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大徳寺 龍源院



大徳寺 龍源院(りゅうげんいん) 2008年05月19日訪問

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大徳寺 龍源院 龍吟庭

 大徳寺の本坊は非公開であるので、勅使門、山門、仏殿、法堂を見終わると、次は公開されている塔頭に入ることとなる。龍源院は、北大路通から勅使門に向って参道を進んで行った先の左手に位置している。
 龍源院は文亀2年(1502)能登の畠山義元、周防の大内義興、豊後の大友義親の三氏によって創建されている。開祖は大徳寺72世住持の東溪宗牧で大徳寺南派の本庵となっている。いわゆる大徳寺四法脈とされている龍源派、大仙派、龍泉派、真珠派であるが、その中でも大仙院を北派の本庵、そして龍源院を南派の本庵としている。茶の湯の楽しみ に掲載している 大徳寺 世譜を眺めると、70世の陽峯宗韶が龍泉派祖、72世の東溪宗牧が龍源派、そして76世の古嶽宗亘が大仙派祖となって以来、ほぼ大仙派と龍源派が占めていることが分る。このことからも四法脈の中でも大仙派と龍源派2つが北派と南派と呼ばれて他と区別されることは明らかである。この北と南は、単に地理的に大仙院が境内(仏殿、法堂などの伽藍)の北側、龍源院が南側にあったからであろう。 日文研に所蔵されている大正2年(1913)の京都市街全図を見ると、まだ北大路通が出来ておらず、船岡山の周囲は農地であったことが分かる。また大徳寺の東側を南北に走る大徳寺通に門前町が形成されていたことも見て取れる。鎌倉時代末期より大徳寺道に面して伽藍が建立され、室町時代の後半より寺域の拡大と共に、伽藍の北、南そして今宮門前通を越えて東側へと塔頭が建設されていったことが想像できる。

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大徳寺 龍源院 方丈付玄関につながる路地 傍らに置かれた石燈籠が効いている

 当初は、開祖東渓が師から贈られた霊山一枚庵を号したが、永正7年(1510)頃に寺号・龍源院となる。寺号の「龍」は大徳寺の山号である龍宝山より、「源」は松源崇岳を祖とする中国臨済宗の松源脈から採ったものである。松源崇岳の法嗣である無明慧性より、教えを受けた南宋の僧・蘭渓道隆が日本に渡来したのは寛元4年(1246)のことであった。そして建長5年(1253)北条時頼によって建長寺が創建されると、蘭渓は招かれて開山となる。建長寺からは南浦紹明(円通大応国師)が現れ、正元元年(1259)宋に渡り虚堂智愚の法を継いでいる。この円通大応国師に参禅したのが大徳寺の開山・宗峰妙超(大燈国師)であり、さらにその教えを引継ぎ妙心寺を開山したのが関山慧玄であるため、この法脈を応燈関と呼ぶ。
 明治の廃仏棄釈により大阪住吉神社内の慈恩寺と飛騨高山城主金森長近が大徳寺内に建立した金龍院を合併している。

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大徳寺 龍源院 庫裏

 龍源院の表門を潜ると、2本の路地が延びる。左の路地は庫裏の南側を通り、方丈への附玄関につながる。この玄関は檜皮葺一重切妻造の唐門となっているが、表門からはあまり良く見えない。路地は附玄関に向かい苔地の中を進む。途中に石燈籠を置き、方丈を訪れる人が自然に玄関へ導かれるように造られているが、残念ながら今は通行止めとなっている。今ひとつの路地は右に折れ庫裏へと拝観者を導く。
 庫裏の脇には龍源院の謂れを記した巨大な駒札が立つ。このように表門の中に立てられた説明板を時々見かける。わざわざ目障りなものを立て、美しく設えてきた空間を壊しているとしか思えない。

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大徳寺 龍源院 こ沱底
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大徳寺 龍源院 こ沱底

 庫裏に上がり奥へ進むと、書院に造られた「こ沱底」と名付けられた庭が現れる。この庭は、臨済宗の開祖の臨済義玄が住んだ中国河北の鎮州城の南を流れるこ;沱河に因んで作庭されている。書院南側の軒先部分の庭であるため、間口はあるものの、奥行きは1間弱の細長い庭となっている。訪問した時は気がつかなかったが、この庭は、先ほどの方丈につながる路地に平行に造られている。軒先とほぼ同じ高さの塀で囲まれているため、書院側から路地を見ることもできないし、路地側からも書院の気配を感じることが出来ない造りになっている。この細長い庭を河と見立てて作庭しているが、そこにセンスの良さを感じる。

