カテゴリー:200901
妙心寺 その3
臨済宗妙心寺派大本山 正法山 妙心寺(みょうしんじ) その3 2009年1月12日訪問 妙心寺 大方丈南庭 妙心寺 その2では、京都五山十刹を中心に臨済宗寺院の創建時期についてまとめてみた。亀山法皇が南禅寺、後醍醐天皇が臨川寺、後宇多天皇が龍翔寺、そして花園法皇が妙心寺を創建したことが分かる。この項では、持明院統と大覚寺統の成立から両統迭立を経て南北朝時代に入っていく経緯と花園法皇による妙心寺の創建について見ていくこととする。 妙心寺 大方丈 唐門 持明院統の花園天皇は文保2年(1318)大覚寺統の後宇多天皇の第2皇子(後醍醐天皇)に譲位して上皇となり、この地にあった離宮 萩… ►続きを読む
妙心寺 その2
臨済宗妙心寺派大本山 正法山 妙心寺(みょうしんじ) その2 2009年1月12日訪問 妙心寺 三門 第43回京の冬の旅で特別公開中 等持院の中門から参道を下り山門を潜ると、普通の住宅地の中へと入って行く。京福電気鉄道北野線の等持院から乗車する。2つの西の妙心寺で下車すると、仁和寺から南東に延びる一条通に出会う。洛中では東西に延びる一条通も、この部分でほぼ45度の角度で進む。妙心寺駅から100メートルも東に進むと妙心寺の北総門が現れる。 妙心寺 北総門 妙心寺 北総門内にある境内図 下が北 妙心寺 境内 妙心寺は臨済宗妙心寺派大本山で山号は正法山。平安京の北西部に… ►続きを読む
等持院 その3
臨済宗天龍寺派 萬年山 等持院(とうじいん) その3 2009年1月12日訪問 等持院 方丈北庭 芙蓉池と清漣亭 等持院には3つの庭がある。方丈を挟んで南側に南庭、北側に2つの庭がある。南庭は、比較的禅宗寺院の南庭の様式を守り、門の両脇に石組みと樹木を配する形になっている。本来ならば唐破風を持つ勅使門として置かれるところに、棟門と言うべきなのか簡潔な門が造られている。その位置も方丈の中心からかなり西側に設けられている。方丈の縁なので欄干などはなく、南庭に下りる段もない。そのため、建物の中心線から外れた位置に門を配しても、それほど違和感がないのかもしれない。膨大な情報を基に纏められている… ►続きを読む
等持院 その2
臨済宗天龍寺派 萬年山 等持院(とうじいん) その2 2009年1月12日訪問 等持院 方丈北庭立命館大学の校舎を隠すように無理に樹木の背を高くしている 等持院では、創建から現在の等持院に至る歴史を記す予定だったが、その大部分を足利三代木像梟首事件に割いてしまった。 この寺院を訪問して強く感じる違和感は、有名な寺院にもかかわらず何故か拝観者に出会うことが少ない点である。前日からの雪で寒い朝となっているため、人出が少ないのは仕方のないことかもしれない。しかし以前、天気の良い日に訪れた時にも同じ事を感じた。霊光殿を除くと特徴の少ない寺院であるかもしれないが、方丈北側の庭園は見事なもので… ►続きを読む
等持院
臨済宗天龍寺派 萬年山 等持院(とうじいん) 2009年1月12日訪問 等持院 方丈南庭の正面を眺める 広隆寺の楼門の前にある太秦広隆寺駅から京福電気鉄道嵐山本線に乗車し、ひとつ西の帷子ノ辻で北野線に乗り換える。ここより北野白梅方面に向かい、7つ目の等持院駅で下車する。 衣笠山を目指し、100メートルくらい住宅街の中を進むと、道の前方に江戸時代に建立された一間一戸、切妻造本瓦葺の小ぶりな薬医門が現れる。門に掲げられた万年山等持院の文字を見逃すと、足利将軍家累代の菩提寺とは思えないほど質素な山門である。この山門の前には、現在でも石橋が架けられているが、すでに欄干の両側は埋め立てられ橋の機… ►続きを読む
広隆寺 その2
