徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:東山

地主神社

 

地主神社(じしゅじんじゃ) 2008年05月16日訪問 地主神社 本堂  清水寺の本堂の北側にこんもりした丘のような高台がある。頂部はそれ程広くないものの、清水寺の敷地全体の中でも重要な場所であることが分かる。この場所に地主神社が建てられている。別の日に成就院を訪れたが、成就院の前にある池の対岸が小山のようになっていた。その時はよく位置関係が分かっていなかったが、これが地主神社の北側の斜面だったようだ。清水寺自体が尾根線から谷に迫り出して建てられた寺院であるが、この地主神社は、その尾根の上にさらに隆起した小山の上に建てられていることが分かる。  地主神社は「じぬし」ではなく「じしゅ」と読… ►続きを読む

 

清水寺

 

北法相宗総本山 音羽山 清水寺(きよみずでら) 2008年05月16日訪問 清水寺 子安塔から眺めた本堂  7日目は東山を廻ることとしている。最初に清水寺に入り、ここから産寧坂・二年坂を歩き、建仁寺、高台寺、そして円山公園を超えて知恩院、青蓮院を拝観した後に、小川治兵衛が作庭した並河靖之七宝記念館を見学する。ここは月曜日と木曜日は休館日となっているの。南禅寺を拝観した月曜日には閉まっていたので、本日の予定に組み入れた。見学後、市営バスで東大路通を南下し七条に出る。智積院、蓮華王院、豊国神社を拝観後、豊国廟に向かう、相変わらずの詰め込みすぎの予定である。七条から順に北へ上っていけば好いよう… ►続きを読む

 

佳水園 その4

 

ウェスティン都ホテル京都 佳水園(かすいえん) 2008/05/12訪問 佳水園 客室  ウェスティン都ホテル京都の公式HP(http://www.westinmiyako-kyoto.com/guest/kasui.html : リンク先が無くなりました )を見ると2009年6月現在、数寄屋風別館 佳水園の客室数は20室で、一室あたりの料金が設定されている。部屋の大きさが異なるため室料金も一律でない。またこの料金には食事が含まれていないらしいが、4室限定で一泊2食付サービスが受けられるように説明している。そして以下のような記述が付け加えられている。     ご滞在中は、「佳水園」専用の… ►続きを読む

 

佳水園 その3

 

ウェスティン都ホテル京都 佳水園(かすいえん) 2008/05/12訪問 佳水園 フロント横の応接と棚  ウェスティン都ホテル京都は、平成14年(2002)に、スターウッド・ホテル&リゾートと提携し、ウェスティンブランドに入ったが、現在もホテル名称に残っているように都ホテルズ&リゾーツの旗館であった。ちなみに村野の初期の名作 志摩観光ホテルも系列ホテルの1つである。 佳水園 エントランス 佳水園 エントランス  三条古川町の油商 西村仁兵衛が、明治23年(1890)に華頂山の中腹の7万坪近い敷地に「吉水園」という貸し席を開いたのが都ホテルの始まりである。本… ►続きを読む

 

佳水園 その2

 

ウェスティン都ホテル京都 佳水園(かすいえん) 2008/05/12訪問 佳水園  佳水園 その1で触れたように、佳水園には2つの庭がある。ひとつは小川白楊が作庭した岩肌を利用した庭。そしてもう一つは村野藤吾が佳水園を設計した際に作庭した白砂の庭。この2つの庭がどのようにして作られたかについては、ウェスティン都ホテル京都の公式HPより、京都市都市緑化協会のまとめた 京の庭 庭園紹介の方が詳しい。 佳水園 本館側のファサード 佳水園 地下部分の壁面  小川保太郎 白楊は7代目の小川治兵衛の長男である。父である7代目小川治兵衛が73歳と比較的長寿だったのに対して、石造品や石の扱い… ►続きを読む

 

佳水園

 

