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山紫水明処 その4



山紫水明処(さんしすいめいしょ)その4 2009年12月10日訪問

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山紫水明処

  文政5年(1822)11月 ~ 天保3年(1832)9月
                    9年10ヶ月

 山陽は両替町押小路の家(薔薇園)に入居した年から早くも転居を考え、新しい家の物色を始めていた。緊まりのない町中が、学者文人の住む環境でないことに気が着き、鴨川や東山の景観との別れに惜しみを感じるようになってきたためであろう。そして終の棲家となる場所を探し始めたとも言える。
 文政4年(1823)9月には東三本木丸太町の地に見込みをつけている。しかし狭斜(中国長安の道幅の狭い遊里のあった街の名)の巷にも近いので、親同然の菅茶山の顰蹙を買うことになるのではないかという恐れを山陽は抱いた。そのため早速、茶山に根回しをするため以下のような書簡を出している。

三本木にも佳地面有之、絲肉の喧如何と奉存候へども、市鄽・牙籌之音にはまさり可申奉存候

 市鄽・牙籌(市街地の商家や算盤の音)と難しい漢語を使用している。市街地の喧騒よりはましだという言い訳である。山陽がこの地を気に入ったのは、郊外の僻地でもないのに山水の景観に恵まれ、土地にも余裕があったことである。そして茶山に続き叔父の春風にも転居の了解を求める書簡を出している。この中で母を慰めるのにも風景も良いし、君子が居れば陋巷ではないということも書いている。
 三本木に狙いをつけたものの、これを買い取るためには相当な資金が必要であった。山陽は出資者として、伊丹の銘酒剣菱の醸造元にして山陽の門人でありパトロンでもある坂上桐蔭に白羽の矢を立てた。伊丹の蘭医原老柳を介して桐蔭に申し入れを行ったが不調に終わっている。さらに尾道の豪商灰屋の主人橋本竹下に飛脚問屋の伊勢屋治郎左衛門を介して依頼している。竹下も山陽の門弟であったが、交渉は成立しなかった。そのため土地購入は断念し、家だけを83両で購入し修理と庭樹の手入れを施し、これら100両近い出費を自らの貯蓄で賄っている。土地は借地ながら自らの持ち家を購入できた山陽は、大いに喜び「水西荘」と名付け、文政5年(1822)11月9日に引っ越している。

 市街地に住んだものの周囲の白壁を眺めて暮らすことに飽きてしまった。やはり眺望の素晴らしい鴨川の西岸こそが学者文人の住むべき地である。しかし木屋町の水楼は庭が狭くて樹を植えることができない上、家賃が高い。上流を探すうちに三本木に辿りついた。これからは家賃に困らず生涯安心して暮らすことが出来ると終焉の地に定めた。以上、山陽が三本木町に新しい居宅を設けた心情である。
 岡田孝男の作成した水西荘復元図によると、間口11間、鴨川岸から奥行13間、143坪の土地の借地権を手に入れている。東三本木通に面した奥行11間分の借地権はこの時購入できていなかった。近くにあった清暉楼や月波楼などと同じく水西荘もまた料理屋の焼け跡に建てられた貸家であった。

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山紫水明処 昔は山紫水明処の足元を鴨川が流れていた

 山陽は水西荘に移って7年目の正月に庭の東南に別亭を築く。そして二条木屋町仮寓と同じく山紫水明処の名を再び使用している。別名・三面梅花処ともいう建物が唯一水西荘の現存する遺構となっている。山陽の書斎にして上客を接待する座敷であり、瞑想の場でもあった。この建物は四畳半の座敷に二畳の次の間、そして水屋などが付いた小亭である。元治元年(1864)7月の甲子戦争(禁門の変)の類焼を受けた。しかし水西荘には画家の菅井梅関や田能村竹田が訪れていることから、書画がなどにかつての姿が残されている。これから推測されることは、母屋は6棟、その内4棟が2階建、母屋と山紫水明処は廊下で結ばれていたこと、そして山紫水明処との間の庭の一部は現存していることなどである。ここでも建物の2階に門生を起居させていたのであろう。

 現在の山紫水明処は頼山陽旧跡保存会によって管理され、事前に申し入れれば内部の拝観も可能である。今回は東三本木通に面した路地の木戸より奥に入ることができなかった。松本淳さんが管理されている「日本漢文の世界」に掲載されている 頼山陽故居「山紫水明処」訪問には実際に訪問された際に撮影された多くの写真と岡田孝男著の「史跡 頼山陽の書斎 山紫水明処」からの図面があるため、山紫水明処の状況が良く伝わる。

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山紫水明処
古写真 坂本辰之助(箕山)「頼山陽」(頼山陽伝刊行会 1929年刊)

 岡田孝男の作成した山紫水明処平面図を参照しながら、山紫水明処の構成を考えて行く。東三本木通に設けられた木戸の先には凡そ10間の路地が続く。両側には町家が建てられているため、路地の両側ともに板塀で設え、一応の統一感を持たせている。写真によってだと分からないが路地の両足元には植栽がある。突き当りは小竹を竪に組んだ竹垣で閉じられ、中門が設けられている。
 中門を潜ると山紫水明処の庭が広がる。中央に降り井があるが、これは後世に作られた可能性もあるようだ。降り井は地面から2mほど下に井筒が設けられた半地下式の井戸で、井筒まで降りて水を汲むことから名付けられている。この場所では鴨川の伏流水が湧き出すために設けられたが、室戸台風後の河川改修の影響で残念ながら現在は枯れている。京都市都市緑化協会の公式HPに掲載されている 山紫水明処(頼山陽書斎)の庭では、「京都の伝統的な日本庭園でもほとんど用いられてこなかった大変珍しい意匠です。」としている。また、「NHKスペシャル アジア古都物語 第6集 千年の水脈たたえる都 ~日本 京都~」で紹介している賀茂御祖神社の社家・鴨脚家の庭園にも同じ意匠を見ることができる。 この井戸を囲むように植栽が植えられている。この庭の中でも印象的な棗の木は井戸の北側に植えられている。そして庭園内の路地も中央の井戸を回り込むように、中門から2つの方向に分かれる。一方は山紫水明処の南面に設けられた四畳半の間に上がり、もう一方は西面の板の間へと続く。

