徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:京都府

吉田屋・清輝楼・大和屋

 

吉田屋・清輝楼・大和屋(よしだや・せいぎろう・やまとや) 2009年12月10日訪問 吉田屋・清輝楼・大和屋  頼山陽の書斎・山紫水明処の石碑の前から、さらに東三本木通を北に上ると、駐車場の一角にまだ新しい立命館草創の地と記された石碑が建つ。立命館の前身となる京都法政学校が設立したことを示す石碑である。このことに就いては後に触れることとして、石碑に描かれた写真について考えてみる。 新三本木の町並みから何回か書いてきたように、新三本木は宝永5年(1708)3月8日に発生した火災の後に出来た町である。宝永の大火後の皇宮地と市街地の整備に伴い、東洞院通にあった元の三本木1丁目から3丁目までの… ►続きを読む

 

山紫水明処 その5

 

山紫水明処(さんしすいめいしょ)その5 2009年12月10日訪問 山紫水明処   文政5年(1822)11月 ~ 天保3年(1832)9月                    9年10ヶ月  頼山陽没後、3人の子供を連れた梨影は天保5年(1834)10月、福井藩医の安藤静軒に水西荘を譲り渡し、富小路通押小路下ルに移る。生活を切り詰め、山陽の残してくれた遺産を長く使うためだろう。さらに安藤英男の論文「頼山陽の京寓とその生活 ―頼山陽書簡集をめぐって」によると嘉永3年(1850)正月には“姉小路お池下ル”へ転宅し、梨影は安政2年(1855)9月に、この家で病没している。享年59。 山… ►続きを読む

 

山紫水明処 その4

 

山紫水明処(さんしすいめいしょ)その4 2009年12月10日訪問 山紫水明処   文政5年(1822)11月 ~ 天保3年(1832)9月                    9年10ヶ月  山陽は両替町押小路の家(薔薇園)に入居した年から早くも転居を考え、新しい家の物色を始めていた。緊まりのない町中が、学者文人の住む環境でないことに気が着き、鴨川や東山の景観との別れに惜しみを感じるようになってきたためであろう。そして終の棲家となる場所を探し始めたとも言える。 文政4年(1823)9月には東三本木丸太町の地に見込みをつけている。しかし狭斜(中国長安の道幅の狭い遊里のあった街の名)の巷… ►続きを読む

 

山紫水明処 その3 

 

山紫水明処(さんしすいめいしょ)その3 2009年12月10日訪問 山紫水明処  木崎好尚の「百年記念 頼山陽先生 増補版」(頼山陽先生遺蹟顕彰会 1933年刊)の年譜に従うと、文化8年(1811)の入京以来下記のように転居を繰り返していることが分かる。文化8年 (1811) 閏2月 入京 新町通丸太町上ル春日町に開塾文化9年 (1812) 正月 車屋町御池上ル西側に転居文化12年(1815) 6月 二条高倉へ転居文政2年 (1819) 3月10日 先発帰京、二条木屋町仮寓文政4年 (1821) 4月26日 両替町押小路上ル東側に転居             (薔薇園)文政5年 (182… ►続きを読む

 

山紫水明処 その2

 

山紫水明処(さんしすいめいしょ)その2 2009年12月10日訪問 山紫水明処 頼山陽山紫水明処  山紫水明処では、頼家の系譜と頼山陽の生涯について記した。ここでは頼家の系譜に就いてまとめてみる。なお下記の略系は木崎好尚の「百年記念 頼山陽先生」(頼山陽先生遺蹟顕彰会 1933年刊)による。初代:正茂 -2代:道喜 -3代:良皓 -4代:亨翁                         |     --------------------    |5代:春水 -6代:聿庵 -7代:誠軒 -8代:弥次郎                         |     -----------… ►続きを読む

 

山紫水明処

 

山紫水明処(さんしすいめいしょ) 2009年12月10日訪問 山紫水明処 東三本木通に面した路地  頼山陽書斎山紫水明処の道標に従い、丸太町通より北に上ると直ぐに道は左右に分かれる。左の道は西三本木通、そして右は東三本木通と呼ばれている。新三本木の町並み その2でも書いたように、新三本木は南北に走る東三本木通に面した区域で、北側から上之町、中之町そして南町で構成されている。山紫水明処は最も南に位置する南町の鴨川に面した場所に建てられている。 頼山陽は江戸時代後期の儒者で安芸の人。名は襄、字は初め子賛、後に子成、通称は久太郎で山陽は号。他に三十六峰外史、改亭、悔亭そして憐二などといった時代… ►続きを読む

 

新三本木の町並み その2

 

