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興正寺



浄土真宗興正派本山円頓山 興正寺(こうしょうじ) 2008年05月18日訪問

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興正寺 左に御影堂、右に阿弥陀堂

 西本願寺の唐門と大玄関門を見学した後、北小路通を東に進み、再び堀川通に戻る。北小路通を挟み西本願寺の広大な境内の南側には興正寺が並ぶ。堀川通に面して北に阿弥陀堂門、中央に三門とふたつの門が建ち、境内には真宗建築の伽藍配置である阿弥陀堂と御影堂が東面して配置されている。三門も御影堂も非常に規模の大きな建物であるが、隣の西本願寺があまりにも巨大なため、どうしても小ぶりなイメージになってしまう。御影堂の正面の縦横比は、西本願寺が62メートル:29メートルに対して興正寺が33メートル:28メートルである。興正寺の御影堂は、西本願寺の御影堂とほぼ同じ屋根高さにも関わらず、間口が半分程度になっているため、西本願寺のように横への伸びやかな雰囲気はなく、なんとなくコロっとした愛嬌を感じるプロポーションになっている。

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興正寺 堀川通からの眺め

 既に承元の法難については、安楽寺の項西本願寺の項で触れているので、大筋だけに留める。 建永2年(1207)後鳥羽上皇が寵愛する松虫と鈴虫が出家し尼僧となると、上皇は憤怒し専修念仏の停止を決定する。住蓮房と安楽房は死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子を流罪に処する。法然は土佐国番田(現在の高知県)へ、そして親鸞は越後国国府(現在の新潟県)へ配流される。建暦元年(1211)法然は入洛の許可が下り帰京する。やはり同年に赦免の宣旨が下った親鸞は、越後に地で雪解けを待った。
 建暦2年(1212)親鸞は京に戻るが、既に法然は死去していた。寺伝によると山城国山科郷に興正寺を創建し、この寺を弟子の真仏上人に任せ、親鸞は関東への布教の旅に出たとされている。しかし真仏は、ほぼ同時期に下野国に建てた専修寺を任されているなどから、親鸞が山科に興正寺を建ててから東国布教に出たとするよりも、越後より直接関東方面へ旅立ったとする説が有力となっている。なお興正寺の公式HPに掲載されている興正寺史話でもこのあたりの経緯について触れている。下野国の高田に住した真仏以外にも、真仏が存在したと考えられている。そして親鸞伝絵に出てくる平太郎の法名も真仏であったことを取り上げている。

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興正寺
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興正寺 三門

 寺伝では、興正寺は第7世了源により親鸞創建と伝えている。了源は関東で教えを受け、聖人入寂からおよそ60年後の元応2年(1320)頃に大谷の廟堂を訪れ、山科に興正寺の建立を志し勧進を始めたと考えられている。佛光寺ではその地を現在の山科区東野百拍子町としているが、山科興正寺という名称が残るのみで、どうも明らかなことは分からないようだ。
 このように興正寺は関東の門弟の流れを組み、聖人の教えが関東から京に及んで開かれた寺ともいえる。寺号の興正寺は順徳天皇から聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜ったことによっている。興隆正法には正法を興隆するとの願いが込められていると言われ、聖徳太子自らが書かれ太子の墓である廟崛の中に記されていたとされている。

 嘉暦3年(1328)前後に、了源は山科の興正寺から寺基を京都汁谷(現在の京都国立博物館の辺り)に移し、寺号を佛光寺と改めている。つまり山科に興正寺があったとのは、わずか6、7年であったこととなる。本願寺第三世覚如に興正寺という寺号を名づけてもらったが、元亨2年(1322)覚如は嫡男在覚を義絶し、了源を破門にしている。そのため了源は興正寺の寺号を使えなくなり、移転を契機に佛光寺に改めたと考えられている。

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興正寺 阿弥陀堂
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興正寺 御影堂

 その後、佛光寺は益々隆盛となったが、それとともに天台宗・延暦寺の弾圧が強まってくる。第13世光教の時には応仁の乱に巻込まれ諸堂を焼失している。さらに文明13年(1481)には14世を継ぐべき経豪(後の蓮教)が本願寺の蓮如に帰依し、山科西野に再び興正寺を創建し、48坊のうち42坊など有力末寺とともに本願寺に帰参する事態が発生する。佛光寺の寺勢は急激に衰え、代わって本願寺が台頭するところとなる。
 蓮教は本願寺の蓮如と力をあわせて念仏弘通に奔走したが、天文元年(1532)山科本願寺と共に兵火にかかって山科西野・興正寺は焼失する。永禄12年(1569)興正寺に本願寺顕如の次男・顕尊が入寺し、石山本願寺の脇門跡に任ぜられる。
 天正13年(1585)第15世蓮秀は天台宗の寺があった大阪天満の地に、広大な堂舎を配した天満本願寺と共に真宗興正寺として法燈をかかげる。そして天正19年(1591)第17世顕尊(本願寺門主・顕如の次男)の時に、豊臣秀吉による都市計画の一環で、本願寺と共に寺基を再び洛中の七条堀川に移す。この寺地には時宗市屋派本寺の金光寺があった。

 このように蓮教以来、興正寺は本願寺と行動を共にして来たが、明治9年(1876)第27世本寂は興隆正法の実を挙げるべく、真宗興正派として独立する。ただし本願寺派に残留した興正寺末寺も少なくなかった。安永9年(1780)に刊行された都名所図会では江戸時代の興正寺の姿が残されている。境内の左側に唐門が描かれているが、これは西本願寺の唐門である。西本願寺は、現在われわれが見る姿と同じだが、興正寺の境内の構成は、やや現在のものと異なっていることも分かる。これは明治35年(1902)の火災により、壮大華麗な大伽藍のほとんどが灰燼に帰している。第28世本常は直ちに再建し、明治45年(1912)に完成している。

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興正寺 経蔵

「興正寺」 の地図





興正寺 のMarker List

No.名称緯度経度
 興正寺 34.9897135.7521

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