白峯神宮 その5
白峯神宮(しらみねじんぐう)その5 2010年1月17日訪問
白峯神宮 その4では、鳥羽法皇崩御後の崇徳天皇と保元の乱の戦場となった白河北殿と院政政治の中心となった白河街区について見て来た。この項では崇徳天皇の怨霊伝説の始まりから鎮魂のための崇徳廟の造営について調べてみる。
保元元年(1156)7月23日、崇徳上皇は讃岐国へ移される。乱の終結直後、後白河天皇は石清水八幡宮に勝利の報告を宣命で行っている。藤原頼長がいかに猛悪であり、流れ矢に当たって死んだのは神罰であると述べている。そして上皇の配流から乱に加わった者への処罰は法に則った処分であると八幡大菩薩に祈誓している。この時点で天皇は上皇と頼長の怨霊の存在を全く意識していなかった。なお保元の乱の勝者となった藤原忠通は長寛2年(1164)2月19日に亡くなっている。
配流から8年後の長寛2年(1164)8月26日に崇徳上皇は46歳で憤死する。後白河院は、崇徳院の崩御に際して服喪を行うことがなかった上、朝廷も上皇のために何等の措置も施さなかった。後に九条兼実は日記「玉葉」の安元2年(1176)9月17日の条で、上皇の崩御に対して後白河院が何も行わなかったことを非難する人々があったと記している。兼実は藤原忠通の六男で異母姉である皇嘉門院(崇徳天皇の中宮)の猶子となった人物である。ただし兼実が上皇崩御の頃のことを記したのは8年後の安元2年であったことは注意しておくべきであろう。崇徳上皇が亡くなった時も、保元の乱を引き起こした張本人であり罪人であるという後白河院の姿勢に揺るぎはなかった。
山田雄司氏の「崇徳院怨霊の研究」(思文閣出版 2001年刊)によれば、後白河院が崇徳院の怨霊を意識し始めるのは安元3年(1177)のことであった。この年は実に多難な年であった。その前年の同2年(1176)から予兆があった。安元2年後白河法皇が50歳を迎え、正月から祝いの行事が行われたが、法皇の妃である建春門院(平滋子)が6月頃より病に伏し、翌7月8日に35歳の若さで死去している。高倉天皇の実母である滋子の死により平氏一門と院近臣の間の調整役を失うこととなった。異母妹で長男の二条天皇の中宮だった高松院(姝子内親王)が同年6月13日に30歳、孫の六条上皇が7月17日に僅か13歳、異母弟近衛天皇の中宮だった九条院(藤原呈子)も8月19日に46歳で亡くなっている。このような状況を「帝王編年記」は「已上三ヶ月之中、院号四人崩御、希代事也」と記している。後白河院や忠通に関連する人々が相次いで若くして亡くなり、不吉な出来事の始まりを予感させるものであった。安元3年3月22日、山門の大衆が加賀守・藤原師高の配流を求める強訴、すなわち白山事件が生じる。後白河院の近臣である西光の子である師高が加賀守に就任する。その目代となった子の藤原師経が白山の末寺を焼いたことが事件の発端となった。激怒した白山の僧侶が本山の比叡山延暦寺に訴えたことにより、山門と院近臣との衝突に発展していく。後白河院は師経を備後国に流罪にすることで事態の収拾を図るが、山門の大衆は納得せず4月12日に神輿を持ち出して洛中に向かう。院は官兵として平重盛の兵を派遣、大衆との間で衝突が生じる。重盛の兵が放った矢が神輿に当たり神人、宮仕にも死者が発生する事態となった。4月20日、師高の尾張国への配流、神輿に矢を射た重盛の家人の拘禁が決定する。事件は山門の要求を受け入れる形で一応の決着を見る。
白山事件の決着から8日後の4月28日、樋口富小路から出火した火災が、東は富小路、南は六条、西は朱雀そして北は大内裏までの悉くを焼失させた。この大火は太郎焼亡と呼ばれ、大極殿以下八省院の全てと京の三分の一が失われ、京中のいたるところに死骸が転がるような凄惨な災害となった。この大火を体験した鴨長明は世の無常を悟り「方丈記」を記すこととなった。この大火で大極殿を失ったことが朝廷にとって精神的な痛手となった。歴代の天皇が即位する場所は大極殿であったため、皇統を嗣いで行く上で大きな障害となった。この大火により治承4年(1180)4月22日の安徳天皇の即位は紫宸殿で行われている。後に天皇が壇ノ浦で不遇な死を遂げたことより、太政官庁で即位が行われるようになった。この太郎焼亡によって大極殿を焼失して以来再建は行われなかったためである。
同年5月9日、左大臣藤原経宗は右大臣の兼実に、最近相次いで起きている悪事は崇徳院と藤原頼長の祟りによるもので、それを鎮めるのが非常に重要であると述べたとされている。以後、経宗と兼実の間では繰り返し怨霊についての議論が行われ、同13日には崇徳院と頼長をどのように供養するかが問題となっている。しかし最も怨霊を意識したのは後白河院であった。既に前年の安元2年に清原頼業、中原師尚、藤原永範、中原師直等に讃岐院と頼長の処遇についての勘文の提出が命じられている。「院号四人崩御」の状況より崇徳院の怨霊の存在に気がつき、それを確証したのが大極殿焼失であったのであろう。
