カテゴリー:訪問地
西村家別邸
西村家別邸(にしむらけべってい) 2008年05月19日訪問 西村家別邸 北庭の全景 上賀茂神社の一の鳥居を出、酒殿橋を渡り、再び社家町に戻る。既に9時30分を廻っているため、西村家別邸の公開が始まっている。 西村家別邸 藤木通に面した門 西村家別邸 門の内側 西村家別邸 門から直線状に露地が続く 西村家別邸 社家の町並みの項で触れたように、社家の建築として梅辻家住宅(https://vinfo06.at.webry.info/201006/article_9.html : リンク先が無くなりました )、岩佐家住宅(https://vinfo06.at.web… ►続きを読む
賀茂別雷神社(上賀茂神社) その2
賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ) その2 2008年05月19日訪問 賀茂別雷神社 楼門 上賀茂神社の一の鳥居、二の鳥居、楼門そして中門は玉垣や回廊を伴いながら4つの神域を作り出している。 一の鳥居を潜ると1番目の神域として一面の明るい芝生広場が広がる。これは下鴨神社の糺の森とは全く対照的な空間となっている。この芝生の中を真白い参道が一直線に二の鳥居へ伸びる。この参道に面して左に神馬舎、右に御所舎の建物が配されている他には、斎王桜、馬出しの桜、むちうちの桜、見返りの桐、御所桜などが植えられている。 賀茂別雷神社 玉橋 賀茂別雷神社 玉橋と片岡橋そして片岡社 賀… ►続きを読む
賀茂別雷神社(上賀茂神社)
賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ) その1 2008年05月19日訪問 賀茂別雷神社 一の鳥居と二の鳥居 社家町の西村家別邸の公開は9時30分から、まだ1時間近くあるので先に上賀茂神社に向かう。藤木通を西に進むと明神川に橋が架かる。府道に架かるコンクリート橋の北側に、小さな石の反り橋があり、その先は朱塗りの玉垣で神域が区切られている。この小さな石橋が酒殿橋で、この先の流れは楢の小川と呼ばれる。さらに玉垣に沿って西に進むと巨大な上賀茂神社の一の鳥居が現れる。 賀茂別雷神社 芝生の中に白い参道が二の鳥居へ延びる 賀茂別雷神社 賀茂別雷神社 上賀茂神社の正式な名称は… ►続きを読む
社家の町並み
社家の町並み(しゃけのまちなみ) 2008年05月19日訪問 社家の町並み 藤木社と楠の大樹 社家の町並み 大田神社 上賀茂の町並みを通る府道103号上賀茂山端線は、大田神社と大田の沢の前から南に進む。約50メートル下り、藤木通に入る。再び西に進むと通りの北側に長屋門が現れる。京都市の建てた駒札によると、上賀茂社家のうち神主筋である賀茂七家の一つ梅辻家である。門には柵が架けられ公開していないようなので、門外からの撮影に留める。 社家の町並み 梅辻家住宅 社家の町並み 梅辻家住宅の駒札(http://www.miyakoweb.net/kanko/annai.php… ►続きを読む
大田の沢
大田の沢(おおたのさわ) 2008年05月19日訪問 大田の沢 杜若の自生 大田神社の鳥居の右手には大田の沢と呼ばれる湿地があり、最盛期は過ぎたが多くの杜若が花を付けていた。この大田の沢は日本三大杜若自生地の一つとされている。Wikipediaによる三大自生地とは、愛知県刈谷市井ヶ谷町にある「小堤西池」、鳥取県岩美町唐川にある「唐川湿原」そして京都府京都市北区にある「大田の沢」とされている。ちなみに小堤西池は昭和13年(1938)、唐川は昭和19年(1944)、そして大田の沢は昭和14年(1939)にそれぞれカキツバタの群生地として国の天然記念物に指定されている。大田の沢にはそれを顕す… ►続きを読む
大田神社
