徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:徘徊の記憶Blog

薩摩藩邸跡(二本松)

 

薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと) 2010年1月17日訪問 薩摩藩邸跡 同志社大学今出川キャンパス西門前  烏丸通の西側にある大聖寺は一般公開を行っていないため、その境内を拝見させていただいた。烏丸通沿いに築かれた築地塀に背を向けるようにして、花乃御所の石碑が建てられている。平成7年(1995)に大聖寺門主の花山院慈薫が建立されている。今、大聖寺があるこの地には、かつて足利義満が築いた室町殿が存在したことを示す石碑である。さらには大聖寺の開基・無相定円が義満の室町殿の中にあった岡松殿で過ごし、亡くなられた後に大聖寺に改められたことを記念するものでもある。この場所の地名は上京区御… ►続きを読む

 

大聖寺

 

臨済宗単立 岳松山 大聖寺(だいしょうじ) 2010年1月17日訪問 大聖寺  今出川室町の東北角に建つ足利将軍室町第址の石碑を確認した後、今出川烏丸の交差点を北に上ると左側に大聖寺の山門が現れる。もうすでに17時を回ってしまっていたので門扉を閉める準備を行っていた。大聖寺は一般に公開されていない寺院であるので取り合えず境内の様子のみ見せていただくことにした。 大聖寺は尼五山第1位の景愛寺の法統を継ぐ臨済宗単立寺院。山号は岳松山、御寺御所とも称する尼門跡寺院。ここからは尼五山の成立時期とともに大聖寺や宝鏡寺の基となった景愛寺について少し詳しく見ていくこととする。 大聖寺  尼五山と… ►続きを読む

 

足利将軍室町第址 その2

 

足利将軍室町第址(あしかがしょうぐんむろまちだいあと)その2 2010年1月17日訪問 足利将軍室町第址  白峯神宮 その9の南門を潜り今出川通に出る。そのまま今出川通の北側の歩道を東に進むと、室町通の東北角に足利将軍室町第址の石碑が現れる。大正4年(1915)に京都市教育会が建立した碑で、「従是東北 足利将軍室町第址」と記されている。ここが室町幕府の花の御所の西南の角に当たることを示している。2008年5月13日以来2度目の訪問となる。前回は足利幕府の将軍の邸宅の変遷について書いたので、今回は第3代将軍・足利義満が築いた室町殿について書いていく。 大聖寺 室町殿の一部 奥に見える建… ►続きを読む

 

白峯神宮 その9

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その9 2010年1月17日訪問 白峯神宮  白峯神宮 その8では、幕末維新期の白峯神宮創建に尽力した中瑞雲斎の前半生について書いてきた。この項では神宮創建後に生じた瑞雲斎に関する事件について調べてみる。 明治2年(1869)正月5日、新政府の参与・横井小楠が京都寺町通丸太町下ルで十津川郷士の襲撃を受け暗殺されるという大事件が発生する。小楠が暗殺された理由とは、日本のキリスト教化を推進しているとされている。歴史的にも有名な事件にも拘らずその実相を明らかにした資料は実は多くない。開明的な思想を持つ横井は因習に固執した尊皇攘夷激派の生き残りに殺害された、これがこの… ►続きを読む

 

白峯神宮 その8

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その8 2010年1月17日訪問 白峯神宮 2011年6月18日撮影  白峯神宮 その7では、幕末維新期の白峯神宮創建の経緯について「孝明天皇紀」(平安神宮 1981年刊)慶応2年(1866)11月16日の条を中心に見て来た。この項では白峯神宮創建を目指して奔走した中瑞雲斎の前半生について調べてみる。 上御霊神社 御祭神は崇道天皇(早良親王)、井上大皇后、他戸親王、藤原大夫人(藤原吉子)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麿)、火雷神(六座の荒魂)、吉備大臣(吉備真備)2018年3月18日撮影  しかしこの敷地が「狭小」である上「汚穢地之旨有風聞」という… ►続きを読む

