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南禅寺 塔頭



南禅寺 塔頭(なんぜんじ たっちゅう) 2008/05/12訪問

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南禅寺 高徳庵への参道

 南禅寺で頂いた拝観のしおりによると塔頭は現在12寺とのこと。ただし、これには南禅院が含まれていない。しおりでは南禅寺の歴史と伽藍、本坊の説明についで、南禅院が取り上げられている。また南禅寺の公式HPでは、「塔頭のうち南禅院は亀山天皇の宸影をまつる檀那塔であるため、別格に扱われています。」というような表現となっているので、塔頭であることは間違いないようだ。ということで実質的には13塔頭ということになる。
■01 金地院 金地院は応永年間(1394~1427)に室町幕府4代将軍足利義持が南禅寺第68代住持 大業徳基禅師を開山として洛北・鷹ケ峯に創建したのが始まりである。慶長10年(1605)南禅寺第270代住持となった以心崇伝禅師により、三門の南西に位置する現在の地に移築された。

 方丈は慶長16年(1611)に伏見桃山城の一部を徳川家光から賜り、移築したものと伝わる。入母屋造こけら葺の書院建築。襖絵は狩野探幽と尚信の筆。
 方丈の前に広がる方丈庭園は小堀遠州の作で鶴亀の庭と呼ばれている。
 方丈庭園の南側高台には東照宮、方丈の西南の角には以心崇伝を祀る開山堂が建てられている。

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南禅寺 金地院 方丈庭園

都林泉名勝図会の図会
 明治41年(1908)当時の南禅寺の名僧を慕った京都の富豪から寄与されたお寺。 庭園は小川治平衛の作庭による石庭。結婚式などでの利用が可能な模様。

 南禅寺の塔頭。永享8年(1436)に山名宗全が香林宗簡の塔所として開いた寺院。山名宗全は文明5年(1473)に亡くなり、ここに葬られた。

■04 天授庵 正応4年(1291)亀山上皇が南禅寺の開山として無関普門禅師を迎えたが同年12月12日に東福寺龍吟院で遷化さた。翌年に上皇は第二世規庵祖圓禅師(南院国師)を選任し南禅寺の伽藍造営が始められたが、無関普門禅師の住持としての期間があまりにも短く、開山としての業績が残されなかった。
 暦応2年(1336)虎関師錬禅師が南禅寺第15代住持に就任すると、朝廷に上奏し開山塔建立の勅許を請うた。光厳上皇の勅許を得るとともに、塔を霊光、庵を天授と名付ける勅状を賜る。翌暦応3年(1337)に開山塔の建立がなされ、天授庵が開創した。
 応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))の兵火を受け荒廃た天授庵の再興は、当時の南禅寺の住持であった玄圃霊三禅師に一任された。霊三住持は自らの弟子である雲岳霊圭を庵主とし、知友であった細川幽斎に天授庵の再興を懇請した。幽斎はこの申し出を快諾し、慶長7年(1602)に本堂、正門、旧書院を始め諸堂の再建され、天授庵の復興がかなった。

 本堂は細川幽斎の再建した入母屋造こけら葺屋根。中央に開山大明国師木像、一隅に幽斎負債を始めとする細川家歴代の位牌が安置されている。本堂の襖絵32面は長谷川等伯晩年の作。

 庭は暦応3年(1337)の創建当時のものであるとされている枯山水の本堂前庭(東庭)と鎌倉末期から南北朝時代の特色を備えた池泉回遊式の書院南庭の2つの庭がある。

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南禅寺 天授庵 本堂前庭

■06 南禅院 後嵯峨上皇が文永元年(1264)に造営した離宮 禅林寺殿を正応2年(1289)後嵯峨上皇の子 亀山上皇は禅林寺殿で落飾され法皇となり、正応4年(1291)に東福寺住持の無関普門禅師(大明国師)を開山に迎え、離宮を禅寺に改めた。

 庭は夢窓疎石の作と伝わる。南側奥には滝口の石組みが組まれ、これに続く池が龍の形をした曹源池と呼ばれる上池である。上池には鶴島、亀島の2つの島がある。もうひとつの下池には心字島が設けられている。

 方丈は、元禄16年(1703)5代将軍徳川綱吉の母 桂昌院の寄進による総桧の入母屋造こけら葺屋根である。内陣中央には亀山法皇木像が安置され、襖絵は狩野養朴と子の如川随川の筆による水墨画。