大田神社(おおたじんじゃ) 2008年05月19日訪問 大田神社 拝殿と本殿 上賀茂の町並みで触れたように、深泥池から上賀茂神社へ続く町並みは、京都府道103号上賀茂山端線と一致する。深泥池から西に進むと道の北側に大田神社の鳥居が現れる。 大田神社 入口 大田神社 本殿へと続く参道の石段 大田神社 本殿 大田神社 大田神社の創祀は明らかでない。古くは恩多社と呼ばれ、地主神を祀っていたのが始まりと考えられる。上賀茂神社(賀茂別雷神社)が鎮座して以来、天鈿女命と猿田彦命を祭神とした摂社として、平安時代中期に編纂された延喜式にも載る古社で、この地を開墾した賀茂氏の崇… ►続きを読む
上賀茂の町並み
上賀茂の町並み(かみがものまちなみ) 2008年05月19日訪問 上賀茂の町並み 北山通から北側の町名は鞍馬街道を挟んで、おおよそ西側が上賀茂、東側は下鴨となっている。京都府道103号上賀茂山端線は、叡山電鉄修学院駅のある山端川端町から北山通とその一本北の旧道を通り、鞍馬街道を北上して深泥池に出会う。この上賀茂深泥池町から東に走り上賀茂神社前交差点に至る。そのため深泥池から大田神社そして社家の町を通り上賀茂神社へと続く町並みは、上賀茂山端線に沿った町並みとなる。北側から京都盆地に迫ってくる山地の端を東西に縫うように走るのが上賀茂山端線であり、北側の家々は山を背にして建つ。 上賀茂の… ►続きを読む
深泥池
深泥池(みどろがいけ) 2008年05月19日訪問 深泥池 八坂神社脇のホテルを6時過ぎに出て、市営バス201号に乗車し四条通を西に進む。四条烏丸で下車し、地下鉄に乗り換えて北山を目指す。北山通に面した地上口に出ると目の前に鞍馬街道との交差点が現れる。 深泥池 京都信用金庫北山支店 深泥池 鞍馬街道 この交差点から鞍馬街道の坂道を上り始めると、街道の左手に懐かしい京都信用金庫北山支店の屋根が見える。菊竹清訓はこの京都信用金庫の一連の作品で昭和55年(1980)第21回毎日芸術賞を受賞している。菊竹は京都市内で多くの支店を手がけているので、こうして社寺を訪ねている中で時々出… ►続きを読む
祇園の町並み その2
祇園の町並み(ぎおんのまちなみ) その2 2008年05月18日訪問 祇園の町並み 夜の辰巳大明神 祇園の町並み 鴨川の西岸に建つ東華菜館 四条河原町から四条通を東に進む。近江屋 その3で触れた鳥新は、高瀬川の東詰めにあったと言われている。慶応3年(1867)11月15日の夜、坂本龍馬は近江屋から峯吉に軍鶏を買いに行かせている。おそらく往復で30分もかからない場所にあるこの店から戻ると既に事件は終わっていた。その先には東華菜館の装飾的な建物が現れ、四条大橋へとつながる。この一見4階建てに見える建物は、当時流行していたビアホールとして大正15年(1926)ヴォーリズによって設計さ… ►続きを読む
近江屋跡 その3
近江屋跡(おうみやあと) その3 2008年05月18日訪問 近江屋跡 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地の碑 再び話しを坂本龍馬と近江屋に戻す。 慶応3年(1867)11月15日を再現してみる。 近江屋跡 その2で触れたように越前藩から帰京した龍馬は、河原町三条の酢屋へ戻る。材木業を営む酢屋は、角倉家より高瀬川の木材独占輸送権を得ていたことより、伏見・大坂への連絡や高瀬川沿いの各藩邸へ折衝の拠点とするには適していた。海援隊京都本部が酢屋に置かれたことで、陸奥宗光、長岡謙吉等数多くの土佐藩士が投宿している。その後、土佐藩邸と河原町通を挟んだ場所で醤油商を営む近江屋・井口新助邸へ移る。この時期… ►続きを読む
近江屋跡 その2
