昭和京都名所圖會 その4
昭和京都名所圖會(しょうわきょうとめいしょずえ)その4
昭和京都名所圖會から その2、その3と3回にわたり竹村俊則の経歴と共に「新撰京都名所圖會」全七巻(白川書院 1965年完結)から「昭和京都名所圖會」全七巻(駸々堂出版 1989年完結)までの執筆の経緯を書いてきました。本来、「新撰京都名所圖會」を完結した時点で当初の竹村の目的が完了していたはずでしたが、彼が予想していた以上に社会の変化が激しかったこと、そして自らの手による挿画が時代から取り残されて行ったことが、二度目の執筆に向わせたと思います。その反省があったため、「昭和京都名所圖會」は「新撰京都名所圖會」とは異なった纏め方となったように見えます。目次を見ても気が付きますが、後者の取り上げる項目の中で近代以降のものが確かに少なくなっています。前者では京都電々ビル、京都新聞社、京都商工会議所、NHK京都放送局、島津製作所三條工場、大丸京都店、大阪ガス京都工場など、京都の近代化を象徴する施設を積極的に取り上げていました。しかし後者では、そのような選択がほとんど見られなくなりました。その分、江戸時代以前の京都について着目しています。つまり新しい文化を代表するものは、またその交代が早く陳腐化していくということを反省した上での変更と考えるのが自然でしょう。そのため、昭和30年代から40年代にかけての風俗風習を色濃く表現した「昭和京都名所圖會」に比べ、「新撰京都名所圖會」は何となく現代性から少し距離を置いた客観的な筆致になっています。前者は既に失われつつある古き良き時代を写し、後者は制作年を感じさせず平安期から受け継がれた京都の歴史を後世に残しています。後者は前者の増補補完であり似た形態を取っているものの、竹原の2つの異なった意図が、それぞれに見事に表現されています。
「竹村俊則と新撰京都名所圖會」(京都産業大学日本文化研究所紀要 第12・13号 2008年刊)を著わした板井博彦氏は、竹村の挿画に見られる点景、特に人物描写に着目している。そして「『都名所図会』『拾遺都名所図会』の竹原春潮斎と比べると、竹村の絵には人物がすくないことがわかる。おそらくは、であるが、竹村は人物の描写が苦手であつた。」と指摘しています。板井氏の指摘は下記のように続いています。
たとへば第三巻『岩神祠』(七一頁)の図など、人を配してその大きさを示してゐるのだが、それは長谷川町子の漫画の「サザエさん」と「ワカメちゃん」である。サザエさんは別の箇所にも登場する。一見これは趣向にも見えるが、その時代の「人物」「風姿」「装束」を描くといふことはほとんどなかつたのである。また祭礼図についても同様である。代わりに目立つのはこの時代らしく市電、バスであり、自動車や二輪であり、場合によつては航空機である。
板井氏の指摘は的を射ているに思われます。ただ「都名所図会」は文章を秋里籬島、挿絵を竹原春朝斎と分業して生まれた図会です。「昭和京都名所圖會」と「新撰京都名所圖會」は竹村俊則一人で作り上げた図会です。画文一致という点では明らかに竹村に軍配が上がると思います。ですから、挿画の描写に限界があっても仕方がないと考えるべきでしょう。ちなみに「昭和京都名所圖會」になると挿画は鳥瞰図に専念し、部分の説明には写真を多用するようになりました。上記の岩神祠も小さな不鮮明な写真を使用しています。そのあたりが「昭和京都名所圖會」に感じる小さな残念な部分であることは確かです。
さて、この項では竹原俊則が「昭和京都名所圖會」で取り上げた寺社仏閣、史跡等を地図上に配置することについて書いて行きます。
先ず「昭和京都名所圖會」の構成から見て行きましょう。全七巻は洛東―上から始まり、洛東―下、洛北、洛西、洛中、洛南、南山城とつながります。つまり洛東の東福寺から始まり北上し、反時計回りに京都の西南部分までを書いた後、さらに洛中から洛南に下り最後は奈良県との県境まで及んでいます。この範囲は京都府の中に納まっているものの京都市の外郭に位置する多くの市町村までを含んでいます。凡例や第六巻のあとがきを読んでも、ただ京都の名所ということ以外は何から範囲を定めたかは分かりません。ただし「新撰京都名所圖會」では凡例の第一行目に以下のように記しています。
一、本書は京都市を中心に乙訓・宇治・久世・綴喜・相楽等、南山城全般にわたり、居ながらにして名所見物ができる京都名所案内記事第一巻(東山の部)である。
