カテゴリー:京都府
石塀小路
石塀小路(いしべいこうじ) 2008年05月16日訪問 石塀小路 レンガ塀は圓徳院 建仁寺の東北の門を出て、祇園甲部歌舞練場の南を東に進むと、程なくして東大路通に出る。東山安井の交差点を横断し、更に東へ向うと下河原通が現れる。この通りは、八坂神社の南楼門と八坂の塔を結ぶ南北の道であり、西側は下弁天町と上弁天町そして清井町、東側には高台寺がある下河原町となっている。元治元年(1864)に刊行された花洛名勝図会にはこのあたりの様子が残っている。高台寺の寺域は現在より大きく、駐車場から霊山観音そして霊山護国神社のあたりまで広がっていたように見える。 花洛名勝図会を見る限り、江戸時代末期には圓… ►続きを読む
建仁寺 方丈
建仁寺 方丈(けんにんじ ほうじょう) 2008年05月16日訪問 建仁寺方丈 潮音庭 建仁寺の公式HPにある建仁寺境内図によると、六道珍皇寺を除くと塔頭は禅居庵・久昌院・堆雲軒・興雲院・常光院・正伝永源院・大中院・西来院・両足院・霊洞院・大統院・霊源院の13となっている。かつては予約制公開をしていた両足院も現在は行っていないようなので、唯一常時公開されている方丈は建仁寺を知る上でも見逃せない存在となっている。 建仁寺方丈 本坊 建仁寺方丈 俵屋宗達の風神雷神図 もちろんレプリカ 2008年秋に東京国立博物館で開催された「大琳派展 継承と変奏」で俵屋宗達(1570?~16… ►続きを読む
建仁寺
臨済宗建仁寺派大本山 東山 建仁寺(けんにんじ) 2008年05月16日訪問 建仁寺 勅使門から三門を眺める 六波羅蜜寺を出て、再び西福寺のある松原通を越えて北に進むと八坂通に突き当たる。この道を西に曲がり進むと民家が途切れ、右手に銅版葺切妻造の四脚門が現れる。小振りではあるが非常に簡素で力強い門である。これが建仁寺の勅使門である。別格の南禅寺、天龍寺、相国寺に次ぐ京都五山の第三位に格付けられているのにしては、質素な門である。 建仁寺 八坂通に面する勅使門 勅使門の脇にある門から境内に入ると勅使門、放生池、三門、法堂そして方丈が南北軸の上に配置されている。 建仁寺 放生池か… ►続きを読む
六波羅蜜寺
真言宗智山派 補陀洛山 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ) 2008年05月16日訪問 六波羅蜜寺 六道の辻と呼ばれる松原通を西福寺の角から南に下ると程なくして右手に六波羅蜜寺の石造の門柱とその奥の本堂が現れる。本堂の前の引きがないため、境内では本堂の全貌を撮影することが難しい。 西福寺と六波羅蜜寺の間、そして六波羅蜜寺の西側には京都市立六原小学校があり、六道珍皇寺の前にはハッピー六原というスーパーがある。すなわち六原と六波羅が混在している。このあたりのことは、フィールド・ミュージアム京都の中の六波羅の項でも触れている。ここでは轆轤町のもととなった轆轤原に由来しているが、六波羅蜜寺に因んだ地… ►続きを読む
六道珍皇寺
臨済宗建仁寺派 大椿山 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ) 2008年05月16日訪問 六道珍皇寺 門前に建つ小野篁卿旧跡と六道の辻の碑 鴨川の東岸を南北に走る川端通から、松原通に入り東に進むと小野篁卿旧跡の碑とともに六道の辻と記された赤味を帯びた石碑が現れる。この石碑の奥に六道珍皇寺の山門が開いている。 六道珍皇寺 禍禍しい六道の辻の碑 六道珍皇寺の開基については諸説あり、いずれが真実かは判断しにくい。高津希和子氏の「珍皇寺鐘論 -『古事談』鋳鐘説話をめぐって-」の論文にはそのあたりの経緯が記されていたので、これを参考にしてまとめてみる。 平安時代前期の延暦年間(782~805… ►続きを読む