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山紫水明処

 前述のように山紫水明処は南側の四畳半、北側のニ畳間と板の間、そして東側の鴨川に面した縁側で構成されている。やや南北に長い方形に南北が妻面となる入母屋の茅葺屋根を載せている。坂本箕山著の「頼山陽」(敬文館 1913年刊)には水西荘の古写真が掲載されているが、現在の屋根とは異なり、丁字型に架けている。つまり、四畳半の間の上には東西に妻面を持つ入母屋、二畳の間と板敷きの間の上には南北に妻面がある屋根が架けられていたように見える。この屋根の架け方は、四畳半と二畳の間が異なった使用目的で作られたことを伝えているのかもしれない。

 この建物の特筆すべき点は、四方全部に対してかなりの大きさの開口部を設けていることである。恐らく、京都の夏の暑さ対策として鴨川沿いの涼風を建物に取り込むための知恵であろう。鴨川側の縁側には中国風の欄干が施され、鴨川に下りて行くというよりは、鴨川と東山を望む目的で作られたことが分かる。ここには煎茶を愛した山陽の中国趣味が顕われている。縁側から南側に面した部分には板ガラスの入った障子を建て込んでいる。この板ガラスは山陽の時代のものとされている。
 二畳間の縁側に面した部分にも板ガラスの入った障子を用いているが、隣の四畳半の間に比べると若干ガラス面を減らしている。昼間は鴨川の川面からの反射光で明るくなり過ぎるために、少し光を絞るために大きさを変えたのではないかと思われる。二畳の間の北面は網代の腰板を巡らし、その上に障子を入れている。通風を取り、なおかつ光量調整も行えるようになっているので、恐らくこの二畳間が執筆の場として使われたのであろう。縁側の北の突き当たりには雨戸の収納が作られているため、その内側の二畳の間の縁側は小壁になっている。北に面して机を置けば心地よい空間になるだろう。なお、この部屋の天井は小竹を南北に流した質素な棹縁天井となっている。
 二畳の間の西側には板敷きの小間がある。この小間へは、直接庭から上がることができ、また物入れもある。山紫水明処を茶室として使用した場合の水屋、宴を行った際の給仕場として使うことができるだろう。

 四畳半の間の東面は全面的に縁側に開放し、北面も二畳の間と接続しているため、床は西南の角に作られている。この床に続いて小さな棚が設えてある。棚の上は障子が入れられ通風を可能としている。内部からは棚の下は網代貼りの地袋のように見えるが、実はこの部分も外部に面した建具になっている。このことは建物の外に廻るとすぐに分かる。茶室の躙口のようにも見えるが、煎茶を好んだ頼山陽は、この草庵を一般的な茶道の茶室としては使用していなかったのではないだろうか。この口の外部には踏み石などが設けられていないことからも伺える。
 細かいことではあるが、引き戸の外部は板張り、内部は網代貼りとなっている。棚の上の部分は跳ね上げ戸、棚の下はさらにもう1枚外側に雨戸を入れ、雨仕舞いをしっかり行っている。床柱は棚の下の内側の引き戸と同じ面に納められ、床板はそのまま伸びて、内外2枚の引き戸の間の床となっている。さらに床の棚側の小壁が取り除かれているため、外側の建具を開けておけば、内側の建具を閉めておいても換気が出来る仕組みになっている。他では見られない意匠となっている。床に向かい座り、棚の下の引き戸を開けると、庭の中央に設けた降り井がよく見えるようになっている。恐らく茶道の躙口などではなく、草庵から庭を鑑賞するために設けた窓と考えるのが妥当であろう。
 四畳半の間の天井は二畳間のような棹縁天井ではなく、阿家形の葦張り天井となっている。中央部がやや高く、中央から四方に向かって縁を流すことで、より求心性の強い意匠になっている。先にも少し触れたように、四畳半の間の上には東西に妻面を持つ入母屋、二畳の間と板敷きの間の上には南北に妻面がある屋根が架けられていた。この屋根の架け方のほうが、この四畳半の間の意匠や、南北2つの空間の主従関係を表現する上で優れていたと思われる。

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山紫水明処

「山紫水明処 その4」 の地図


大きな地図



山紫水明処 その4 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01   頼山陽 1 新町丸太町通上ル春日町 35.0177 135.7565
02   頼山陽 2 車屋町御池上ル西側 35.0112 135.76
03   頼山陽 3 ニ條高倉東入ル北側 35.0137 135.7626
04   頼山陽 4 木屋町二条下ル柴屋長次郎方 35.0128 135.771
05   頼山陽 5 両替町押小路上ル東側 35.0125 135.7589
06  山紫水明処 35.0181 135.7708
07   頼梨影 7 富小路通押小路下ル 35.0119 135.765
08   頼支峰 8 高倉通六角南 35.0071 135.7626
09  頼三樹三郎 9 河原町三条上ル夷町 35.0095 135.7694
10   頼支峰 10 小堀袋町 35.006 135.7782

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