真言宗系単立寺院 蜂岡山 広隆寺(こうりゅうじ) その2 2009年1月12日訪問 広隆寺 上宮王院 まだ朝も早く、広隆寺の楼門は開いているものの、宝物殿等の拝観は始まっていないようだった。ともかく雪化粧となった境内のみを見ていく。 広隆寺 駐車場の竹林 広隆寺 竹林 三条通より元禄15年(1702)に建立されたとする楼門を潜ると、正面に重要文化財に指定されている講堂が現れる。楼門と講堂は直線状に配置されている。正面5間、側面4間、寄棟造本瓦葺きの建物で、永万元年(1165)に再建されている。京都市内に残る数少ない平安時代の遺構の一つである。ただし永禄年間(1558~70… ►続きを読む
広隆寺
真言宗系単立寺院 蜂岡山 広隆寺(こうりゅうじ) 2009年1月12日訪問 広隆寺 太子道に面した楼門 太秦の町並みの項で記したように、木嶋神社の二の鳥居の南側を東西に走る道は太子通と呼ばれている。この道の名称通り、西に進むと目指す広隆寺に至る。木嶋神社を出て200メートル進むと左手後方(東南方向)から三条通が近づいてくる。京都の碁盤の目のような通りからイメージできないかもしれないが、葛野大路通から西側で三条通は、ほぼ45度の角度で上っていき、京福電気鉄道嵐山本線の太秦駅手前で太子通に合流する。すでに嵐山本線は蚕の社駅で三条通から別れ自らの軌道を走っているため、太子道が嵐山本線に出会う… ►続きを読む
太秦の町並み
太秦の町並み(うずまさのまちなみ) 2009年1月12日訪問 太秦の町並み 木嶋神社から広隆寺への道 太子道 木嶋神社の境内から、二の鳥居を潜ると東西に走る通りに出る。この通りは太子道とよばれている。一般的に太子道とは、日本の古代道路のうち、聖徳太子が通ったとされているものを指し示すようだが、この太子道は太秦広隆寺への参詣道として利用されていたようだ。京都観光Naviの太子道の項(https://vinfo06.at.webry.info/201203/article_4.html : リンク先が無くなりました )によると、中京区西ノ京壺井町にある壷井という井戸の前の道。上京区の出世稲… ►続きを読む
木嶋坐天照御魂神社 その2
木嶋坐天照御魂神社 その2(このしまにますあまてるみたまじんじゃ) 2009年1月12日訪問 木嶋神社 三柱鳥居 木嶋神社の起源は定かではない。続日本紀の大宝元年(701)4月3日の条にこの神社の名があることからそれ以前から祭祀されていたことが分かる。延喜5年(905)醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、延長5年(927)に一応完成をみた延喜式では、名神大社に列し月次・相甞・新甞の官祭を受ける社として記載されている。山城国式内社122座、葛野郡の20座(葛野坐月讀神、木嶋坐天照御魂神社、堕川神社、阿刀神社、松尾神社二座、深川神社、堕川御上神社、櫟谷神社、平野祭神四社、梅宮坐神四社… ►続きを読む
木嶋坐天照御魂神社
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ) 2009年1月12日訪問 木嶋神社 二の鳥居 1月11日の最後に訪問した伏見稲荷大社の八島ヶ池から、大橋家の前を通り過ぎ、東福寺駅から京阪電鉄に乗車し、祇園四条で下りる。ここから四条通を西に歩き、室町通のホテルに戻る。 木嶋神社 三条通に面した石造の一の鳥居 木嶋神社 木造の二の鳥居 一晩明けて1月12日の朝は、まさに銀世界だった。夜のうちにかなりの量の雪が降っていた。烏丸駅から市営地下鉄烏丸線に乗車し、烏丸御池で東西線に乗り換える。そして4つ先の終点・太秦天神前で下車し地上に出る。オフィス街である四条烏丸とは異… ►続きを読む
大橋家庭園 苔涼庭 その2