六道の辻
六道の辻(ろくどうのつじ) 2008年05月16日訪問 六道の辻 西福寺の角に建つ六道之辻の碑 八坂の塔を背にして八坂通を下って行く。この通りから塔を見上げる写真は午後でないと逆光になるため、今回は撮れていない。坂を下り切ると東大路通に出る。大通りを横断しさらに進むと右手に建仁寺、左手に六道珍皇寺の裏門が現れる。南に下り松原通に廻ると六道珍皇寺の山門と六道の辻と記された石碑が現れる。 六道の辻 清水寺 子安塔の背後の山は阿弥陀ヶ峰 阿弥陀ヶ峰山麓一帯はかつて鳥辺野と葬送の地であった。この鳥辺野の入口 へ続く道に面して建っていたことから六道寺とも呼ばれていた。阿弥陀ヶ峰は清水寺の… ►続きを読む
八坂の塔
八坂の塔(やさかのとう) 2008年05月16日訪問 八坂の塔 文の助茶屋前 清水寺の参道である松原通から、七味家総本店の脇の石段に入ると産寧坂となる。この坂は最初、北に向かって下って行くが奥丹のあたりで西側に曲がり始める。再び北に向かうニ寧坂に入らずこの道沿いに進むと右手に八坂の塔が現れる。この奥丹から下りながら塔に近づいてく道は、周りの町並みとともに最も塔が美しく見えるアプローチにもかかわらず、電柱と電線が景観を完全に破壊している。日本の都市景観の貧困さを象徴する光景となっている。 八坂の塔 竹内栖鳳旧宅前から かつての翠紅館現在の京大和の中庭からの眺望はすばらしいものだと… ►続きを読む
霊山墓地
霊山墓地(りょうぜんぼち) 2008年05月16日訪問 霊山墓地 二寧坂の角の翠紅館の敷地にある京懐石の京大和を右手に見ながら、霊山を上る道を進むと、道の右側に5本の碑が車止めのように建っている。左側から見ていくと木戸孝充、勤皇志士、梅田雲浜、天誅組義士そして坂本龍馬の墓所への道標であることが分かる。 道路の反対側には緑色の大きな石碑が置かれ、維新の道と記されている。昔この写真を雑誌で見かけたときは、もう少し山の中の参道の脇に置かれた石碑と思っていたが、実際には高台寺の大きな駐車場の目と鼻の先にある。この碑を過ぎると参道の両側の樹木が次第に深くなり、昔得たイメージに近づいていく。 それ… ►続きを読む
翠紅館跡
翠紅館跡(すいこうかんあと) 2008年05月16日訪問 翠紅館跡 清水寺から高台寺に向けて二寧坂を下ってくると、正面に高台寺の巨大な駐車場と霊山観音が現れる。この二寧坂の終わる右角に京懐石を供する京大和という料亭がある。その門前には翠紅館跡の碑が建つ。 そして永和2年(1376)国阿上人が入寺して時宗霊山派の本山とし、寺号も正法寺に改める。国阿上人は播磨国に生まれ、熊野などの山岳における修行に勤め、伊勢神宮を信仰している。 ある時、上人は伊勢神宮参詣の途上、女性の死骸に出会う。その亡骸を手厚く葬るが、死に触れた穢れのため参宮を中止しようとする。その時、死骸に化身していた天照大神が現れ… ►続きを読む
産寧坂・二寧坂・一念坂
産寧坂・二寧坂・一念坂(さんねいざか・にねんざか・いちねんざか) 2008年05月16日訪問 産寧坂 清水寺を出て、高台寺の方へ向う。清水寺の仁王門前から始まる松原通を下っていくと、程なくして松原通と五条通が合流箇所に出る。有名な七味家本舗の脇を松原通から下っていく石段がある。ここが産寧坂の始まりとなる。 産寧坂 入口にある七味家本舗 産寧坂 この坂の由来はどうもはっきりしない。清水寺の南にあった泰産寺へ続く坂道のため産寧坂と言うという説が説得力を持っている。明治時代の廃仏毀釈によって廃寺となったため、泰産寺の歴史自体も明らかなことは分からない。聖武天皇と光明皇后が安産祈… ►続きを読む