ウェスティン都ホテル京都 佳水園(かすいえん) 2008/05/12訪問 佳水園  神泉苑の押小路通の門から出て堀川御池の交差点に向けて歩いていくと、交差点の手前に市営地下鉄東西線の二条城前駅がある。ここから東西線に乗車し、六地蔵方面行きで5番目の駅 蹴上で下車する。地上に出るとほぼ目の前にウェスティン都ホテルのエントランスが現れる。 都ホテル新館と佳水園の設計者は村野藤吾である。  昭和4年(1929)独立し、村野建築事務所を開設した時は38歳であった。独立後すぐに森五商店東京支店(昭和6年(1931))、そごう百貨店大阪本店(昭和10年(1935))、宇部市民館(昭和12年(1937… ►続きを読む

 

洛翠

 

洛翠(らくすい) 2008/05/12訪問 洛翠 庭園  瓢亭より無鄰菴の長い塀伝いに歩き、再び仁王門通と白川通の交わる南禅寺前交差点に出る。そのまま白川通を200メートルくらい北上すると小さいながらも雅な印象をうける門が現れる。黒い門扉に金の菊紋の錺金具が施され、瓦葺の屋根はかなり棟を絞った形になっているため、実際よりもかなり小ぶりに見えるように作られている。駒札によりこれが洛翠の不明門であり、伏見城の遺構と伝えられていることが分かる。屋根の形状に少し硬さを感じるが、確かに桃山時代の華やかさが伝わる門である。もし伏見城の遺構ならば、1600年からの300年間の来歴が必要となるがそれは明… ►続きを読む

 

瓢亭

 

瓢亭(ひょうてい) 2008/05/12訪問 瓢亭本館  無鄰菴と細い道を隔てて瓢亭が隣接する。 瓢亭の創業はおよそ400年前といわれているので江戸時代の初期となる。南禅寺の総門へ続く松林の参道に面する南禅寺総門外松林茶店、いわゆる腰掛茶屋としてのれんを掲げたのが始まりと伝えられている。 瓢亭本館  南禅寺 聴松院の項で記したように、花洛名所図会では湯豆腐の丹後屋とともに南禅寺総門外松林茶店として図会で紹介されている。建物の配置も現在に近い形で描かれているように見える。また図会には、丹後屋に続いて以下のように記されている。「瓢亭の煮抜玉子は近世の奇製なりとて、ここの酒客あまねくこれ… ►続きを読む

 

無鄰菴

 

無鄰菴(むりんあん) 2008/05/12訪問 無鄰菴 庭園  金地院より再び南禅寺の境内に戻り西に進むと、白川通と仁王門通が交わる南禅寺前交差点に出る。無鄰菴はこの交差点を渡った先にある。入口は仁王門通には面せず、瓢亭との間の細い道の先にある。 無鄰菴 長く続く塀より庭の奥行きの深さが分かる 無鄰菴 入口 あいにく屋根の工事中  無鄰菴は、明治の元老 山縣有朋が造営した別荘である。  山縣有朋は天保9年(1838)萩城下近郊の阿武郡川島村の長州藩の中間の長男として生まれる。よく山縣を揶揄して足軽出身といわれているが、実際には足軽以下の中間の出身である。しかし将来、槍術で身を… ►続きを読む

 

南禅寺 塔頭

 

南禅寺 塔頭(なんぜんじ たっちゅう) 2008/05/12訪問 南禅寺 高徳庵への参道  南禅寺で頂いた拝観のしおりによると塔頭は現在12寺とのこと。ただし、これには南禅院が含まれていない。しおりでは南禅寺の歴史と伽藍、本坊の説明についで、南禅院が取り上げられている。また南禅寺の公式HPでは、「塔頭のうち南禅院は亀山天皇の宸影をまつる檀那塔であるため、別格に扱われています。」というような表現となっているので、塔頭であることは間違いないようだ。ということで実質的には13塔頭ということになる。■01 金地院 金地院は応永年間(1394~1427)に室町幕府4代将軍足利義持が南禅寺第68代住… ►続きを読む

 

南禅寺 金地院

 

