文書と写真・地図による「記憶」の再現

カテゴリー:徘徊の記憶

南千住 回向院 その4

 

南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その4 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 松陰二十一回猛士墓 C-19 と 御名刺入 C-18 中央:吉田松陰の墓 右に頼三樹三郎、成就院信海、小林良典の墓  南千住 回向院、その2、そして、その3までの3項を使い、杉田玄白と前野良沢等による観臓から解体新書の発刊について書いてきた。いよいよ、この項から明治維新殉難志士墓所に入る。2009年に荒川ふるさと文化館で開催された展示会の図録「橋本左内と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編 2009年刊)によれば、“回向院史跡エリア”という範囲に87基の墓碑と木製標柱1基が整備されている。史跡エリアというと単一区画を想像するが、実際には2つの部分に分かれている。第一の区画は昭和48年(1973)に建替えられた… ►続きを読む

 

南千住 回向院 その3

 

南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その3 2018年8月12日訪問 南千住 回向院  もともと南千住 回向院の一項で纏めるつもりであった観臓記念碑が思ったより長くなってしまった。この項では観臓後の翻訳作業の開始から「解体新書」の発刊までを書き、観臓記念碑についてを終了する予定である。 杉田玄白の「蘭学事始」(「岩波クラシックス28 蘭学事始)(岩波書店 1983年刊))によれば、観臓の帰り道、「ターヘル・アナトミア」の正確さに驚いた杉田玄白、前野良沢、中川淳庵は、その翻訳に着手することを決める。同書では良沢の言葉として下記のように記している。 然らば善はいそげといへる俗諺もあり、直に明日私宅へ会し給へかし、如何やうにも工夫あるべし  このように観臓の行われた翌日の明和8年(1771)3月5日… ►続きを読む

 

南千住 回向院 その2

 

南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その2 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 蘭学を生んだ解体の記念碑  南千住 回向院では日本に於ける人体解剖の歴史と明和8年(1771)3月4日に小塚原で行われた観臓が行われるまでの経緯を書いてきた。この項では観臓の様子を書いてみる。 明和8年(1771)3月3日、杉田玄白は町奉行所から翌4日に千住小塚原の刑場で腑分けが行われる連絡を受けている。玄白は至急同志に「早天に浅草三谷町出口の茶屋」で待ち合わせる旨を伝えた。この時、玄白より10歳年長の前野良沢にも使いを送っている。町奉行所から玄白に観臓の許可が出たのは、事前に申し入れが行われていたからと考えるべきであろう。玄白が何時の時点で嘆願したかは分らないが、宝暦4年(1754)閏2月7日の山脇東洋に… ►続きを読む

 

南千住 回向院

 

南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん) 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 本堂ピロティ下  千住宿と小塚原の歴史について、南千住 小塚原から、その4までを使って記してきた。ようやく、ここからは本題である回向院について書いていく。 回向院は浄土宗の寺院で山号を豊国山と称す。同寺の「史蹟 小塚原回向院 縁起(http://ekoin.fusow.net/303.html : リンク先が無くなりました )」によれば、寛文7年(1667)に本所回向院の住職弟誉義観上人が常行堂を創建したことに始まる。元々、本所回向院は万治年間(1658~61)頃より町奉行の下命で牢死者や行倒人などの埋葬を行ってきたため、境内が手狭になっていた。その打開策として新たな埋葬地をと分院の設立を願い出たということらしい。町奉… ►続きを読む

 

南千住 小塚原 その4

 

南千住 小塚原(みなみせんじゅ こづかはら)その4 2018年8月12日訪問 南千住 小塚原 回向院  南千住 小塚原 その3では、江戸時代に行われた刑罰の説明、処刑の準備から実施、遺骸の処理作業の説明、そして刑場とは関係ないものの同時代に作られた小塚原の火葬寺について記した。この最後の項では明治時代を迎えた小塚原の変遷とこの地に埋葬された人々の数について書いていくつもりである。 慶応4年(1868)4月11日、徳川慶喜が水戸へ退去し、江戸が無血開城する。将軍警護のために結成した彰義隊は、慶喜のいない上野の山に駐屯を続ける。大總督府は江戸からの旧幕府勢力の一掃を目指し、同年5月14日輪王寺宮公現親王に東叡山に籠る賊の討伐を告げる。翌15日の朝から始まった新政府軍の攻撃により上野戦争が開戦する。戦前に… ►続きを読む

 

南千住 小塚原 その3

 