大橋家庭園 苔涼庭 (おおはしけていえん たいりょうてい) 2009年1月11日訪問 下記の項は2009年2月11日に記した。しかし訪問順に並べ替えるために、2012年3月7日に再更新したこととする。大橋家で行われていた工事は既に終わっていると思われる。 大橋家庭園 門は閉ざされ貼り紙が… 以前に大橋家庭園を訪れた際、伏見稲荷大社との位置関係が良く分からず、伏見街道から入り大橋家庭園を訪問し再び伏見街道に戻るというような経路をとった。その後、地図で調べると大橋家の隣が産場稲荷社であり、東に20~30m進むと八島ヶ池に至ることが分かった。伏見稲荷大社の境内からこのように近い… ►続きを読む
伏見稲荷大社 その3
伏見稲荷大社 その3(ふしみいなりたいしゃ) 2009年1月11日訪問 伏見稲荷大社 山内 伏見稲荷大社 その2で秦大津父について記してきたが、この大津父より凡そ200年後の和同年間(708~715)に秦伊呂巨が稲荷山の三つの峯にそれぞれの神を祀ったのが伏見稲荷大社の始まりとされている。伏見稲荷大社の沿革にも、秦大津父から伊呂巨までの200年たらずの脈絡についてはほとんど不明とした上で。 しかし不明であるから全く関連はないとは言えないでしょう。深草の里が早くから開拓されて、人の住むところであったことは深草弥生遺跡に見ることができます。 としている。いずれにしても大津父と伊呂巨の… ►続きを読む
伏見稲荷大社 その2
伏見稲荷大社 その2(ふしみいなりたいしゃ) 2009年1月11日訪問 伏見稲荷大社 楼門 2011年11月にねりこべ地蔵の項を書いて以来、3ヶ月間以上お休みしてしまいました。今年の年末年始はいろいろなことがあった。そんな多忙な中でも結局延4日間京都を訪れることが出来たのは大収穫であった。深草から伏見、桃山そして竹田と第46回京の冬の旅の非公開文化財特別公開を巡った。お休み期間が長かったのは、この訪問の下準備と撮影した写真等の後片付けに結構な時間を費やしたためともいえる。 伏見稲荷大社 一の鳥居と楼門 2回目の石峰寺訪問も拝観時間が過ぎていたため、今回も山門前からの夕日を眺める… ►続きを読む
ぬりこべ地蔵
ぬりこべ地蔵(ぬりこべじぞう) 2009年1月11日訪問 ぬりこべ地蔵 白河天皇の成菩提院陵の拝観を済ませ、再び交通量の多い油小路通に出る。ここから伏見稲荷大社の御茶屋に向かう。この御茶屋は通常非公開で、今回開催されている第43回京の冬の旅で、教王護国寺五重塔内陣、教王護国寺観智院、東福寺退耕庵そして安楽寿院などともに特別公開されている。かなり不鮮明ではあるが30年くらい前に大学の建築史の先生の案内で一度訪問した記憶が残っている。 ぬりこべ地蔵 墓地の中に立つ小さな堂宇に近所の方が手を合わせる ぬりこべ地蔵 既に3時30分を過ぎているため、歩いて竹田駅まで向かい電車等を乗… ►続きを読む
成菩提院陵
成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ) 2009年1月11日訪問 成菩提院陵 安樂壽院南陵と安楽寿院の間の道を再び西に向かう。さらに安樂壽院南陵の西側を南に進むと、片側2車線の大通り・新城南宮道に出る。そのまま西に進むと油小路通とその上に架かる阪神高速8号京都線の高架が現れる。とても京都の町並みとは思えない光景ではある。乗用車ではなく大型車が続く流れを見ると、京都・大阪間の物流の大動脈としての必然性を強く感じる。この交差点を西に渡ると、角地には建物は立っておらず、そのまま白河天皇の成菩提院陵の姿が良く見える。 成菩提院陵 天下三不如意の御陵とは思えない現状 白河天皇は尊仁親王… ►続きを読む
安樂壽院南陵
