京都御苑 近衛邸跡 その4
京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その4 2010年1月17日訪問
京都御苑 近衛邸跡 その3では、幕末の近衛家の当主である近衛忠煕の経歴と戊午の密勅の降下後から安政の大獄が始まるまでの間に近衛家が関わった政治活動を薩摩藩士・西郷隆盛を中心に書いてみた。ここからは月照と津崎村岡の活動と、近衛忠煕の落飾後のことについて見て行く。
月照は文化10年(1813)大阪の町医者・玉井宗江の子として生まれている。俗名は宗久。父に伴われ叔父の蔵海が住持する成就院に文政8年(1825)と翌9年(1826)に訪れている。そして文政10年(1827)1月14日に上京し成就院蔵海の室に投じている。2月17日に名を久丸に改め、3月7日に園権中納言の猶子となる。成就院では代々堂上公卿方の縁組をすることが倣いとなっていた。猶子となることで家格が上がるとともに、堂上方にとっても財源となっていた。そして4月23日に得度を受け忍鎧となる。この日、寺役人栗山瀬平の二男金弥も12歳で得度し独朗となっている。後年帰俗し、王事に奔走する月照を助ける近藤正慎となる。近藤正慎の事績については、清水寺 成就院と東山の町並み その2で調べていますので、ご参照ください。
文政12年(1829)3月7日には5歳年下の弟の綱五郎が蔵海に弟子入りをしている。10月9日に得度し信海と称している。天保6年(1835)療養していた蔵海が4月21日に遷化している。手続きの上では、5月12日に蔵海の隠居願いが出され、月照を後任の住持に指名している。そして同月15日に月照が成就院第24世となっている。嘉永2年(1849)正月10日に忍向に改名している。なお一般に介している月照は雅名として使用していたもので、いつ頃から用いたかは明確ではない。嘉永6年(1852)10月8日に月照と署名しているが、私的なことに、特に国事に奔走するようになってから使用頻度が増えているようだ。
月照が成就院にあったのは嘉永6年(1852)の6月頃までであった。既に同4年(1850)2月4日に成就院住持の退職願いを出している。元々病弱であり、各地に出養生を行うなどをしてきたが、この頃から一所に住み続けることができなくなっていたようだ。再び4月17日に隠居願いを提出したが却下さている。そして嘉永6年(1852)7月、円養院の無着と三越と信濃への旅に出ている。大病と称して一山には無言で旅に出たため出奔とされている。その後、京に戻り東山の清閑寺や洛北の円通寺に移っている。このような行動が仏道修行ではなく山内不和による寺務を怠ったとされ、境外隠居に処せられている。嘉永7年(1853)2月2日には信海が成就院の後任住持となり、月照は望んでいたように自由の身となった。それから安政5年(1858)までの間、1年に2ないし3度居を変えている。嘉永7年(1853)3月頃に清閑寺にいた月照は、5月には円通寺に移っている。その後も成就院を訪問、岩上の石上寺での逗留を行い、再び円通寺に戻っている。安政2年(1855)の正月を円通寺で迎えた月照は、正月13日に大徳寺小含庵に移る。しかし40日ほどで高台寺春光院に再び移っている。ここで1年弱を過ごしたが、安政3年(1856)正月19日には春光院を離れ長楽寺山内の小林良典の空座敷に移っている。4月4日に高台寺玉雲院、8月24日に岡崎近久座敷、12月14日東福寺霊雲院へと目まぐるしく移動している。安政4年(1857)4月2日には東福寺即宗院の採薪亭に移っている。即宗院は薩摩藩の菩提寺で氏久公の法名「齢岳玄久即宗院」を寺名としている。この後さらに月照は居を移しているが、友松圓諦著「月照」(吉川弘文館 1961年刊)にも最後の止住地は不明としている。それでも安政5年(1858)9月9日に柳馬場の旅宿鍵直(柳馬場通錦小路上ル東側)に、「朝いまだほのぐらきに」現われているので、それ程離れた地にはいなかったのではと推測している。