南千住 小塚原(みなみせんじゅ こづかはら)その3 2018年8月12日訪問 南千住 小塚原 日光街道  南千住 小塚原 その2では、小塚原に刑場ができた経緯から、その構成について書いてきた。この項では江戸時代に行われた刑罰の説明、処刑の準備から実施そしてその後にある遺骸処理作業について見て行く。 南千住 小塚原 日光街道 南千住 小塚原 奥の細道 矢立初の芭蕉像 足立区 南千住 小塚原 松尾芭蕉像 荒川区  刑場で執行される刑罰を説明する前に、徳川幕府の刑法の在り方を理解しておく必要がある。江戸時代初期の刑罰には、戦国時代の残酷刑の影響が強く残っていた。つまり見せしめを狙った威嚇的で弾圧的なものが多かった。さらに刑法は奉行の裁断一つに任すという不文法主義を採用していた。過去の判例から刑罰を決めるのではな… ►続きを読む

 

南千住 小塚原 その2

 

南千住 小塚原(みなみせんじゅ こづかはら)その2 2018年8月12日訪問 南千住 小塚原 千住宿 本陣跡  南千住 小塚原では、早々からコツ通りに引っかかってしまった。ここからは小塚原に刑場ができるまでの経緯から書き始める。 千住大橋の南側、小塚原町に御仕置場が創設されたのは寛文7年(1667)とされている。黄木土也氏の「小塚原刑場史 その成立から刑場大供養まで」(新風舎 2006年刊)によれば、もともと徳川家康入府前の江戸には本町四丁目に刑場があった。この本町四丁目とは、現在の日本橋本町二丁目から三丁目、すなわちコレド室町の東側で福徳神社を含む現在再開発が行われている地域で東京でも最も賑やかな街の一つである。その当時、江戸を統治していたのは後北条氏であった。戦国時代後期から関東に大きな勢力を築… ►続きを読む

 

南千住 小塚原

 

南千住 小塚原(みなみせんじゅ こづかはら)2018年8月12日訪問 南千住 小塚原 日光街道 コツ通り  夏休みの特集として南千住の小塚原と回向院を取り上げます。この夏は非常に暑く遠出ができないと考え、近場で史蹟見学を行いました。回向院には既に数回訪れていましたが、写真も撮影していなかったので、この機会にしっかりと調べてみるつもりで出かけました。ただし拝観時間が16:30までと予想以上に早かったために、一日目は半分も見ることが出来ずに退去しました。拝観時間については回向院の公式HP(http://ekoin.fusow.net/ : リンク先が無くなりました )にも記述がありませんので皆さん注意しましょう。お寺の方に言われたように、山門前の荒川区の駒札には、ちゃんと明記されています。そう言えば確か前にも… ►続きを読む

 

妙顯寺

 

日蓮宗 龍華 具足山 妙顯寺(みょうけんじ)2010年1月17日訪問 妙顕寺 山門  宝鏡寺の特別公開を拝観した後、寺之内通を100メートル程度東に進むと、妙顯寺の山門が現れる。妙顯寺は日蓮宗の大本山、開基は日像である。 日像は文永6年(1269)下総国に生まれている。俗姓は平賀氏で幼名は経一丸。建治元年(1275)日蓮の弟子で兄の日朗に師事し、後に日蓮の弟子となっている。永仁元年(1293)日蓮の遺命を受け、京都での布教を始める。上洛して間もない永仁2年(1294)には、禁裏に向かい上奏する。その後、辻説法を行い造酒屋の柳屋仲興や大覚寺の僧で後に妙顯寺2世となる大覚らの帰依を受ける。しかし徳治2年(1307)延暦寺、東寺、仁和寺、南禅寺、相国寺、知恩寺などの諸大寺から迫害を受ける。さらに朝廷… ►続きを読む

 

宝鏡寺 その2

 

臨済宗単立 西山 宝鏡寺(ほうきょうじ)その2 2010年1月17日訪問 宝鏡寺  宝鏡寺では、鎌倉時代後期から始まった五山制度から京都尼五山の成立、そして無外如大による景愛寺の創建、そして現在に残る大聖寺と宝鏡寺が子院として景愛寺を継承してきたことで終わった。この項では、いよいよ宝鏡寺創建の歴史に入っていく。 異説はあるものの、無外如大開山開基で景愛寺が創建されたのは、宝鏡寺が所蔵する「尼五山景愛寺伝系西山宝鏡寺逓系譜事蹟」から弘安8年(1285)と考えられる。荒川玲子氏の「景愛寺の沿革 ―尼五山研究の一齣―」(「書陵部紀要 通号28」(宮内庁書陵部編1976年刊)によれば、景愛寺の歴代住持は下記の通りである。 開 山       無外如大  安達泰盛女二 世       月庭無忍  日野資… ►続きを読む

 

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