近江屋跡(おうみやあと) その2 2008年05月18日訪問 近江屋跡 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地の碑 船中八策の全てが龍馬のアイデアではない。文久2年(1863)幕府総裁職に就任した松平春嶽のために、横井小楠が幕政改革の方針を国是七条により定めている。船中八策はこの国是七条に強い影響を受けている。そして龍馬も推奨した公議会論は慶応4年(1868)越前藩士由利公生による五箇条の御誓文の草案へとつながっていく。現在、船中八策の作者が坂本龍馬であること事自体にも疑いが持たれている。確かに龍馬の手による船中八策が発見されていないため証明することはできない。そういう意味でも、この時代のある範囲… ►続きを読む
近江屋跡
近江屋跡(おうみやあと) その1 2008年05月18日訪問 近江屋跡 河原町通に面して碑が建つが足を止める人は少ない 壬生寺から坊城通に出て、北に進む。坊城通と四条通の角にある隼神社・元祇園梛神社の向かい壬生寺道停留所から市バスに乗車する。四条通を東に走り、四条烏丸で下車し、室町通に建つホテルに向かう。再び夕食と夜の京を徘徊するため、河原町から祇園の方向に徒歩で行く。 河原町通の西側の歩道を四条通の交差点から北に進むと、坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地の碑が建つ。以前訪れた時は、京阪交通社の営業所であった。この日は既にシャッターが閉まっていたので、まだ営業していたか分からなかった。その後こ… ►続きを読む
壬生寺
律宗別格本山 宝憧三昧寺心浄光院(壬生寺(みぶでら)) 2008年05月18日訪問 壬生寺 本堂 現在の壬生寺は、律宗別格本山の寺院である。律宗とは戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派であり、日本での律宗は、天平勝宝5年(753)鑑真が6度の航海の末に、唐から招来し東大寺に戒壇を開き、聖武上皇、称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けたことに始まる。後に唐招提寺を本拠として南都六宗の一つとして今日まで続いているが、平安時代以降平安京を中心に栄えた平安二宗(天台宗・真言宗)とは異なるため、京都の寺院の中でも珍しい存在となっている。なお、壬生寺は通称で、寺号を宝憧三昧寺、院号を心浄光… ►続きを読む
八木邸
八木邸(やぎてい) 2008年05月18日訪問 八木邸 京都鶴屋 鶴寿庵の奥に八木邸の長屋門が見える 京福電鉄嵐山本線の踏み切りを越え、坊城通と綾小路通の角には新選組の屯所として使われた旧前川邸が残されている。その先に京都教育会が昭和6年(1931)に建立した新選組遺蹟が現れる。 八木家の始祖である朝倉氏は但馬国朝倉(兵庫県養父郡朝倉庄)に発している。鎌倉時代初期に朝倉高清の次男・重清が八木庄に入り、八木安高を名乗っている。その後、承久の乱(承久3年(1221))で鎌倉幕府に加勢したことにより一族は興隆する。八木家の宗家となる朝倉高清から7代後の朝倉広景が越前朝倉を興す。八木氏も越前を… ►続きを読む
旧前川邸
旧前川邸(きゅうまえかわてい) 2008年05月18日訪問 旧前川邸 壬生の町並みで触れたように、浪士組が京に着くと更寉寺、新徳禅寺、壬生村会所、南部亀次郎邸、中村小藤太邸、四出井友太郎邸、八木源之丞邸、浜崎新三郎邸、柳恕軒邸、百姓玖太郎邸、百姓新三郎邸の11軒に分宿している。この宿割には旧前川邸が含まれていないが、八木邸には近藤たち10名が宿泊している。旧前川邸の公式HPでは、浪士組の宿舎を選定するに当たって、市中情勢にも詳しく役人の信頼も厚かった前川本家に任されたとしている。前川本家は油小路六角にあり、御所や所司代の掛屋であった。公金の出納や資金運用の仕事など現在で言うところの金融… ►続きを読む