南禅寺 金地院(なんぜんじ こんちいん) 2008/05/12訪問 南禅寺 金地院 方丈庭園  南禅寺 天授庵から山門の前を通り、勅使門と並んで建てられている表門の外に出たところに左に曲がる道がある。この道に入ると金地院という表札が架けられた門があり、それを越えた先の右手に南禅寺 金地院がある。 南禅寺 金地院への門 南禅寺 金地院は右側 南禅寺 金地院 庫裏につながる2つ目の門  応永年間(1394~1427)に室町幕府4代将軍足利義持が南禅寺第68代住持 大業徳基禅師を開山として洛北・鷹ケ峯に創建したのが金地院の始まりである。慶長10年(1605)南禅寺第270代住… ►続きを読む

 

南禅寺 天授庵

 

南禅寺 天授庵(なんぜんじ てんじゅあん) 2008/05/12訪問 南禅寺 天授庵 本堂前庭園  南禅寺 南禅院より再び石段を下り水路閣をくぐると法堂の前に出る。正因庵の前を過ぎ、三門の南側に南禅寺 天授庵がある。 亀山上皇は父である後嵯峨上皇が文永元年(1264)に造営した離宮の禅林寺殿を正応4年(1291)に禅寺に改めた。この時、開山に迎えたのは東福寺住持の無関普門禅師(大明国師)である。 無関普門禅師は建暦2年(1212)に信濃国に生まれ、13歳で越後国正円寺において出家する。19歳の時に上野国長楽寺で栄朝禅師から菩薩戒を受け、栄西禅師から受け継がれた禅を学ぶ。関東や北越の講席を… ►続きを読む

 

南禅寺 南禅院

 

南禅寺 南禅院(なんぜんじ なんぜんいん) 2008/05/12訪問 南禅寺 南禅院 庭園  琵琶湖疏水の水路閣をくぐると石段があり、その上に南禅寺 南禅院がある。 既に南禅寺の項で書いたように、後嵯峨上皇が文永元年(1264)に造営した離宮の禅林寺殿が現在の南禅院の地である。離宮には上下2つの御所があり、上の御所に建設された持仏堂を南禅院と称していた。 正応2年(1289)後嵯峨上皇の子 亀山上皇は禅林寺殿で落飾され法皇となり、正応4年(1291)に東福寺住持の無関普門禅師(大明国師)を開山に迎え、離宮を禅寺に改めた。南禅寺の伽藍は翌5年に上皇によって選任された第二世規庵祖圓禅師(南院… ►続きを読む

 

南禅寺 水路閣

 

南禅寺 水路閣(なんぜんじ すいろかく) 2008/05/12訪問 南禅寺 水路閣  南禅寺本坊から出て法堂の南側に廻るとアーチ型橋脚を持ったレンガ造の建造物が現れる。琵琶湖疎水の水路閣は、京都を代表する景観の一つとなっている。しかし、京都駅や京都タワーや平安神宮と比較すればやや古いかもしれないが、まだ120年しか経っていないことを考えると京都においては新しい風景のひとつである。  明治2年(1869)都が東京へ移り,京都は産業も人口も急激に衰退し始めていた。明治14年(1881)第3代京都府知事に就任した北垣国道は,京都の産業振興を目的として、水運、灌漑、上水道、そして水車による動力に… ►続きを読む

 

南禅寺 本坊

 

南禅寺 本坊(なんぜんじ ほんぼう) 2008/05/12訪問 南禅寺本坊 方丈庭園  南禅寺 本坊は、南禅寺の勅使門、山門、法堂の軸線上の東端に建てられていることからもこの伽藍において重要な施設であることが分かる。建物は南側より庫裏、大玄関、大方丈と小方丈そして裏側に座禅や講演会の行われる龍渕閣(りょうえんかく)と茶室不識庵・窮心亭が並ぶ。 南禅寺本坊 庫裏 遠くからも本坊の位置を知らせているが…少し大き過ぎないか? 南禅寺本坊 大玄関 非常に美しいアプローチ  拝観は庫裏から入り、大玄関を通り、まず方丈前の庭園越しに方丈を見ることとなる。方丈は大方丈と小方丈がL字型に組み… ►続きを読む

 

南禅寺

 