 庭園東南隅には亀山法皇のご遺言によって造られ、御分骨を埋葬した御陵がある。

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南禅寺 南禅院

都林泉名勝図会の図会解説
 高徳庵(最勝院)は、駒道智大僧正を祀る。

 狛僧正とも呼ばれる道智は建保5年(1217)九条道家の子、九条道智として生まれる。近江園城寺の道誉に師事し、南禅寺の北にある禅林寺の住持を経て、園城寺長吏となる。そして寛元元年(1243)に後嵯峨天皇の護持僧をつとめるようになるが、文永6年(1269)3月3日に53歳で死去する。後嵯峨天皇の離宮 禅林寺殿の竣工は文永元年(1264)ということになるので、道智の生前から離宮が存在していたこととなる。
 高徳庵の寺伝によれば、道智は晩年世を厭い、神仙佳境といわれてきた駒ヶ滝最勝院の地に隠棲した。そして天台密教の法力をもって白馬に跨り生身を天空に隠したという。

 亀山上皇が禅林寺殿で落飾され、法皇になられた正応2年(1289)の頃、禅林寺殿にしばしば駒僧正の怨霊が出たと梅原猛の「亀山上皇と南禅寺」では記されている。南禅寺の公式HPにも、「文応皇帝外紀によれば、まもなく離宮に妖怪な事が起こりました」と同様な事件の記述が見られる。そして「無関禅師は雲衲(修行僧)と共に離宮に留まり、坐禅・掃除・勤行と、禅堂そのままの生活を送られただけで妖怪な事は終息してしまいました。」と続く。南禅寺の開山である無関普門禅師が駒道智大僧正の怨霊を退治したこととなる。 「亀山上皇と南禅寺」では、なぜ道智が怨霊として現れたかは説明していない。しかし道智には、この聖地に対する執着があったのかもしれない。

 高徳庵は明治の末年まで、南禅寺の寺務所の地で最勝院般若殿と呼ばれていたが、大正6年(1917)夢窓国師の塔所上生院の地である現在の場所に移転した。
 本堂は駒大僧正を祀り、駒ヶ滝はその奥の院となる。

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南禅寺 高徳庵への参道

花洛名勝図会の図会
 弘長元年(1261)規庵祖円禅師(南院国師)は無関禅師と同郷の信濃国に生まれる。小さい頃に鎌倉浄妙寺の龍江和尚のもとへ預けられ、ここで特に漢学の素養を身につけた。弘安3年(1280)、北条時宗の招きにより宋の禅僧無学祖元が開山した円覚寺に入る。弘安9年(1286)無学禅師が遷化すると、新たな師を求めて京都に上り東福寺の無関禅師のもとで修行を続けた。そして無関禅師の遷化のあとをうけて、31歳で南禅寺第2世の住持となる。一宇もなかった南禅寺の伽藍の建立整備に後半生を捧げ、正和2年(1313)53歳で遷化する。遺骨は禅師の遺言により帰雲院に納め塔所とした。後に後醍醐天皇はその功績をたたえ、南院国師の号が謚られた。

都林泉名勝図会の図会

 聴松院は細川氏の菩提寺で五山文学を代表する学僧 希世霊彦が、焼失してしまつた清拙正澄の塔所 善住庵を再興してその名を聴松院と改めた。
 清拙正澄は臨済宗破庵派の来日禅僧。嘉暦元年(1326)に来日し,北条高時の招きで建長寺の禅規を刷新した。その後、浄智寺 円覚寺を経て後醍醐天皇の勅命で京都の建仁寺、南禅寺などの住持を歴任し、日本禅宗大鑑派の祖となった。

 南禅寺の塔頭ながら今なお大鑑派の法灯を伝える貴重な寺である。
 享禄2年(1529)細川満元によって再興。
 足利義教や義晴は当院に止宿して要害の地としたことがあり、足利義輝の侍童松井佐渡守は当院の檀越となった。織田信長や蒲生氏郷も来寓したこともあり、今の書院は藤堂高虎の建立と伝わる。

 書院前庭は大きな池をうがち、周囲に石組みを配した地泉廻遊式庭園は相阿弥の作庭といわれる。池畔には菅神霊夢の松と称する名松があったが、既に都林泉名勝図会では「聴松院の林泉風色幽雅にして、庭に碼碯の水鉢あり。又菅神夢想の名松あり、老木の大樹にてありしが近年衰枯して朽たり、故に植継あり。」と書かれているように既に枯死し、植え替えられたことが分かる。
 聴松院の山門と摩利支天堂の門とは別々になっていて、堂の前の両脇には阿吽の狛猪が鎮座している。イノシシは、軍神摩利支天を乗せる聖獣である。摩利支天像は秘仏でありその姿を拝することは叶わない。

