文書と写真・地図による「記憶」の再現

カテゴリー:徘徊の記憶

白峯神宮 その7

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その7 2010年1月17日訪問 白峯神宮 2011年6月18日撮影  白峯神宮 その6では、崇徳天皇の鎮魂のために造営された崇徳院廟の所在地の特定について見て来た。この項では、幕末維新期の白峯神宮創建の経緯について調べてみる。 上御霊神社 南門  崇徳上皇の怨霊鎮魂に一番熱心であったのは、保元の乱の当事者である後白河法皇だったことは当然の結果とも言える。法皇はかつて戦場の地となった白河北殿の地に崇徳院廟を造営し、元暦元年(1184)4月15日に遷宮を行っている。しかし建久3年(1192)11月16日に後白河法皇が崩御すると、朝廷の崇徳院怨霊に対する恐れは次第に弱まっていく。つまり後白河法皇以外の者が、天変地異を崇徳院の怨霊の仕業と考えなくなってきたのである。それ… ►続きを読む

 

白峯神宮 その6

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その6 2010年1月17日訪問 白峯神宮 拝殿から本殿を望む  白峯神宮 その5では、崇徳天皇の怨霊伝説の始まりから鎮魂のための崇徳廟の造営について見て来た。この項では、応仁の乱で失われた崇徳院廟がどこに所在していたかについて考えてみる。 元暦元年(1184)4月15日に遷宮、鴨川の氾濫によって嘉禎3年(1237)に遷座した崇徳院廟はどこに所在していたか?崇徳院廟が創建された確かな場所は未だ特定出来ていないようだ。碓井小三郎は「京都坊目誌 上京 坤」(「新修 京都叢書 第15巻 京都坊目誌 上京 坤」(光彩社 1968年刊))で崇徳院粟田宮ノ址について以下のように記述している。 〇崇徳院粟田宮ノ址 本町の中央。丸太町通を挟んで北。聖護院町字中河原に至り其址也。古へ白河南殿より四丈… ►続きを読む

 

白峯神宮 その5

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その5 2010年1月17日訪問 白峯神宮 拝殿  白峯神宮 その4では、鳥羽法皇崩御後の崇徳天皇と保元の乱の戦場となった白河北殿と院政政治の中心となった白河街区について見て来た。この項では崇徳天皇の怨霊伝説の始まりから鎮魂のための崇徳廟の造営について調べてみる。 保元元年(1156)7月23日、崇徳上皇は讃岐国へ移される。乱の終結直後、後白河天皇は石清水八幡宮に勝利の報告を宣命で行っている。藤原頼長がいかに猛悪であり、流れ矢に当たって死んだのは神罰であると述べている。そして上皇の配流から乱に加わった者への処罰は法に則った処分であると八幡大菩薩に祈誓している。この時点で天皇は上皇と頼長の怨霊の存在を全く意識していなかった。なお保元の乱の勝者となった藤原忠通は長寛2… ►続きを読む

 

白峯神宮 その4

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その4 2010年1月17日訪問 白峯神宮 2011年6月18日撮影  白峯神宮 その3では、では白峯神宮の最初に祭神となった崇徳天皇について、鳥羽法皇との関係を中心に近衛天皇の崩御と後白河天皇の即位まで見てきた。この項では鳥羽法皇の崩御から保元の乱までの経緯、そして崇徳上皇の讃岐国への配流までを調べてみる。 保元元年(1156)5月初旬頃より鳥羽法皇は体調を崩していたらしく、同月21日には食事の摂れない症状を治療するため灸を施されている。しかし容態は回復することなく、日一日と悪化していく。そして6月1日には病気回復の祈祷を取り止め、臨終を迎えるための万歳の沙汰が取り計られるようになっている。既に法皇は自らの死を悟り、浄土往生を遂げるための行業に専念すること決して… ►続きを読む

 

白峯神宮 その3

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その3 2010年1月17日訪問 白峯神宮 御由緒  白峯神宮 その2では、天武天皇以降の皇統の継承ともう一人の祭神である淳仁天皇の生涯とについて見て来た。この項では最初に祭神となった崇徳天皇について調べてみる。 白峯神宮の祭神である崇徳天皇は、保元元年(1156)7月に起きた保元の乱に破れ讃岐国に配流となった上皇である。天皇あるいは上皇の配流は、天平宝字8年(764)に起きた藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、凡そ400年ぶりの出来事であった。 崇徳天皇は、元永2年(1119)鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第1皇子として生まれている。真偽は定かでないが源顕兼によって纏められた鎌倉初期の説話集・古事談には、崇徳天皇は白河法皇と璋子の密通によって… ►続きを読む

 

白峯神宮 その2

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その2 2010年1月17日訪問 白峯神宮 2011年6月18日撮影  白峯神宮では、その周辺の地で起きた歴史的な事柄から白峰神宮の創建の経緯までを記した。この項では後に祭神に加えられた淳仁天皇について書いていくこととする。 先ず淳仁天皇に至る皇統を見ていく。第38代天智天皇、第39代弘文天皇(大友皇子)そして壬申の乱後に即位した第40代天武天皇の後は、第41代持統天皇(天武天皇后)、第43代元明天皇(草壁皇子妃)と天智系の2人の女帝と天武系の第42代文武天皇、第44代元正天皇が交互に即位している。つまり弘文天皇から聖武天皇までの間は直系男子への皇位継承が為されなかった。それは壬申の乱に代表されるように、皇位継承から紛争や反乱あるいは陰謀計画の発覚が多発したためで… ►続きを読む

 

白峯神宮

 