月照と青蓮院宮との最初の関係は、既に京都御苑 賀陽宮邸跡 その2で書いた。つまり月照が住持であった清水寺は、青蓮院宮の入室していた興福寺一乗院の支配下にあった。月照は上記のように文化10年(1813)生まれに対して、青蓮院宮は文政7年(1824)と10歳以上の隔たりがある。徳田武氏は「朝彦親王伝 維新史を動かした皇魁」(勉誠出版 2011年刊)で、清水寺成就院の忍向(月照)が一乗院に天保8年(1837)10月20日に参殿したこと、また青蓮院に入室した直後の嘉永5年(1852)4月11日の初参内を祝う会に出席したことに注目している。最初の一乗院での面会は、宮14歳、月照25歳のことであった。そして青蓮院に入室した時に宮は29歳になっていた。このように月照が青蓮院宮に出会ったのは、政治活動開始以前のものであった。 また近衛家が清水寺にとって大切な祈檀であったということも月照と近衛家との関係の始まりとなっている。先代の蔵海の時代から既に近衛家が成就院に参詣した記録が残っており、文政10年(1827)の入寺以降でも、天保3年(1833)6月14日に「近衛様御簾中、薩州岸姫様御参詣、中将様御出迎」とある。蔵海示寂後の天保11年(1841)12月11日に近衛家が光格天皇崩御に伴い「天子御葬送」の絵巻物を借りに来ている。同12年(1842)11月15日には近衛家に直参し「関東御台様より御寿命長久等」の願望のため白銀3枚を貰っている。さらに同月20日に参殿し祈祷の巻数を献上しているのが、正式に月照が近衛家を訪問した最初のことだと考えられている。このように仏教を通じた近衛家との関係とは別に、歌道を通じて個人的に近衛忠煕に近づいていったのは嘉永7年(1854)9月頃とされている。これは成就院を信海に託した後の時期にあたる。これ以降、近衛家との交渉が多くなり、月照は近衛忠煕と青蓮院宮さらに薩摩藩と水戸藩を結ぶ役割を担うようになる。
上記のように、安政2年(1855)2月末に高台寺春光院に移り、翌3年(1856)1月29日に長楽寺、4月4日に高台寺玉雲院、8月24日に岡崎近久座敷、12月14日に東福寺霊雲院、そして安政4年(1857)4月2日に東福寺即宗院の採薪亭と東山を南北に転々と引越しを繰り返している。さらに友松圓諦著「月照」(吉川弘文館 1961年刊)では、同年閏5月以降あるいは同年の秋頃に新たな場所に移ったと推測している。このあたりが青蓮院と成就院そして近衛邸と三条邸をつなぐ上で外すことの出来ない地域であったのだろう。なお、石田孝喜氏の「幕末京都史跡大事典」(新人物往来社 2009年刊)の東山区18 春光院の項には、春光院の改築にあたり月照は長楽寺境内云々亭に移り、薩摩藩原田才輔の執り成しと一乗院宮から近衛公に内願により、
安政四年になって、山内宝性院に移り住むことができ、
やがて再び成就院の信海の所に同居するようになった。
としている。また採薪亭が月照と西郷の密談の場であったとするならば、西郷が安政4年(1857)春の帰藩で京都に立ち寄った時のことであろう。月照は安政4年の内には採薪亭を引き払い、宝性院あるいは、新たな地に移ったと考えられるからである。なお清閑寺の郭公亭も月照と西郷が国事を語り、ともに身の振り方を相談した場所とも言われているが、寺井史郎編の「京都史跡めぐり」(1934年刊)では、清閑寺郭公亭を下記のように記している。
而して此一小庵こそは、明治維新に回天の偉業を奏せる
中心人物西郷南洲、当時の吉之助と、清水寺の忍向上人と
肝膽を砕いて国事を語らひたる遺蹟だと云ひ伝へられて
ゐるが、未だ確たる資料を得ない。