新三本木の町並み(しんさんぼんぎのまちなみ)その2 2009年12月10日訪問 新三本木の町並み 右手に入口が見える  新三本木の町並みでは、宮地拡張に伴い三本木町が移転を余儀なくされたこと、そして鴨川の西岸に新三本木町を開町したこと、さらに遊里化して行く過程と頼山陽の山紫水明処を中心としたサロンが町の発展につながったことについて触れた。ここではもう少し幕末の町並みを見て行くこととする。 頼山陽書斎山紫水明処の道標に従い、丸太町通より北に上ると直ぐに道は左右に分かれる。左の道は西三本木通、そして右は東三本木通と呼ぶ。新三本木は南北に走る東三本木通に面した区域で、北側から上之町、中之町そし… ►続きを読む

 

新三本木の町並み

 

新三本木の町並み(しんさんぼんぎのまちなみ) 2009年12月10日訪問 新三本木の町並み 細い東三本木通  「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)によると、元禄4年(1691)京大絵図には「あきやしき」「三人衆」と記され、現在の三本木町には町名らしきものはなかったようだ。宝永5年(1708)3月8日に発生した火災、つまり油小路通三条上ルの銭屋市兵衛宅より出火した宝永の大火によって、禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が炎上、九条家・鷹司家をはじめとする公家の邸宅、寺院・町屋などを悉く焼失している。この大火後の市街地整備に伴った御所拡張も行われ、三… ►続きを読む

 

頼山陽書斎山紫水明処

 

頼山陽書斎山紫水明処(らいさんようしょさいさんしすいめいしょ) 2009年12月10日訪問 頼山陽書斎山紫水明処  丸太町橋の西南橋詰には、明治5年(1872)に開設された新英学校及女紅場が、明治7年(1874)に英女学校及女紅場、明治9年(1876)に京都女学校及女紅場、明治7年(1882)に京都女学校、そして明治20年(1887)には京都高等女学校と校名を変えながら明治31年(1898)までこの地に存在していた。そして大正13年(1924)に竣工した旧京都中央電話局上分局も平成元年(1989)からは商業施設に改修されている。 この場所の対面にあたる丸太町通の北側には、頼山陽書斎山紫水… ►続きを読む

 

女紅場址 その2

 

女紅場址(にょこうばあと)その2 2009年12月10日訪問 女紅場址  丸太町橋の西南詰に建てられた女紅場について調べてみる。石碑の北面には、女紅場址の説明として「本邦高等女学校之濫觴」と記されている。そして西側に「女紅場ハ京都府立京都第一高等女学校創立当初ノ名称ニシテ明治五年四月十四日旧九条家河原殿ニ開設セル者ナリ」とある。この女紅場は明治5年(1872)に九条家の別邸に建てられたもので、明治37年(1904)4月に京都府立京都第一高等女学校と改称されている。そのため官立東京女学校として明治4年(1871)12月に設置された東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)に次いで最も古い高… ►続きを読む

 

女紅場址

 

女紅場址(にょこうばあと) 2009年12月10日訪問 女紅場址 旧京都中央電話局上分局の北東角  旧京都中央電話局上分局の北東角、鴨川に架かる丸太町橋の南西橋詰には女紅場址の碑が建つ。 女紅場の説明に入る前に明治初年の教育事情について簡単に触れておく。京都では明治2年(1869)1月、前年に決めた上京45下京41の町組を改正した第二次町組が出来る。この町組改正により上京33、下京32の計65町組が一応出来上がる。しかし明治2年の内に下京1町組が分離し2町組となったため、上京33町組下京33町組の66町組となる。 前年の明治元年(1868)9月に既に京都府は小学校の建設を各町に奨励してい… ►続きを読む

 

旧京都中央電話局上分局

 

旧京都中央電話局上分局(きゅうきょうとでんわきょくかみぶんきょく) 2009年12月10日訪問 旧京都中央電話局上分局  行願寺の山門を出て、下御霊神社そして横井小楠殉節地の碑の前を通り、再び丸太町通に戻る。鴨川に架かる丸太町橋を目指し東に進む。河原町通、土手町通を越えると右手に吉田鉄郎設計の旧京都中央電話局上分局が現れる。 建築家吉田鉄郎は、明治27年(1894)富山県東砺波郡福野町の郵便局長を務める五島寛平の3男として生まれる。金沢の旧制四高を経て東京帝国大学建築学科を大正8年(1919)に卒業する。逓信省営繕課に入った鉄郎は、同年吉田芳枝と結婚し以後吉田姓となる。  逓信省は明治1… ►続きを読む

 

行願寺

 

天台宗 霊麀山 行願寺(ぎょうがんじ) 2009年12月10日訪問 行願寺  下御霊神社の鳥居を出て再び寺町通を下る。竹屋町通が寺町通に突き当たる場所に西面して行願寺がある。革堂ともよばれる天台宗の寺院で、山号は霊麀山。西国三十三所観音霊場第19番札所で、清水寺、六波羅蜜寺、頂法寺(六角堂)、善峯寺などが名を連ねている。本尊の千手観音は行円が夢託によって得た賀茂神社の槻木を刻んだものであり、その余材は善峯寺の本尊に充てられたと伝えられている。 初めは一条小川新町にあり、一条北辺堂とよばれた。現在でも小川通一条上ルあたりに革堂町、革堂仲之町、革堂西町などの町名が… ►続きを読む

