦に交付された勅答は、2月23日の朝旨に戻り、更に衆議し言上せよという内容であった。中山忠能らの行動により孝明天皇の真意に近いものに戻すことができたが、下級公家が宮廷の政策決定に対して介入する契機を与えた事件でもあった。 安政の大獄においては同じ権大納言の実愛が慎十日にあったのに対して忠能は罪を免れている。これは嘉永2年(1849)以降、安政4年(1857)に至るまで議奏加勢に8度補せられているが、いずれも短期間であったこと。さらに安政5年(1858)3月7日に9度目の議奏加勢に補せられ、同年5月10日には議奏に進んだものの、議奏に対する処罰は久我建通の5日間の慎のみであった。
桜田門の変以降、忠能は久我建通、正親町三条実愛そして岩倉具視らと公武合体政策を進め、万延元年(1860)10月20日には和宮と14代将軍・徳川家茂の縁組の御用掛に任じられ、翌文久元年(1861)10月20日には和宮江戸下向に随行し、同年12月26日に帰洛している。文久2年(1862)4月、島津久光と毛利定広が国事周旋のために入京すると、忠能は大原重徳を勅使とすることを進言し、幕府に宣示すべき叡旨の大綱の諮問に関与している。6月23日に関白九条尚忠が職を辞すると、尊攘激派の攻撃は和宮降嫁に尽力したとされる四奸二嬪に向けられる。忠能や実愛も四奸に含まれなかったなかったが、同じく議奏の久我建通と岩倉具視が四奸に名指しされた。7月24日に岩倉等は病と称して近習辞職を申し出、忠能や実愛の議奏も和宮降嫁に関与したということから翌25日に進退伺いを提出している。これに満足しない三条実美、姉小路公知ら激派堂上13人は弾劾文に連署し、関白近衛忠煕に提出している。8月20日の朝議により岩倉等の辞官落飾を請わせこれを許したが、翌21日の忠能と実愛の引責辞職は許されず差控が命ぜられた。そして同月25日に久我建通にも辞官・蟄居・落飾が命ぜられ、二嬪の辞職・隠居も決まっている。さらに閏8月25日関白を辞した九条尚忠も落飾・重慎に処せられている。これでも激派の排斥運動は収まらず、九条関白と四奸二嬪に天誅を加えよと説く者もあった。その急先鋒が忠能の七男の中山忠光であった。朝議は9月25日に尚忠と四奸二嬪の洛中居住を禁じ洛外への退去を追加している。
差控を命じられた忠能は、閏8月3日に許されている。翌日には再び議奏を辞することを請うているが許されなかった。その上に12月9日には近衛関白、一条左大臣、二条右大臣そして青蓮院朝彦親王とともに議奏の中山忠能は、正親町三条実愛、三条実美とともに国事御用掛を兼帯している。これは軽挙妄動を戒めるために発言の機会を与える言路開明政策の一環でもあった。しかし翌文久3年(1863)正月22日、大阪で池内大学が暗殺され、その両耳が忠能と実愛の屋敷に投げ込まれ、三日以内に辞職・退隠しなければ大学と同じこととなると脅迫されている。両卿は直ちに退役を申し出て正月27日に許される。忠能にとっては安政5年(1858)5月以来の議奏を解かれることとなる。2月13日に国事参政と国事寄人が置かれたことにより、国事御用掛の実権は激派堂上が占める参政・寄人に移っている。この時、実愛の次男の正親町公董と七男の中山忠光そして公董の養父の正親町実徳が寄人となっている。この新設によって国事御用掛は有名無実となった。そのためか2月14日には権大納言をも辞任している。
文久3年(1863)3月19日、同志と事を挙げようとした中山忠光は屋敷を脱して、大阪を経て長州に入っている。同月晦日に官位を返上し、大和挙兵の主将として加わるが八月十八日の政変によって、大和行幸自体が中止する。天誅組は幕府の追討に遭い、吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂等主だった者は戦死、忠光は大坂へ脱出し長州に逃れている。政変の後、忠能は議奏再役を仰せ付かるが固辞する。正親町三条実愛と共に議奏格となったが、ほとんど参内することがなく11月4日に議奏格を辞めている。忠光が大和挙兵に加担したため8月28日に、忠能は長男の忠愛と連署で義絶届を提出している。忠愛が義絶しなければならなかったのは、忠光が忠愛の嗣子となっていたためである。
元治元年(1864)2月25日、忠光は建議書二通を関白二条斉敬に提出している。一通は鎖港の期限を定め国防の完備を期すべしと述べ、もう一通は毛利敬親及び三条実美等を寛典に処することを上申している。甲子戦争勃発時にも、攘夷を実行した長州藩に対して同情を寄せる宮や堂上が多く存在した。7月12日、忠能は大炊御門家信等58人連署の上書を提出している。ここでは長州藩に対し寛大な処置を講じ、藩主父子の入京を早々に許し攘夷の叡慮を貫徹するように建議している。しかし返答がなかったため、17日申刻(午後4時)に忠能は家信等と参内し関白に面会を請うたが許されず、御所に留まり翌18日の巳刻(午前10時)に退出している。この18日の深夜から翌19日早朝にかけて伏見・嵯峨・山崎の陣営から進発した長州軍は禁中に向け行軍し甲子戦争が起こる。戦闘終結後の7月27日、変当日の18日の行動が不審とされ大炊御門家信、正親町実徳とともに参朝が停止されている。宮中への復帰は、孝明天皇崩御後の慶応3年(1867)正月25日のことであった。元治元年(1864)8月及び慶応2年(1866)8月の延臣二十二卿列参など先帝の時代に朝譴を蒙った宮と堂上の復権は明治天皇践祚の直後に行われ、王政復古へと一気に流れは進んで行く。
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