白峯神宮(しらみねじんぐう) 2010年1月17日訪問 白峯神宮 今出川通に面した鳥居と神門  上立売通から今出川通に向かい油小路通を南に下っていく途中の東側に本阿弥光悦京屋敷跡の石碑が建っている。この地にあった本阿弥家の屋敷について、本阿弥光悦京屋敷跡、その2、その3の3回に亘って、本阿弥家の成り立ちから室町時代末期から安土桃山時代にかけての町衆の暮らしと法華宗門徒の繁栄、天文法難を生じた経緯、さらには江戸初期の洛中絵図において本阿弥家邸宅の所在を確認してきた。町人である本阿弥家の邸宅が幕府の作成した洛中絵図に記されていることより、幕府が本阿弥家に対して特別の扱い行ってきたことが分る。これは公家屋敷、大名屋敷、寺院を除けば、彫金を家職としてきた後藤家と医者、検校衆だけである。単に京の有力な… ►続きを読む

 

本阿弥光悦京屋敷跡 その3

 

本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)その3 2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷  本阿弥光悦京屋敷跡 その2では室町期の京の町の成り立ちから五山十刹の繁栄と衰退、そして京の町衆への法華宗の浸透について見てきた。この項では、応仁の乱以後の法華宗の発展と法難、そして本題である光悦の京屋敷について調べてみる。 文正2年(1467)1月18日早朝、後から考えれば応仁の乱の前哨戦となる戦闘が洛中で起きている。前年末から窮地に追い込まれてきた畠山政長は、遂に耐えられず自らの邸宅に火をかけ上御霊神社に陣を敷いている。政長に対抗する畠山義就は山名政豊や朝倉孝景らの支援を受け、自らの軍を上御霊へ進める。これが御霊合戦あるいは上御霊神社の戦いと呼ばれる戦さの始まりであった。この軍事衝突… ►続きを読む

 

本阿弥光悦京屋敷跡 その2

 

本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)その2 2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷  本阿弥光悦京屋敷跡では初代・妙本から光悦にいたる系図を参照しながら本阿弥家の成り立ちについて見てきた。この項では、室町期の京の町の成り立ちから五山十刹の繁栄と衰退、そして京の町衆に法華宗が広まって行く過程を調べてみる。 本阿弥家が強力な法華(日蓮宗)信徒になったのは、初代・妙本の頃とも、あるいは熱心な法華信者であった松田家から養子を迎えた6代・本光の頃とも謂われている。本阿弥家初代の妙本と日静上人の出会いについて記述したものは、今のところ林屋辰三郎が「光悦」(第一法規出版 1964年刊)に寄せた「光悦の人と時代」という論文で引用した江戸時代の随筆「玉露證話」だけのようだ。 日静は永仁6… ►続きを読む

 

本阿弥光悦京屋敷跡

 

本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷  一部駐車場と化している報恩寺の境内を南に進むと上立売通に出る。この上立売通から油小路通に入る角に、かつての小川の痕跡を示す橋の欄干と昭和十年水害浸水被害記念碑が残されている。昭和10年(1935)6月27日から降り始めた雨は29日まで続き、京都市は明治初年以来の大水害となった。高野川、岩倉川、鴨川、東高瀬川、堀川、天神川、御室川、白川など市内諸川の堤防は決壊し、五条大橋、三条大橋、夷川橋など鴨川筋の橋を含む74橋が流失、浸水家屋は43,771戸、死者12名、負傷者81名を出す大災害となった。上記の石碑は29日午前5時に上立売小川の石橋が落ち,四尺以上の水があふれたことを後世に伝えるために同年6… ►続きを読む

 

サイト ナビゲーション

投稿カレンダー

2020年8月
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31  

過去の記事

カテゴリー

最近の投稿

  • 鉄輪掛石
    In 201001、京都洛北、徘徊の記憶
    鉄輪掛石(かなわのかけいし) 2010年9月18日訪問 梶取橋 鉄輪掛石は中央突き当りの立て看板のあたりか […]
  • 足酒石
    In 201001、京都洛北、徘徊の記憶
    足酒石(あしすすぎいし) 2010年9月18日訪問 梶取橋 足酒石は右欄干の上流あたり […]
  • 鬼一法眼之古跡
    In 201001、京都洛北、徘徊の記憶
    鬼一法眼之古跡(きいちほうげんのこせき) 2010年9月18日訪問 鬼一法眼之古跡 石寄大明神の椋の大木 […]
  • 石寄大明神
    In 201001、京都洛北、徘徊の記憶
    石寄大明神(いしよりだいみょうじん) 2010年9月18日訪問 石寄大明神 椋の大木と御社を鞍馬街道から望む […]
  • 梶取社
    In 201001、京都洛北、徘徊の記憶
    梶取社(かじとりしゃ) 2010年9月18日訪問 梶取社 貴船神社一の鳥居と梶取橋 鞍馬街道(府道38号 […]
  • 貴船
    In 201001、京都洛北、徘徊の記憶
    貴船(きぶね) 2010年9月18日訪問 貴船の町並み […]
  • 鞍馬
    In 201001、京都洛北、徘徊の記憶
    鞍馬(くらま) 2010年9月18日訪問 貴船口 梶取橋と貴船神社の鳥居 […]
  • ブログの引越しについて
    In 201001、京都洛中、徘徊の記憶
    ブログの引越しについて(ぶろぐのひっこしについて)徘徊の記憶│Haikai no […]
  • 設定変更について その10
    In 201001、京都洛中、徘徊の記憶
  • 設定変更について その9
    In 201001、京都洛中、徘徊の記憶