藤原実房の日記・「愚昧記」によれば、太郎焼亡直後の5月13日に白河の成勝寺で国忌が行われ法華八講を行うべき旨が勘文に記されている。成勝寺は保延5年(1139)崇徳天皇の御願によって創建された六勝寺の一つである。讃岐の崇徳院墓所でも朝廷主導の追善供養が計画され、併せて頼長についても贈官位を行うことで鎮魂を図ろうとしている。これが最初期の崇徳院と頼長に対する朝廷と後白河院による供養の企画である。後白河法皇は院政期としては最も熊野詣でを行った上皇として知られている。また京の南にある新熊野、新日吉の両社は法皇の法住寺殿の近くに自らが創建させた社である。
太郎焼亡に引き続き6月には鹿ケ谷の陰謀が発覚する。これは4月に起きた白山事件を後白河法皇が蒸し返したことによって生じた事件とも云える。5月5日、法皇は先の事件に関連して天台座主明雲の座主職の解任、所領の没官、そして伊豆国への配流を決定する。これは法皇の近臣であった西光が事件で流罪となった子の師高を嘆き、強訴の張本人が明雲であると法皇に処罰を訴えたことによる措置とされている。一時は和解した山門も天台座主の配流に反発し、同23日近江国で明雲を奪回し比叡山に隠匿してしまった。法皇は激高し平重盛・宗盛に比叡山焼き討ちを命じた。驚いた2人は福原にいる父・清盛に判断を仰いだ。清盛は直ちに上洛し27日の夜には京都に入った。翌28日に法皇と会見し攻撃を思いとどまらせようとしたが、逆に押し切られてしまう。そして近江・美濃・越前の武士も動員されて攻撃開始は目前に迫った。
このタイミングで平氏打倒の謀議が密告される。清盛は西光を呼び出し、拷問にかけて自供させた後に首を刎ねた。また会合に加わった藤原成親も拘束され、備前国に配流された後7月9日に死去している。尾張国に配流されていた師高も同地で討たれている。この謀議が平氏打倒のためか、あるいは決定していた比叡山攻撃に関するものかは分からないが、武力行使の打ち合わせであったことは確かであろう。清盛は謀議を処断する形で法皇の近臣達を粛正するとともに、山門との和解を得ている。
鹿ケ谷の謀議により、近習の多くが平清盛に捕らわれ斬首や流刑に処せられるのを、法皇はただ見守るしかなかった。このような状況下でかなり精神的に追い込まれた法皇が縋った先が神仏であったことは想像に難くない。謀議に対する清盛の処罰が終了した安元3年(1177)7月29日、崇徳院の追号が贈られ、8月22日より命日の26日にかけて成勝寺において法華八講を行われている。これ以降、成勝寺は崇徳院の菩提を弔うための寺院へと性格を変えていった。さらに崇徳院の忌日を国忌とするかの議論もこの時に行われている。そして法皇は崇徳院以外にも安徳天皇を始めとし、橘逸勢など非業の死を遂げた人々の供養を行うようになっていく。
寿永2年(1183)7月25日、木曽義仲の入京を阻むことができないことを知った平氏一門は安徳天皇を擁して西国に落ちていった。危機を察した後白河法皇は比叡山に登り身を隠したため都落ちを免れ、同27日に都に戻り、翌28日に義仲を京に迎い入れている。そして8月20日には高倉上皇の四之宮・尊成親王が三種の神器なきまま践祚している。この寿永2年(1183)から平家滅亡の文治元年(1185)までの2年間、安徳天皇と後鳥羽天皇の在位が重複している。そして源平が相争った治承・寿永の乱の時代、源氏方と平家方で異なった元号を用いることとなった。源氏方は治承から養和・寿永の改元を認めず治承7年(1183)まで治承を使用した。また平家方も元暦と文治の改元を用いずその滅亡まで寿永を使用していった。政治的な状況だけではなく歴史の記述も複雑さを増した時期であった。
この践祚の最中、後白河法皇は崇徳院の御霊を慰めるための神祠の建立を検討していた。最初は崇徳天皇の御願によって創建された成勝寺内に一社を建立するつもりであったが結局崇徳廟と号された。紆余曲折を経た後、同年12月29日に春日河原に神祠建立の事始を行い、翌3年(1184)正月13日には上棟、そして同月17日には遷宮を行う予定であった。しかし実際に遷宮が行われたのは同年4月15日のことであった。なお春日河原とは鴨川の東、春日小路(現在の丸太町通)末で保元の乱の古戦場にあたる。後白河法皇によって粟田宮に創建された崇徳院廟では、院の命日である8月26日に祭祀が行われてきた。
建久3年(1192)11月16日に後白河法皇が崩御すると、朝廷の崇徳院怨霊に対する恐れは次第に弱まり、いつしか天変地異も崇徳院怨霊が原因であるとされることも減少した。それでも粟田宮の祭礼は年中行事に組み込まれ、后妃の安産祈願の対象となっていった。これは粟田宮が皇位継承に大きな影響を与えると考えられたからかも知れない。
寿永3年(1184)4月15日に白河北殿の旧地に造営された神祠は、嘉禎3年(1237)4月に鴨川の水害を避けるため東方の地(現在の聖護院川原町)に移され、卜部氏が社務を取仕切り天台宗の青蓮院の支配下にあった。中世の兵乱に罹り荒廃すると、洛東の粟田神社や東山安井の蓮華光院に移されたとも云われるがその詳細は不明。
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