 

白峯神宮 その7

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その7 2010年1月17日訪問 白峯神宮 2011年6月18日撮影  白峯神宮 その6では、崇徳天皇の鎮魂のために造営された崇徳院廟の所在地の特定について見て来た。この項では、幕末維新期の白峯神宮創建の経緯について調べてみる。 上御霊神社 南門  崇徳上皇の怨霊鎮魂に一番熱心であったのは、保元の乱の当事者である後白河法皇だったことは当然の結果とも言える。法皇はかつて戦場の地となった白河北殿の地に崇徳院廟を造営し、元暦元年(1184)4月15日に遷宮を行っている。しかし建久3年(1192)11月16日に後白河法皇が崩御すると、朝廷の崇徳院怨霊に対する恐れ… ►続きを読む

 

白峯神宮 その6

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その6 2010年1月17日訪問 白峯神宮 拝殿から本殿を望む  白峯神宮 その5では、崇徳天皇の怨霊伝説の始まりから鎮魂のための崇徳廟の造営について見て来た。この項では、応仁の乱で失われた崇徳院廟がどこに所在していたかについて考えてみる。 元暦元年(1184)4月15日に遷宮、鴨川の氾濫によって嘉禎3年(1237)に遷座した崇徳院廟はどこに所在していたか?崇徳院廟が創建された確かな場所は未だ特定出来ていないようだ。碓井小三郎は「京都坊目誌 上京 坤」(「新修 京都叢書 第15巻 京都坊目誌 上京 坤」(光彩社 1968年刊))で崇徳院粟田宮ノ址について以下の… ►続きを読む

 

白峯神宮 その5

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その5 2010年1月17日訪問 白峯神宮 拝殿  白峯神宮 その4では、鳥羽法皇崩御後の崇徳天皇と保元の乱の戦場となった白河北殿と院政政治の中心となった白河街区について見て来た。この項では崇徳天皇の怨霊伝説の始まりから鎮魂のための崇徳廟の造営について調べてみる。 保元元年(1156)7月23日、崇徳上皇は讃岐国へ移される。乱の終結直後、後白河天皇は石清水八幡宮に勝利の報告を宣命で行っている。藤原頼長がいかに猛悪であり、流れ矢に当たって死んだのは神罰であると述べている。そして上皇の配流から乱に加わった者への処罰は法に則った処分であると八幡大菩薩に祈誓している。… ►続きを読む

 

白峯神宮 その4

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その4 2010年1月17日訪問 白峯神宮 2011年6月18日撮影  白峯神宮 その3では、では白峯神宮の最初に祭神となった崇徳天皇について、鳥羽法皇との関係を中心に近衛天皇の崩御と後白河天皇の即位まで見てきた。この項では鳥羽法皇の崩御から保元の乱までの経緯、そして崇徳上皇の讃岐国への配流までを調べてみる。 保元元年(1156)5月初旬頃より鳥羽法皇は体調を崩していたらしく、同月21日には食事の摂れない症状を治療するため灸を施されている。しかし容態は回復することなく、日一日と悪化していく。そして6月1日には病気回復の祈祷を取り止め、臨終を迎えるための万歳の沙… ►続きを読む

 

白峯神宮 その3

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その3 2010年1月17日訪問 白峯神宮 御由緒  白峯神宮 その2では、天武天皇以降の皇統の継承ともう一人の祭神である淳仁天皇の生涯とについて見て来た。この項では最初に祭神となった崇徳天皇について調べてみる。 白峯神宮の祭神である崇徳天皇は、保元元年(1156)7月に起きた保元の乱に破れ讃岐国に配流となった上皇である。天皇あるいは上皇の配流は、天平宝字8年(764)に起きた藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、凡そ400年ぶりの出来事であった。 崇徳天皇は、元永2年(1119)鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第1皇子として生まれている。真偽… ►続きを読む

