アーカイブ:2018年 8月
南千住 小塚原(みなみせんじゅ こづかはら)その4 2018年8月12日訪問
南千住 小塚原 回向院
南千住 小塚原 その3では、江戸時代に行われた刑罰の説明、処刑の準備から実施、遺骸の処理作業の説明、そして刑場とは関係ないものの同時代に作られた小塚原の火葬寺について記した。この最後の項では明治時代を迎えた小塚原の変遷とこの地に埋葬された人々の数について書いていくつもりである。 慶応4年(1868)4月11日、徳川慶喜が水戸へ退去し、江戸が無血開城する。将軍警護のために結成した彰義隊は、慶喜のいない上野の山に駐屯を続ける。大總督府は江戸からの旧幕府勢力の一掃を目指し、同年5月14日輪王… ►続きを読む
南千住 小塚原(みなみせんじゅ こづかはら)その3 2018年8月12日訪問
南千住 小塚原 日光街道
南千住 小塚原 その2では、小塚原に刑場ができた経緯から、その構成について書いてきた。この項では江戸時代に行われた刑罰の説明、処刑の準備から実施そしてその後にある遺骸処理作業について見て行く。
南千住 小塚原 日光街道
南千住 小塚原 奥の細道 矢立初の芭蕉像 足立区
南千住 小塚原 松尾芭蕉像 荒川区
刑場で執行される刑罰を説明する前に、徳川幕府の刑法の在り方を理解しておく必要がある。江戸時代初期の刑罰には、戦国時代の残酷刑の影響が強く残っていた。つまり見せしめ… ►続きを読む
南千住 小塚原(みなみせんじゅ こづかはら)その2 2018年8月12日訪問
南千住 小塚原 千住宿 本陣跡
南千住 小塚原では、早々からコツ通りに引っかかってしまった。ここからは小塚原に刑場ができるまでの経緯から書き始める。 千住大橋の南側、小塚原町に御仕置場が創設されたのは寛文7年(1667)とされている。黄木土也氏の「小塚原刑場史 その成立から刑場大供養まで」(新風舎 2006年刊)によれば、もともと徳川家康入府前の江戸には本町四丁目に刑場があった。この本町四丁目とは、現在の日本橋本町二丁目から三丁目、すなわちコレド室町の東側で福徳神社を含む現在再開発が行われている地域で東京でも… ►続きを読む
南千住 小塚原(みなみせんじゅ こづかはら)2018年8月12日訪問
南千住 小塚原 日光街道 コツ通り
夏休みの特集として南千住の小塚原と回向院を取り上げます。この夏は非常に暑く遠出ができないと考え、近場で史蹟見学を行いました。回向院には既に数回訪れていましたが、写真も撮影していなかったので、この機会にしっかりと調べてみるつもりで出かけました。ただし拝観時間が16:30までと予想以上に早かったために、一日目は半分も見ることが出来ずに退去しました。拝観時間については回向院の公式HP(http://ekoin.fusow.net/ : リンク先が無くなりました )にも記述がありませんので… ►続きを読む
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