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大徳寺 龍源院 こ沱底 阿の礎石がのぞく
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大徳寺 龍源院 こ沱底 吽の礎石

 庭は3つの部分で構成されている。右側の石は表面が平らで砂面と同じ高さに置かれている。この石を中心に円形の砂紋が描かれているが、周辺に行くほど砂紋が高くなっているので、中央に置かれた石は水底に置かれたように見える。この石の横には建物の礎石が置かれ、その穴に水を蓄えている。この石から左に目を移すと、今度は高さのある石と小振りな樹木の周りに円形の砂紋が描かれている。石と木は塀際に置かれているため、砂紋も半円になっている。この部分は川の中に浮かぶ島のようにも見える。そして庭の中央部に突起のある礎石が置かれ、同じく円形の砂紋が描かれている。

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大徳寺 龍源院 こ沱底

 この小さな庭は上記のように河を表現するため横方向に長い砂紋が引かれ、その中に3つの円形が、水面に広がる波紋を表現するように描かれている。そして2つの礎石、それも凸凹の組み合わせで配置されている。この庭を阿吽の庭と呼ぶのも、この2つの礎石の形状から来ているかもしれない。阿は口を開いて発する最初の音、吽は口を閉じて発する最後の音で、この2つの礎石でその形に似せている。この礎石は聚楽第に使われていたものと言われているが、確認する術がない。またこの庭の西端には創建当時から残る古い野井戸・担雪井がある。

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大徳寺 龍源院 東滴壺

 こ沱底の先には壷庭・東滴壺が続く。坪庭というよりは壷庭と呼ぶほうがぴったりな庭である。庫裏と方丈の間の細長い空間を庭としているため、3辺は廊下、1辺は庫裏と方丈をつなぐ橋掛かりのような開口部を持った壁で囲まれている。長辺方向に砂目が引かれた白砂には、2―1―2の5石が配置されている。北側の2石と中央の1石には滹沱底と同様に円形の砂紋が描かれている。この庭は昭和35年(1960)鍋島岳生によって造られている。鍋島は大正2年(1913)生まれ。東京農業大学で学んだ後、庭園研究家となっている。特に昭和11年(1936)から13年にかけて重森三玲を中心に行われた全国一斉古庭園実測調査の実測製図を担当している。この実測図は昭和14年(1939)「日本庭園史図鑑」26巻として世に出る。そして昭和51年(1976)重森完途と共に著した「日本庭園史大系」全33巻(別巻2巻)につながっていく。

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大徳寺 龍源院 東滴壺 中央の石と南の2石
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大徳寺 龍源院 東滴壺 北の2石

 この東滴壺を見て思い出したのは、妙心寺東海庵の用の庭である。3-1-3の七石を一直線に並べ、そして中央の石を中心に円形の砂紋を描いている。小野健吉氏は著書「日本庭園 空間の美の歴史」(岩波新書 2009年)の中で、龍安寺の石庭が枯山水の庭として独自の位置にあることを指摘している。築地塀を巡らした矩形の白砂の上に15石を配しただけの抽象的な構成となっている。この有名な庭が日本庭園を代表し、枯山水の典型という印象を与えている。小野は龍安寺の庭は枯山水として特異な例であり、その類型を山口の桂氏庭園とこの東海庵の坪庭をあげている。東海庵の用の庭は4方向から眺めることができるように造られている。それに対して東滴壺は明らかに庫裏と方丈の間の余白を埋めるために造られた庭である。GoogleMapの航空写真で見ると、東滴壺の部分の屋根の架け方は異なっていることが分かる。庫裏を建設した時にこの部分の屋根の形状を変えたのか、鍋島岳生によってこの庭が造られた時に屋根の形を変更したのか分からない。このコンセプチュアルな壷庭の上部には、細いスリット状の空が広がる。壷庭の明るさをコントロールすると共に、昼時に強い光の帯を白砂の上に落とす。
 東滴壺の先に進むと方丈に入る。北庭の龍吟庭、開祖・東渓禅師の塔所である開祖堂の前庭、そして南庭の一枝担の3つの庭が造られている。

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大徳寺 龍源院 龍吟庭
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大徳寺 龍源院 龍吟庭 西側から眺める
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大徳寺 龍源院 龍吟庭 西側