地主神社
地主神社(じしゅじんじゃ) 2008年05月16日訪問 地主神社 本堂 清水寺の本堂の北側にこんもりした丘のような高台がある。頂部はそれ程広くないものの、清水寺の敷地全体の中でも重要な場所であることが分かる。この場所に地主神社が建てられている。別の日に成就院を訪れたが、成就院の前にある池の対岸が小山のようになっていた。その時はよく位置関係が分かっていなかったが、これが地主神社の北側の斜面だったようだ。清水寺自体が尾根線から谷に迫り出して建てられた寺院であるが、この地主神社は、その尾根の上にさらに隆起した小山の上に建てられていることが分かる。 地主神社は「じぬし」ではなく「じしゅ」と読… ►続きを読む
清水寺
北法相宗総本山 音羽山 清水寺(きよみずでら) 2008年05月16日訪問 清水寺 子安塔から眺めた本堂 7日目は東山を廻ることとしている。最初に清水寺に入り、ここから産寧坂・二年坂を歩き、建仁寺、高台寺、そして円山公園を超えて知恩院、青蓮院を拝観した後に、小川治兵衛が作庭した並河靖之七宝記念館を見学する。ここは月曜日と木曜日は休館日となっているの。南禅寺を拝観した月曜日には閉まっていたので、本日の予定に組み入れた。見学後、市営バスで東大路通を南下し七条に出る。智積院、蓮華王院、豊国神社を拝観後、豊国廟に向かう、相変わらずの詰め込みすぎの予定である。七条から順に北へ上っていけば好いよう… ►続きを読む
洛東の町並み その3 木屋町通 3
洛東の町並み(らくとうのまちなみ) その3 木屋町通 3 2008/05/15訪問 高瀬川 元立誠小学校前から南側を眺める 高瀬川沿いの木屋町通を二条通から四条通に向かって歩く。 北は二条通から南は七条通まで続く全長約2.2キロメートルの南北路。江戸初期、豪商の角倉了以が開削し周辺を造成したのがこの地の繁栄の始まりとなっている。高瀬川から運ばれる木材や薪などの木を扱う店が多かったことが通りの名前の由来である。 佐久間象山の寓居跡を過ぎ、さらに南に下ると武市瑞山先生寓居跡と吉村寅太郎寓居址の碑が並ぶ。 武市瑞山先生寓居跡 現在は金茶寮 昔は丹虎 武市半平太は土佐藩の郷士・武市… ►続きを読む
洛東の町並み その2 木屋町通 2
洛東の町並み(らくとうのまちなみ) その2 木屋町通 2 2008/05/15訪問 高瀬川の西岸にある大村益次郎卿遭難碑と象山先生遭難碑 高瀬川沿いの木屋町通を二条通から四条通に向かって歩く。 北は二条通から南は七条通まで続く全長約2.2キロメートルの南北路。江戸初期、豪商の角倉了以が開削し周辺を造成したのがこの地の繁栄の始まりとなっている。高瀬川から運ばれる木材や薪などの木を扱う店が多かったことが通りの名前の由来である。 高瀬川一之舟入 奥に押小路通沿いの建物の背面が見える 2005年8月16日撮影 押小路通の街並み 北条別邸 逍遥遊 何の碑か? 一之舟入の南… ►続きを読む
洛東の町並み 木屋町通
洛東の町並み(らくとうのまちなみ) その1 木屋町通 2008/05/15訪問 高瀬川一之舟入 2005年8月16日撮影 高瀬川沿いの木屋町通を二条通から四条通に向かって歩く。 北は二条通から南は七条通まで続く全長約2.2キロメートルの南北路。江戸初期、豪商の角倉了以が開削し周辺を造成したのがこの地の繁栄の始まりとなっている。高瀬川から運ばれる木材や薪などの木を扱う店が多かったことが通りの名前の由来である。 木屋町通は二条通から始まる。このあたりは先斗町や三条あたりの喧騒とした雰囲気はない。 ホテルフジタ京都 鴨川側の外観 2005年8月16日撮影 二条通の北側、鴨川沿… ►続きを読む