近衛忠煕にとって、月照の捕縛は全ての仕組みを白日の下に曝すことにつながる。だからこそ梅田雲浜の就縛を知った後、西郷隆盛に護衛を頼み縁のある薩摩藩内で月照を匿う事を依頼している。月照もまた、近衛忠煕に与える影響の大きさを十分に理解していたからこそ、9月10日の参殿の後すぐに京を出て伏見に入っている。しかし2ヶ月前とは全く状況が変わっている。薩摩で月照と西郷の庇護者となってくれるはずの島津斉彬は7月16日に既に亡くなっている。西郷も確たる予測が立たないまま月照を預かったのではないかと思われる。江戸の日下部伊三次と堀仲左衛門に宛てた安政5年(1858)9月17日の書簡(「西郷隆盛全集 第一巻」(大和書房 1976年刊)1・三二)には以下のように記されている。
一 月照一条より
陽明家些か御弱りの御模様にて苦心の事に御座候。
鷹右府公は小林へ鵜飼より余程責め掛け候処、
案外張込み罷り成り、大慶の儀に御座候。就いては
左府公御儀に付いては決して御案じ下され間敷
「左府公御儀に付いては決して御案じ下され間敷」とは書いたものの、西郷に確証があったのか?いずれにしても梅田ただ一人の就縛の報せが正義派に十分な恐怖感を与えるものとなった。さらにこのように京方が脆いということを長野主膳は既に見抜いていたと云っても良いだろう。
近衛公が思い悩んだように、もし月照が幕府に捕縛されたら恐らく近衛家と薩摩藩の関係が更に大きく取り上げられることとなっただろう。しかし近衛自身の罪状がさらに重くなったかと云えば疑問である。たとえそうなったとしても三条前内大臣を越える事は無かっただろうと推測する。
また月照にとっては近衛家を護ることで必死であったが、自らの罪状を理解していただろうか?恐らく逃れられない運命にあることに気が付いていたと思われる。さらに西郷自身も月照次第では幕府に就縛されていたかもしれない。率兵上京、大老の罷免、幕政改革の実行など島津斉彬の許で企画されたにもかかわらず、斉彬の急逝によって実行に移さなかった計画を、薩摩藩は一転して隠蔽しなければならなくなった。「もしも」は無駄ではあるものの、島津斉彬が安政5年(1958)末まで生き永らえたら、井伊大老の政治生命も変わっただろうし、さらには月照自体も自死する必要が無くなったのかもしれない。いずれにしても長野主膳の強引な仕掛けだけで安政の大獄が生まれたわけではない。正義派側にとっても幾つかの誤算や失策を重ねたため、安政大獄は止める事ができないほど大きくなったと云ってもよいだろう。
西郷隆盛自身にとっても安政の大獄は大きな転機となった。生き延びたことを幕府が知ったならば、水戸藩の安島帯刀、鵜飼父子、茅根伊予之介、越前藩の橋本左内、長州藩の吉田松陰と同じく斬罪になっていたかもしれない。西郷と月照が京を離れる時に仕掛けた有志藩による義兵がさらに具体化していたならば、井伊直弼の憎悪をさらに掻き立て、水戸藩に次ぐ犠牲者となっていたと思われる。越前藩も長州藩も、水戸藩のような過酷な圧迫を受ける事は無かった。あくまでも幕勢維持のための排除対象者は、水戸藩と主上の取り巻きの正義派と宮廷書生達にすぎない。井伊大老にとっては、それ以外の勢力に対しては、警告を与えたという思いであろう。
薩摩藩と水戸藩との関係が更に深いものであったら状況は一変したであろう。安政の大獄で酷刑に処せられたのは、鵜飼幸吉の獄門、鵜飼吉左衛門・茅根伊予之助・吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎・飯泉喜内の斬罪、そして安島帯刀の切腹と8名だが、就縛前に病死した梁川星巌、獄死した梅田雲浜・日下部伊三治そして自死した月照と生存した西郷隆盛は、例え斬罪を宣告されても井伊大老の差配では不自然ではなかっただろう。そのようなことからもこの歴史の局面に於いて、ほんの少しの違いが生じていたら現在とは大きな違いとなっていたのかもしれない。
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