 龍吟庭は、杉苔の植えられた平坦な地を大海原と見なし、その上に組まれた石組みが陸地を表わしている。庭の中央部分に角張った石がやや斜めに立てられている。この石の存在感が龍吟庭を支配している。拝観の栞によるとこの石を須弥山とし、これを取り巻く石組みを九山、そして苔地を八海と見ている。一見すると横一列に並べられているようにも感じられる石組みであるが、方丈から石組みまでの距離は緩やかな曲線を描くように置かれている。この距離感のリズムと石の大きさの変化によって、流れるような印象を見るものに与える。寺伝では相阿弥の作庭とされているが確かな記録が無いため、作者不明と考えられている。方丈は永正14年(1517)頃に建立された檜皮葺の一重入母屋造の建物であるため、この北庭も同時期に作庭されたと室町時代後期の庭と考えられている。西桂氏は著書「日本の庭園文化 歴史と意匠をたずねて」(学芸出版 2005年)で、この庭は龍安寺方丈庭園と同様に、白砂の上に石を配した石庭だったと推測している。また西氏は斜立石を中心とした石組みは枯滝、その右に小さな三尊石組を抽象的に表現していると見ている。

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大徳寺 龍源院 龍吟庭 東側から眺める
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大徳寺 龍源院 龍吟庭 東側から眺める

 また中田勝康氏は自身のHPで、この庭に龍が雲海の中をくねっていて、雲の間から頭をもたげている姿を見出している。斜立石を龍の頭とし、その前にある丸く平らな石は龍の玉、右手前にある石は龍の爪、左端の立っている石を龍の尾としている。このように多くの人が異なる見方をすることを可能とする抽象性を龍吟庭が持ちえていると言える。

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大徳寺 龍源院 開祖堂
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大徳寺 龍源院 開祖堂前庭 大宮御所にあったと言われる石燈籠が見える

 反時計廻りに方丈を巡ると、開祖・東渓禅師の塔所である開祖堂の前庭が現れる。開祖堂は檜皮葺き一重入母屋造り。歴史を感じる建物となっているが、南北朝・鎌倉・室町初期時代の唐様式を取り入れ昭和になってから建てられている。開祖堂前庭には、方丈南庭から方丈の建物に沿って敷石が敷かれている。この敷石は方丈の中央部で90度折れ、開祖堂に向かう。その線上には桃山型の石燈籠がアイストップとして置かれている。これは大宮御所にあったものと言われている。

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大徳寺 龍源院 一枝担

 最後に開山東渓宗牧が師である実伝宗真から賜った霊山一枝之軒という室号から名づけられた方丈南庭に出る。この庭は、昭和55年(1980)細合喝堂和尚の監修の下で作庭されたもので、白砂が大海原、石組は蓬莱山、鶴島、亀島を表現している。まず目を引くのは、白砂の庭の左手前に杉苔で描かれた楕円である。苔地の中には低く抑えた石を2つ配し亀島としている。これに対する鶴島は右手前に造られている。立石は亀島の方に傾くことで鶴島と亀島の関係を印象付けている。そして庭の中央奥には巨石を配し蓬莱山を造り出している。亀島、鶴島そして蓬莱山の周囲には円形の砂紋が引かれ、白砂の大海の中に浮かぶ島を表現している。

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大徳寺 龍源院 一枝担 亀島
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大徳寺 龍源院 一枝担 鶴島

 この庭にはかつて、樹齢700余年という中国種の山茶花楊貴妃が植えられ、11月中旬から4月にかけて真紅の花をつけていたという。しかし昭和55年(1980)に枯死したため、現在私達が見るような枯山水の庭となった。

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大徳寺 龍源院 一枝担 蓬莱山

「大徳寺 龍源院」 の地図





大徳寺 龍源院 のMarker List

No.名称緯度経度
01   大徳寺 龍源院 方丈 35.0421135.746
02  大徳寺 龍源院 こ沱底 35.042135.7462
03  大徳寺 龍源院 東滴壺 35.0421135.7461
04  大徳寺 龍源院 龍吟庭 35.0422135.746
05  大徳寺 龍源院 開祖堂 35.0421135.7458
06  大徳寺 龍源院 一枝担 35.0419135.746
07  大徳寺 勅使門 35.0424135.7461
08  大徳寺 三門 35.0426135.7461
09  大徳寺 仏殿 35.0431135.7461
10  大徳寺 法堂 35.0435135.746
11  大徳寺 本坊方丈 35.044135.7464

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