 湯豆腐は江戸時代から南禅寺の名物となる。寛永年間(1624~43)精進料理を出す茶店として創業したといわれる丹後屋は、瓢亭とならんで旧参道の中程にあった。花洛名勝図会では南禅寺総門外松林茶店として紹介され「丹後屋の湯豆腐は古よりの名物にして、旅人かならず是を賞味し」という文が付けられている。都林泉名勝図会にも「名物 南禅寺前 湯菽腐店」として丹後屋が紹介されている。 その後、口丹・中丹・奥丹の三店に分かれ、聴松院の境内に店を構える奥丹だけが残っている。奥丹は元の丹後屋の位置は現在の無鄰菴となっていることから、明治時代の頃から借地していたのだろう。ただし奥丹の公式HPにはそのあたりの経緯の分かることは書かれていない。
 また聴松院でも書院造りの座敷や縁先で、庭園を眺めながら豆腐料理がいただけたが、2009年5月現在では閉店しているようである。

都林泉名勝図会の図会
 通称「だるま寺」と呼ばれ、京都五山を代表する学僧 義堂周信の開創。

 義堂周信は、正中2年(1325)土佐国高岡の生まれ。初め比叡山に登り受戒するが、後に禅宗に帰依して,夢窓疎石に師事する。鎌倉公方の足利基氏に招かれて鎌倉へ赴き、関東管領の上杉氏などに禅宗を教えるなど以後,約20年間鎌倉で活動する。将軍足利義満の召還により帰京し,相国寺建立の進言、等持院、建仁寺、そして南禅寺を歴住する。春屋妙葩や絶海中津と並び中国文化に通じた京都五山を代表する学問僧とされている。

 境内の達磨堂には、珍しい立像の達磨大師像が祀られている。

 牧護庵は後宇多法皇ゆかりの寺である。
 推古天皇の勅願で建立された法皇寺は,もとは乙訓郡今里(現在の長岡京市)にあり乙訓寺と呼ばれていた。その後、宇多法皇(寛平法皇)が落飾した後,この寺を行宮としたため法皇寺とも呼ばれるようになった。その後,今熊野日吉町附近に移り,足利義満が南禅寺の伯英徳俊禅師に命じて禅宗寺院として南禅寺に附属させた。18世紀前半頃,左京区東門前町に移転。明治11年(1878)年南禅寺金地院に,同21年(1888)この地に合併された。牧護庵内には法皇寺を示す「寛平法皇御旧跡法皇寺」三宅安兵衛遺志碑がある。

 非公開寺院ではあるが、山門越しに庭園をのぞくことはできる。

都林泉名勝図会の図会
 霊芝山光雲寺は南禅寺北ノ坊とも呼ばれている。もとは摂津にあったが、寛文年間(1661~1672)後水尾天皇及び中宮東福門院が南禅寺の天授庵英中禅師に深く帰依され、この地に移して再興した。都名所図会には、霊芝が生い茂り、光雲により空が明るくなるのを見て、この地が霊場であることを感じ取ったとある。
 歴代皇室の尊崇あつく、元久邇宮家の菩提所となっている。もとの境内は広大であったが、火災や明治初頭の変革により縮小され、現在の姿となっている。
 本堂には、東福門院より賜った釈迦如来と観音菩薩を本尊とし、左右に阿難、迦葉の二尊者と東福門院の坐像を安置する。書院南には、昭和初期の造園家小川治兵衛が作庭した池泉廻遊式の庭がある。疏水の水を引き、背景の山を借景としている。都名所図会で「瑪瑙石の手洗鉢は仏殿の後にあり、当寺の奇観なり。」と紹介されている朝鮮伝来の手洗鉢は庭の東北隅にある。

 寺の背後には後水尾天皇々女顕子内親王の墓、門前北には久邇宮家の墓がある。

都名所図会の図会解説都林泉名勝図会の図会花洛名勝図会の図会

「南禅寺 塔頭」 の地図


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南禅寺 塔頭 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  南禅寺 金地院 35.0102 135.7904
02  南禅寺 南陽院 35.0102 135.7913
03   南禅寺 真乗院 35.0104 135.7916
04  南禅寺 天授庵 35.0106 135.7922
05   南禅寺 正因院 35.0108 135.793
06  南禅寺 南禅院 35.0103 135.7938
07  南禅寺 高徳庵 35.0105 135.7952
08   南禅寺 帰雲院 35.0124 135.7946
09  南禅寺 正的院 35.0127 135.7932
10  南禅寺 聴松院 35.0124 135.7925
11  南禅寺 慈氏院 35.0122 135.792
12  南禅寺 牧護庵 35.0115 135.7912
13  南禅寺 光雲寺 35.0169 135.7951

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