善導寺
浄土宗知恩院派 真光明院 善導寺(ぜんどうじ) 2008/05/15訪問 善導寺 ビルの間の竜宮門 木屋町通と二条通が交差する北側に善導寺の竜宮門が見える。浄土宗知恩院派・真光明院善導寺。永禄年間(1558~1569)筑後の善導寺の憎・然誉清善和尚によって六角堂附近に創立されたが、天明8年(1788)の天明の大火で焼失する。第4世旭誉のときに、長谷川重兵衛の寄進によってこの地に移る。江戸時代末期までは摂政院、宝昌院、清香院の3塔頭を有する大寺であったが、現在は廃絶し残っていない。境内には嵯峨釈迦堂の本尊を模した釈迦三尊石仏がある。高さ1メートルほどの自然石に三尊の立像を半肉彫りにしたも… ►続きを読む
ホテルフジタ京都
ホテルフジタ京都(ほてるふじたきょうと) 2008/05/15訪問 ホテルフジタ京都 鴨川側の外観 撮影2005/08/16 鴨川にかかる二条大橋の西詰めに吉村順三設計による昭和45年(1970)竣工のホテルフジタ京都が建つ。こちらのホテルには一度予約を入れたことがあったが、三宮で阪神大震災に遭い、神戸から京都へ移動することができず、泣く泣くキャンセルの電話を入れた思い出がある。残念ながら今回もこちらに宿泊する予定を組むことができなかった。またいつか機会があれば一度訪れてみたいと思う。ホテルフジタ京都の敷地の北端に、藤田伝三郎の別邸 夷川邸が残されている。 藤田伝三郎は明治期の関西… ►続きを読む
島津創業記念資料館
島津創業記念資料館(しまづそうぎょうきねんしりょうかん) 2008/05/15訪問 島津創業記念資料館 善導寺の斜め前には国登録有形文化財の島津創業記念資料館が建つ。建物は明治27年(1894)竣工の北棟と明治21年(1888)竣工の南棟から構成される。 島津製作所の創設者である初代島津源蔵は天保10年(1839)に京都の醒ヶ井魚棚、現在の堀川六条付近で仏具師であった島津清兵衛の次男として生まれる。源蔵は万延元年(1860)21歳で木屋町二条に出店している。この時、家業の仏具師ではなく鍛冶工であったようだ。この地は高瀬川の終着点に近く、重要な流通拠点であった。京都府は殖産興業のため明… ►続きを読む
高瀬川源流庭苑
高瀬川源流庭苑(たかせがわげんりゅうていえん) 2008/05/15訪問 高瀬川源流庭苑 門の中ににある山縣有朋第二無鄰菴跡の碑 島津製作所の前には、現在は「がんこ 高瀬川二条苑」となっているが、かつてここには山縣有朋の第二無鄰菴があった。無鄰菴の項でも書いたように、山縣は普請道楽で造園好きとしても知られ、生涯で無鄰菴という名の邸宅を三つも造っている。 最初の無鄰菴は長州下関の草庵であった。閑静な場所に建てられ、隣家がない様から無鄰菴と名付けられた。 2番目は慶長16年(1611)、豪商・角倉了以によって作られた木屋町二条の鴨川近くの邸宅跡を明治24年(1891)に購入し、第二無鄰菴と… ►続きを読む
吉村寅太郎寓居址
吉村寅太郎寓居址(よしむらとらたろうぐうきょのあと) 2008/05/15訪問 吉村寅太郎寓居址の碑 木屋町通三条上るの武市瑞山先生寓居跡の碑が建つ金茶寮の南側隣地に、吉村寅太郎寓居址の碑がある。1階部分が道路から少しセットバックし、前庭のように設えられている中に置かれているため、少し見づらい状況になっている。また何故だか分からないが、狸の焼き物も置かれている。 この碑も含めて「吉村寅太郎」と書かれたものを多く見てきた。しかし自ら虎太郎という文字を多用していたと言われているので、ここでは虎太郎という表記を使う。 吉村虎太郎は天保8年(1837)土佐国高岡郡芳生野村(現在の高知県高岡郡… ►続きを読む