 

白峯神宮 その2

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その2 2010年1月17日訪問 白峯神宮 2011年6月18日撮影  白峯神宮では、その周辺の地で起きた歴史的な事柄から白峰神宮の創建の経緯までを記した。この項では後に祭神に加えられた淳仁天皇について書いていくこととする。 先ず淳仁天皇に至る皇統を見ていく。第38代天智天皇、第39代弘文天皇(大友皇子)そして壬申の乱後に即位した第40代天武天皇の後は、第41代持統天皇(天武天皇后)、第43代元明天皇(草壁皇子妃)と天智系の2人の女帝と天武系の第42代文武天皇、第44代元正天皇が交互に即位している。つまり弘文天皇から聖武天皇までの間は直系男子への皇位継承が為さ… ►続きを読む

 

白峯神宮

 

白峯神宮(しらみねじんぐう) 2010年1月17日訪問 白峯神宮 今出川通に面した鳥居と神門  上立売通から今出川通に向かい油小路通を南に下っていく途中の東側に本阿弥光悦京屋敷跡の石碑が建っている。この地にあった本阿弥家の屋敷について、本阿弥光悦京屋敷跡、その2、その3の3回に亘って、本阿弥家の成り立ちから室町時代末期から安土桃山時代にかけての町衆の暮らしと法華宗門徒の繁栄、天文法難を生じた経緯、さらには江戸初期の洛中絵図において本阿弥家邸宅の所在を確認してきた。町人である本阿弥家の邸宅が幕府の作成した洛中絵図に記されていることより、幕府が本阿弥家に対して特別の扱い行ってきたことが分る。… ►続きを読む

 

本阿弥光悦京屋敷跡 その3

 

本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)その3 2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷  本阿弥光悦京屋敷跡 その2では室町期の京の町の成り立ちから五山十刹の繁栄と衰退、そして京の町衆への法華宗の浸透について見てきた。この項では、応仁の乱以後の法華宗の発展と法難、そして本題である光悦の京屋敷について調べてみる。 文正2年(1467)1月18日早朝、後から考えれば応仁の乱の前哨戦となる戦闘が洛中で起きている。前年末から窮地に追い込まれてきた畠山政長は、遂に耐えられず自らの邸宅に火をかけ上御霊神社に陣を敷いている。政長に対抗する畠山義就は山名政豊や朝倉孝景らの支援を受け、自… ►続きを読む

 

本阿弥光悦京屋敷跡 その2

 

本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)その2 2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷  本阿弥光悦京屋敷跡では初代・妙本から光悦にいたる系図を参照しながら本阿弥家の成り立ちについて見てきた。この項では、室町期の京の町の成り立ちから五山十刹の繁栄と衰退、そして京の町衆に法華宗が広まって行く過程を調べてみる。 本阿弥家が強力な法華(日蓮宗)信徒になったのは、初代・妙本の頃とも、あるいは熱心な法華信者であった松田家から養子を迎えた6代・本光の頃とも謂われている。本阿弥家初代の妙本と日静上人の出会いについて記述したものは、今のところ林屋辰三郎が「光悦」(第一法規出版 1964… ►続きを読む

 

本阿弥光悦京屋敷跡

 

本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷  一部駐車場と化している報恩寺の境内を南に進むと上立売通に出る。この上立売通から油小路通に入る角に、かつての小川の痕跡を示す橋の欄干と昭和十年水害浸水被害記念碑が残されている。昭和10年(1935)6月27日から降り始めた雨は29日まで続き、京都市は明治初年以来の大水害となった。高野川、岩倉川、鴨川、東高瀬川、堀川、天神川、御室川、白川など市内諸川の堤防は決壊し、五条大橋、三条大橋、夷川橋など鴨川筋の橋を含む74橋が流失、浸水家屋は43,771戸、死者12名、負傷者81名を出す大災害となった… ►続きを読む