とあるので、山城国の名所図会という理解でよいでしょう。山城国は乙訓郡、葛野郡、愛宕郡、紀伊郡、宇治郡、久世郡、綴喜郡、相楽郡の8郡78郷で形成されていました。例えば、京都の観光案内でも取り上げられる常照皇寺は現在の地名では京都市右京区京北井戸町丸山となりますが、かつての丹波国桑田郡に属しますので、今は京都市内でありながらも「昭和京都名所圖會」には掲載されていません。また京都市左京区の最北端に位置する久多は愛宕郡久多村であったため思古淵神社や久多ノ滝、久多ノ岩屋が取り上げられています。
各巻はさらに小さな地域毎に纏められています。第一巻の洛東―上は月輪、今熊野、阿弥陀の峰、清水と八坂、真葛ヶ原の5つに分かれています。なお目次には書いてありませんが、月輪の章の最初のページには「月輪 ―東福寺とその門前町―」というサブタイトル付になっています。また各章の最初の項目はその章を代表する地名の説明から始まっています。月輪の章では月輪の地名の説明を最初に行っています。
目次には大項目と一文字頭落ちした中項目の2つに分けられています。例えば東福寺の下には通天橋から始まり、開山堂(常楽庵)、普門院、一条家八代墓、最勝金剛院、毘沙門谷、偃月橋の中項目が並び、続いて竜吟庵から南明院までの塔頭名も中項目として記されています。本文は247頁で上記の大項目が119件、中項目は125件、合計247件となります。しかし本文を見て行くと、目次に記されていない中項目とさらに中項目の下に作られた小項目が存在する事に気がつきます。例えば、目次では大項目の東福寺の下は通天橋から始まりますが、本文では通天橋の前に六波羅門、三門、東司、禅堂、成就宮、十三重石塔、仏殿、銅鐘、方丈庭園の9項目が挿入されています。また中項目の竜吟庵の下に新たに開山堂と庭園が小項目として記されています。
このような3段構成以外にも文中に太文字表示の項目もありますが、これ等はデータ項目からは除きました。このように本文で追加された項目142件を加えると第一巻全体で389項目になりました。
第一巻の389項目と同じように数えていきますと、第二巻で377項目、第三巻で416項目、第四巻で497件、第五巻で533件、第六巻で482件、そして第七巻では遂に676件に達しました。巻を書き進めるにつれて、ほんの些細な事柄でも立項していったため、全巻総計3370件になったのではないでしょうか。
上記のように3370件の一つ一つに対して緯度と経度を割り当てて行かなければなりません。例えば東福寺、六波羅門、三門、東司、禅堂、成就宮などは既に今までに調べた座標値を使用することで対応ができました。このように過去に調べた座標値の利用は半分程度ありました。残りの座標は一つ一つ地図上の位置を確認しながら座標値を採取しなければなりません。上記の月輪を例に挙げるならば、最初の地名としての月輪も地図上の対象範囲のほぼ中央部分の座標を使いました。次の法性寺址は現在の地図上での表記がないので、竹村が推定した箇所の座標を”推定”として採用いたしました。
また、毘沙門谷や万寿寺の藤原実頼墓のようにかつては存在していたもので、現在ではその所在が分からなくなってしまったものもあります。このようなものも凡その位置を入力し“不明”というフラグを立てることとなります。
例えば龍吟庵 開山堂や龍吟庵 庭園の座標値はGoogle Mapの航空写真モードで簡単に見つけることができました。梅津清景塔はいくら航空写真を拡大しても探し出せませんでした。最終的には大体の位置を基にして、その辺り一体をストリートビューで見つけだしました。菅公清公墓や女郎花塚・頼風塚も同じ方法で辿り着く事が出来ました。どちらも2つの建物の間の路地を入って行くと奥に空間が広がっている墳墓でした。入口には小さな石碑が建てられていますが、普段歩いていても見つけることが出来ない程、目立たないものでした。予め路地の入口を確認していなければ、見つけることの出来なかった史跡です。
また、即宗院 自然居士墓も以前から時間をかけて探していました。事前の調べではなかなか場所を特定できないまま、大まかな範囲を特定しただけで現地に行きました。案の定、現地で30分以上彷徨った末に、民家の脇のフェンスで区切られた雑草の生い茂った中に見つけ出すことが出来ました。結局ストリートビューが無い部分であったため、事前に見つけることが出来ないことも確認できました。このように現地で無駄な時間を使うならば、極力事前準備を行うべきと考えております。
以上のように、「昭和京都名所圖會」に掲載されている項目について、色々な方法で調べた結果が下記の地図です。まだまだ未完成の状況ですが、今後も新たな発見があった場合は更新して行くつもりです。
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