臨済宗南禅寺派総本山 南禅寺(なんぜんじ) 2008/05/12訪問 南禅寺 法堂  八坂神社より市バスに乗り、南禅寺へと向かう。三条通を右折し蹴上に行くバスが見当たらなかったので、平安神宮の北側を通り、岡崎天王町で下車して、後は歩くこととした。途中白川通から逸れ、住宅街に入り方向が分からなくなるが、再び白川通に戻る。ほどなくして南禅寺の門前に着く。天王町の停留所から約20分程度かかったこととなる。 門前の参道の両側に並ぶ旅館や料亭が終わると南禅寺の勅使門が前方左側に見えてくる。 南禅寺 門前の順正  臨済宗南禅寺派大本山 山号は瑞龍山、寺号は太平興国南禅禅寺。 日本最初の勅願禅寺… ►続きを読む

 

円山公園

 

円山公園(まるやまこうえん)  2008/05/12訪問 円山公園 日本庭園  円山公園は八坂神社に隣接しているため、写真を撮りながら散策していると境内と園地の境を意識することもなく、行き来することとなる。 この地はもともと真葛原と呼ばれてきた。都名所図会には     真葛原は祇園林のひがし、知恩院の南をいふ。 とあるように、現在の知恩院から八坂神社、安養寺、長建寺、双林寺辺りまでの総称であった。 江戸時代初期、安養寺には六阿弥(左阿弥、春阿弥、弥阿弥、庭阿弥、正阿弥、連阿弥)と呼ばれる塔頭が出現し、お互いに贅を尽くした庭園美を競っていたことが都名所図会の安養寺の項から見える。図会の安養… ►続きを読む

 

八坂神社

 

八坂神社(やさかじんじゃ)  2008/05/12訪問 八坂神社 西楼門  3日目は祇園→岡崎→二条城と京都市内を巡る。祇園のホテルを6時30分にチェックアウトし四条通の突き当たりにある八坂神社に向かう。 八坂神社 西楼門 境内より  素戔嗚尊を祭神とする神社は日本全国に約2300社あるとされる。八坂神社はそれらの神社の総本社である。  創建については諸説あるようだが、社伝によると斉明天皇2年(656)に高句麗の調進副使・伊利之使主が、新羅の牛頭山に祀られる牛頭天王を祀ったのを始まりとしている。その際に八坂造の姓を賜ったとされている。そのため延暦13年(794)の平安京建都より以前… ►続きを読む

 

JR稲荷駅ランプ小屋

 

JR稲荷駅ランプ小屋 (じぇいあーる いなりえき らんぷごや)  2008/05/10訪問 JR稲荷駅ランプ小屋  伏見稲荷大社の表参道から伏見街道に出ると目の前に朱の柱に白壁、瓦葺屋根のJR稲荷駅が現れる。駅舎に沿って南に下ると小さな切妻屋根をのせた赤レンガの小屋がある。これがJR稲荷駅ランプ小屋。  電気照明が普及するまでの間、鉄道の客車用や駅務・保線用のランプとその燃料を収納しておくために使用された危険物倉庫がランプ小屋である。そのため堅牢な煉瓦造りとなっていた。明治時代に建設された旧国鉄の主要駅には一般的に存在していたようだが、ランプの消滅と駅の増改築等により姿を消していった。… ►続きを読む

 

伏水街道の橋

 

伏水街道の橋 (ふしみかいどう の はし)  2008/05/10訪問 伏水街道第三橋 東福寺中門前  東山山麓から流れ出て鴨川にそそぐ河川が伏見街道に交差する箇所に4本の橋が架けられ、北から一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋、四ノ橋と呼ばれていた。現在、一ノ橋と二ノ橋の川は暗渠となり元の橋の位置と異なった場所に親柱が保存されている。三ノ橋と四ノ橋は伏見街道の橋として使用されている。いずれの橋の親柱にも伏見街道ではなく“伏水街道”とある。  JRと京阪電鉄の東福寺駅より200m北、現在の本町12丁目にある清涼山寶寿寺の北側を一の橋川は流れていたようだ。泉涌寺より東大路通を越え大谷学園大谷高等学校の南… ►続きを読む

 
 

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