 

報恩寺

 

浄土宗知恩院派 堯天山 報恩寺(ほうおんじ)2010年1月17日訪問 報恩寺 境内  泉妙院の山門越しに尾形光琳とその一族の墓を拝観した後、寺之内通を再び西に戻り小川通を南に下る。凡そ40メートルくらい歩くと、通りの西側に報恩寺の山門と石橋が現れる。新しく建てられた寺号標には“浄土宗鳴虎 報恩寺”と記されている。寺之内通より北側の小川通は小川に沿って南下するが、百々橋の東橋詰めで通りが20メートル東に付け替えられている。そのため小川通から報恩寺の石橋までの間に20メートル程度の参道が生じている。その両側には民家の妻面が見えるため、少し不思議な空間になっている。山門手前の石橋は、かつて流れ… ►続きを読む

 

泉妙院 その2

 

泉妙院(せんみょういん)その2 2010年1月17日訪問 泉妙院 緒方家墓所 2016年3月5日撮影右側宝塔:光琳・乾山両人の供養塔  2019年最初のエントリーは、正月に相応しい国宝「紅白梅図屏風」の作者・尾形光琳になりました。  泉妙院では、尾形家の来歴から光琳が画家への道を歩み始める契機について、さらに門前に建立された 尾形光琳 尾形家一族 乾山菩提所の石碑を手掛かりに、建立者の三越が明治後期から行ってきた尾形光琳に対する顕彰活動について見て来た。この項では白崎秀雄の「尾形光琳取材ノート」を元にして、光琳が生存していた頃の三越との関係を調べてみる。 雑誌「日本美術工芸」に「尾形光琳… ►続きを読む

 

泉妙院

 

泉妙院(せんみょういん)2010年1月17日訪問 泉妙院  妙顯寺の山門を出て、寺之内通を東に20メートル進むと泉妙院の山門が現れる。泉妙院は妙顯寺の多くの塔頭の中の一つである。一般に公開されていないため常に山門は閉ざされており、境内の様子を外から伺うことはできない。山門の右手には尾形光琳 尾形家一族 乾山菩提所の石碑が建つ。この石碑は昭和51年(1976)に三越が建立したものである。勿論、東京日本橋の百貨店の三越のことである。 尾形光琳は万治元年(1658)京都の呉服商・雁金屋の当主・尾形宗謙の次男として生まれている。そして光琳の五歳下の弟が陶芸家の尾形乾山である。この2人の芸術家を生… ►続きを読む

 

南千住 回向院 その11

 

南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その11 2018年8月12日訪問 南千住 回向院  南千住 回向院 その10では、坂下門外の変及び東禅寺事件に関わった人々について見てきた。この項ではそれ以外の回向院に葬られた人々について書いていく。 南千住 回向院 相馬大作・関良助供養碑 B- 4 南千住 回向院 相馬大作・関良助供養碑 B- 4  坂下門外の変及び東禅寺事件に関わった人々を除くと、残りは「其の他」ということになる。幕末の国事犯以外にも数名、この“回向院史跡エリア”に祀られているようだ。墓碑銘の後ろの括弧内の記号は「橋本左内と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編… ►続きを読む

 

南千住 回向院 その10

 

南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その10 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 高畑房次郎之遺墳 A- 5  南千住 回向院 その9では、桜田門外の変に関わった人々の埋葬がどのように行われたかと文久2年(1862)11月の改葬について見てきた。この項では安政の大獄、桜田門外の変以外の事件に連座し回向院に葬られた人々と明治以降の回向院について書いていく。 既に安政の大獄と桜田門外の変に連座した人々については見てきた。これ以外には、先ず坂下門外の変に関係した人々が埋葬されている。回向院の公式HP(http://ekoin.fusow.net : リンク先が無くなりました )の… ►続きを読む

 
 

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