 

下御霊神社

 

下御霊神社(しもごりょうじんじゃ) 2009年12月10日訪問 下御霊神社  横井小楠殉節地より、寺町通を南に30メートルほど下ると下御霊神社の鳥居が現れる。 下御霊神社は、「山州名跡志 坤」巻之二十二(「新修 京都叢書 第19巻 山州名跡志 坤」(光彩社 1968年刊))に以下のように記されている。 在リ二京極通大炊御門ノ北東方ニ一門西向 拝殿同 社同 所レ祭ル辨スレ上ニ當社始メ新町通リ近衛ノ南ニアリ。今尚云フ二御霊ノ町ト一。  京極通は東京極大路のことであり、平安京の東端にある大路のことである。現在の寺町通と考えてもよい。大炊御門通も現在の竹屋町通にあたる。鳥居は西を向き拝殿も西向き… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その7

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その7 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  この項では小楠暗殺以降のことをまとめてみる。  新政府の重臣に対する襲撃事件の実行犯を即刻逮捕することは、朝威と政体の上から必要不可欠なことであった。事件発生後直ぐに洛中には軍務官と京都府から捕吏が繰り出された。そして京七口には平安隊の兵が固め、大津・淀・伏見の往来を禁じ、犯人の逃走路を遮断した。早くから十津川人と肥後人が犯行に関わっていると見られ、肥後藩重役に呼び出しがかかり、十津川藩邸や屯所も捜索されている。 事件当日、中町夷川通の中村屋梅吉方で重態の柳田直蔵が発見される。襲撃で深手… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その6

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その6 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地 その5では同世代人である佐久間象山との比較の中から、横井小楠の思想の柔軟さと革新性を見い出した。いよいよこの項では小楠暗殺がどのように行われたかについて記してみる。 慶応3年(1867)12月18日、三職が参内し朝議が行われ、王政復古を諸外国に宣言する擬案とともに人材登用・革政所設置の事が議論されている。「復古記 第一冊」(東京帝国大学蔵版 1930年刊)復古記巻十一の12月18日の条には下記のような人選が成されている。   御任選 御沙汰ニ付言上之向、列藩   德川&#… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その5

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その5 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地から横井小楠殉節地 その4までを使い、横井小楠の思想的な展開について、開国論を中心に書いてみた。最初に比較したように佐久間象山と横井小楠について再び考えてみる。象山は文化8年(1811)2月に松代に生まれている。対して小楠は文化6年(1809)8月生まれと、現在の教育制度では小楠が1学年上となる。ほぼ同世代といってもよく、二人は同じ時代に生き、同じものを見て感じ考えてきたはずである。しかしながら歴史的に小楠と象山が巡り合うことはなかったようだ。「日本の名著 30 佐久間象… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その4

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その4 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地 その3では横井小楠の年譜に従い、誕生から時習館改革そして肥後実学党の分裂までを書いてきた。この項では小楠の越前藩招聘から明治元年(1868)までを記してみたい。 万延元年(1860)の「国是三論」から少し時代を遡る。安政4年(1857)5月、越前藩士村田氏寿が松平慶永の命を受け、横井小楠招聘のために熊本を訪れる。肥後藩庁は小楠招聘に対して難色を示し、種々の理由をもとに許可を降ろさなかった。しかし藩主細川斉護の三女勇姫が慶永の正室という姻戚関係から半ば強引に許可を得ること… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その3

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その3 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地と横井小楠殉節地 その2では横井小楠の年譜に触れずに、いきなり対外政策について書き始めた。この項では小楠の生涯を追い、嘉永6年(1853)の「文武一途の説」や「夷虜応接大意」以降の思想的な展開と松平春嶽の活動に与えた影響について考える。 横井小楠は、文化6年(1809)肥後国熊本城下の坪内町に、熊本藩士横井時直の次男として生まれる。文化13年(1816)ころに藩校時習館に入学する。天保4年(1835)一般課程を終え、居寮生となる。天保7年(1836)4月に講堂(一般課程の最… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その2

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その2 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地では碑の建立の経緯と、横井小楠が嘉永6年(1853)に建言した「文武一途の説」を通じて、小楠の思想がどのようなものであったかを記してみた。小楠の外交に対する考え方が少し長くなってきたため、翌年の再訪を約してペリーが日本を去ったところで前項を閉じた。この項ではペリーに次いで日本を訪れたプチャーチンへの応接を通じてさらに小楠の外交政策の展開を見て行く。 ペリーの1回目の浦賀来航から僅かに遅れ、嘉永6年(1853)7月18日、プチャーチンは旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長… ►続きを読む

 
 

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