壬生の町並み
壬生の町並み(みぶのまちなみ) 2008年05月18日訪問 壬生の町並み 民家の屋根に見かけた鍾馗様と仁丹の町名表示板 鳥羽殿跡から再び城南宮を経由し、城南宮道を東に進み、市営地下鉄烏丸線竹田駅に向かう。この間徒歩でほぼ30分近い。この竹田の地は、鳥羽街道、京阪国道、阪神高速8号京都線、近鉄京都線、竹田街道、京阪本線、JR奈良線、伏見街道と南北への移動は容易だが、東西を結ぶ公共交通機関は少ないのでただひたすら歩くしかない。鳥羽殿跡を出たのが15時30分頃だったので、壬生寺を目指して市内に戻ることとしたが、この城南の地にある安楽寿院などの鳥羽殿に関連する史跡を巡ったほうが効率的であったか… ►続きを読む
鳥羽殿跡
鳥羽殿跡(とばどのあと) 2008年05月18日訪問 鳥羽殿跡 千本通の向こう側に建つマンション群が見える 秋の山のある鳥羽離宮跡公園の南には大きなグランドが現れる。この地の地下には鳥羽離宮南殿の遺構があることを記した京都市の看板がフェンスに掛けられ、鳥羽殿跡の碑が建つ。 鳥羽離宮は12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されてきた院御所である。敷地面積約180町(180万平方メートル)には南殿・北殿・泉殿・馬場殿・田中殿などの御所が建設されると、寺院や広大な池を持つ庭園も築かれる。さらに院の近臣をはじめとする貴族から雑人に至る宅地が、鳥羽殿周辺に与えられたため、あたかも新しい都… ►続きを読む
秋の山
秋の山(あきのやま) 2008年05月18日訪問 秋の山 丘の上に残る鳥羽伏見戦跡碑 小枝橋からつながる城南宮道から30メートルくらい南に鳥羽離宮公園がある。周りの平坦な地形の中で少し盛られたような秋の山と呼ばれる場所がこの公園の北側にある。安永9年(1780)に刊行された都名所図会にも秋山として残されている。 「小枝橋半町ばかり南にして、茶店の向ふなり。鳥羽法皇城南離宮を営給ひし時、四季の風景をつくり、紅葉を多く植させ給ふ所を秋の山といふ、今纔の岡山遺れり」 秋の山 確かに人工的な構築物のように見える。紅葉する木々が植えられたことから秋の山とされていることからも、当時… ►続きを読む
小枝橋 その2
小枝橋(こえだばし) その2 2008年05月18日訪問 小枝橋 秋の山にある鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋の碑にある地図 前述の野口武彦氏の「鳥羽伏見の戦い」によると、下記のような軍配書に従って1月3日の進軍が行われていたことが分かる。 1 鳥羽街道 竹中丹後守 攻撃当朝鳥羽に出張、東寺に向かひ候こと 秋山下総守歩兵一大隊(第五連隊) 小笠原石見守歩兵一大隊(伝習第一大隊) 谷土佐守 桑名四中隊 松平右近将監(浜田藩) 2 伏見 城和泉守 攻撃前日出張のこと 窪田備前守歩兵一大隊(第十二連隊) 大沢顕一郎歩兵一大隊(第七連隊) 間宮銕太郎 新選組150人 3 二条御城 大久保主膳正… ►続きを読む
小枝橋
小枝橋(こえだばし) その1 2008年05月18日訪問 小枝橋 旧小枝橋の謂れを記した碑、京道・城南離宮の道標と共に鳥羽伏見戦跡の石碑が建つ 城南宮神苑を出て、東西に走る城南宮堂を西に向かう。左手に駐車場を見ながら西の鳥居を潜ると南北に通る京阪国道が現れる。この四車線の国道を歩道橋で渡りさらに西に進むと、鴨川の土手に突き当たり、道は北に曲がり千本通に合流する。この土手の手前のガードレール脇に旧小枝橋風景図を記した石碑、京道・城南離宮の道標、そして鳥羽伏見戦跡の石碑が建つ。 小枝橋 正面に旧小枝橋が架かり、鳥羽街道は左に折れて納所へと続く 旧小枝橋風景図は、この先の土手に架かっ… ►続きを読む