安樂壽院南陵(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ) 2009年1月11日訪問 安樂壽院南陵 近鉄京都線の竹田駅から安楽寿院へ向かう道で見えた多宝塔が近衛天皇の安樂壽院南陵である。現在の安楽寿院の書院、庫裡、阿弥陀堂、大師堂そして三宝荒神社が東西軸に並ぶのに対して、安樂壽院南陵はその南に位置している。さらに御陵の南側には新しい小枝橋へとつながる4車線の幹線道路・新城南宮道が西に向かって走る。 この安樂壽院南陵に祀られている近衛天皇は、安樂壽院陵でも触れたように、鳥羽上皇の第九皇子・体仁親王である。生母は上皇の寵愛を受けた藤原得子(美福門院)であった。保延5年(1139)に生まれた親王は、… ►続きを読む
安樂壽院陵
安樂壽院陵(あんらくじゅいんのみささぎ) 2009年1月11日訪問 安樂壽院陵 工事中 安楽寿院の収蔵庫から道路を隔てた西側に鳥羽上皇の安樂壽院陵がある。丁度訪問した時は陵の塀の工事中のようで、一部仮囲いが架かり、宝形の屋根のみがぽつんと見えた。 鳥羽天皇は康和5年(1103)堀川天皇と女御・藤原苡子の間に宗仁親王として生まれている。苡子は大納言藤原実季の娘で堀川天皇の中宮ではない。中宮である篤子内親王が高齢で子女に恵まれなかったため、苡子は皇子出産の期待をかけられて入内している。宗仁親王を出産したものの、苡子はその直後に28歳の若さで亡くなっている。宗仁親王は祖父の白河法皇の下に引き… ►続きを読む
安楽寿院 その2
真言宗智山派 安楽寿院(あんらくじゅいん)その2 2009年1月11日訪問 安楽寿院 左に大師堂 右に阿弥陀堂 安楽寿院の項で記したように、応徳3年(1086)白河上皇は、藤原季綱から献上された巨椋池の畔の別業を拡張して南殿を造営している。これが後の鳥羽殿の始まりとされている。しかし鳥羽殿の大部分は、白河上皇の孫に当たる鳥羽上皇の時代に造営されている。 安楽寿院 庫裏と書院 安楽寿院 安楽寿院は鳥羽殿にあった東殿の仏堂として造営されている。鎌倉時代の史書・百錬抄によると、その創建は保延3年(1137)のこととされ、創建当時は単に御堂と呼ばれていた。なお安楽寿院の名称が現れ… ►続きを読む
安楽寿院
真言宗智山派 安楽寿院(あんらくじゅいん) 2009年1月11日訪問 安楽寿院 書院庭園 御香宮神社の山門を出て、大手筋通を西に下っていく。近鉄京都線桃山御陵前から乗車し、竹田駅で下車する。ここから安楽寿院へ徒歩で向かう。安楽寿院は通常非公開の寺院であるが、今回は第43回京の冬の旅で特別公開となっている。本日訪問した東寺は、鳥羽伏見の戦いで新政府軍の本営となり、東福寺の退耕庵は長州藩の本営であり、後に菩提所となっている。そして伏見奉行所は旧幕府軍の伏見方面の本営であり、御香宮神社には新政府軍が駐屯した。このように洛南の地には鳥羽伏見の戦いに関係するものが点在している。そういえば、油小路… ►続きを読む
伏見義民の碑
伏見義民の碑(ふしみぎみんのひ) 2009年1月11日訪問 伏見義民の碑 御香宮神社の表門を入った左手には伏見義民の碑が建つ。伏見義民については、大黒寺の項で、木曽川治水工事の責任をとって自害した薩摩藩家老・平田靭負、寺田屋事件の薩摩九烈士とともに触れているが、ここで改めて書いてみる。 御香宮神社庭園 その2で書いたように小堀政一すなわち小堀遠州は、元和5年(1619)に備中松山藩から近江小室藩に移封されている。政一の父・小堀政次はもともと近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)の土豪で、浅井長政の家臣であった。そういう事情から、政一にとって近江小室藩への移封は祖先の地に戻ることでもあ… ►続きを読む