徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

木嶋坐天照御魂神社

 

木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ) 2009年1月12日訪問 木嶋神社 二の鳥居  1月11日の最後に訪問した伏見稲荷大社の八島ヶ池から、大橋家の前を通り過ぎ、東福寺駅から京阪電鉄に乗車し、祇園四条で下りる。ここから四条通を西に歩き、室町通のホテルに戻る。 木嶋神社 三条通に面した石造の一の鳥居 木嶋神社 木造の二の鳥居  一晩明けて1月12日の朝は、まさに銀世界だった。夜のうちにかなりの量の雪が降っていた。烏丸駅から市営地下鉄烏丸線に乗車し、烏丸御池で東西線に乗り換える。そして4つ先の終点・太秦天神前で下車し地上に出る。オフィス街である四条烏丸とは異… ►続きを読む

 

大橋家庭園 苔涼庭 その2

 

大橋家庭園 苔涼庭 (おおはしけていえん たいりょうてい) 2009年1月11日訪問  下記の項は2009年2月11日に記した。しかし訪問順に並べ替えるために、2012年3月7日に再更新したこととする。大橋家で行われていた工事は既に終わっていると思われる。 大橋家庭園 門は閉ざされ貼り紙が…  以前に大橋家庭園を訪れた際、伏見稲荷大社との位置関係が良く分からず、伏見街道から入り大橋家庭園を訪問し再び伏見街道に戻るというような経路をとった。その後、地図で調べると大橋家の隣が産場稲荷社であり、東に20~30m進むと八島ヶ池に至ることが分かった。伏見稲荷大社の境内からこのように近い… ►続きを読む

 

伏見稲荷大社 その3

 

伏見稲荷大社 その3(ふしみいなりたいしゃ) 2009年1月11日訪問 伏見稲荷大社 山内  伏見稲荷大社 その2で秦大津父について記してきたが、この大津父より凡そ200年後の和同年間(708~715)に秦伊呂巨が稲荷山の三つの峯にそれぞれの神を祀ったのが伏見稲荷大社の始まりとされている。伏見稲荷大社の沿革にも、秦大津父から伊呂巨までの200年たらずの脈絡についてはほとんど不明とした上で。     しかし不明であるから全く関連はないとは言えないでしょう。深草の里が早くから開拓されて、人の住むところであったことは深草弥生遺跡に見ることができます。 としている。いずれにしても大津父と伊呂巨の… ►続きを読む

 

伏見稲荷大社 その2

 

伏見稲荷大社 その2(ふしみいなりたいしゃ) 2009年1月11日訪問 伏見稲荷大社 楼門  2011年11月にねりこべ地蔵の項を書いて以来、3ヶ月間以上お休みしてしまいました。今年の年末年始はいろいろなことがあった。そんな多忙な中でも結局延4日間京都を訪れることが出来たのは大収穫であった。深草から伏見、桃山そして竹田と第46回京の冬の旅の非公開文化財特別公開を巡った。お休み期間が長かったのは、この訪問の下準備と撮影した写真等の後片付けに結構な時間を費やしたためともいえる。 伏見稲荷大社 一の鳥居と楼門  2回目の石峰寺訪問も拝観時間が過ぎていたため、今回も山門前からの夕日を眺める… ►続きを読む

 

ぬりこべ地蔵

 

ぬりこべ地蔵(ぬりこべじぞう) 2009年1月11日訪問 ぬりこべ地蔵  白河天皇の成菩提院陵の拝観を済ませ、再び交通量の多い油小路通に出る。ここから伏見稲荷大社の御茶屋に向かう。この御茶屋は通常非公開で、今回開催されている第43回京の冬の旅で、教王護国寺五重塔内陣、教王護国寺観智院、東福寺退耕庵そして安楽寿院などともに特別公開されている。かなり不鮮明ではあるが30年くらい前に大学の建築史の先生の案内で一度訪問した記憶が残っている。 ぬりこべ地蔵 墓地の中に立つ小さな堂宇に近所の方が手を合わせる ぬりこべ地蔵  既に3時30分を過ぎているため、歩いて竹田駅まで向かい電車等を乗… ►続きを読む

 

成菩提院陵

 

成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ) 2009年1月11日訪問 成菩提院陵  安樂壽院南陵と安楽寿院の間の道を再び西に向かう。さらに安樂壽院南陵の西側を南に進むと、片側2車線の大通り・新城南宮道に出る。そのまま西に進むと油小路通とその上に架かる阪神高速8号京都線の高架が現れる。とても京都の町並みとは思えない光景ではある。乗用車ではなく大型車が続く流れを見ると、京都・大阪間の物流の大動脈としての必然性を強く感じる。この交差点を西に渡ると、角地には建物は立っておらず、そのまま白河天皇の成菩提院陵の姿が良く見える。 成菩提院陵 天下三不如意の御陵とは思えない現状  白河天皇は尊仁親王… ►続きを読む

 

安樂壽院南陵

 

安樂壽院南陵(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ) 2009年1月11日訪問 安樂壽院南陵  近鉄京都線の竹田駅から安楽寿院へ向かう道で見えた多宝塔が近衛天皇の安樂壽院南陵である。現在の安楽寿院の書院、庫裡、阿弥陀堂、大師堂そして三宝荒神社が東西軸に並ぶのに対して、安樂壽院南陵はその南に位置している。さらに御陵の南側には新しい小枝橋へとつながる4車線の幹線道路・新城南宮道が西に向かって走る。 この安樂壽院南陵に祀られている近衛天皇は、安樂壽院陵でも触れたように、鳥羽上皇の第九皇子・体仁親王である。生母は上皇の寵愛を受けた藤原得子(美福門院)であった。保延5年(1139)に生まれた親王は、… ►続きを読む

 

安樂壽院陵

 

安樂壽院陵(あんらくじゅいんのみささぎ) 2009年1月11日訪問 安樂壽院陵 工事中  安楽寿院の収蔵庫から道路を隔てた西側に鳥羽上皇の安樂壽院陵がある。丁度訪問した時は陵の塀の工事中のようで、一部仮囲いが架かり、宝形の屋根のみがぽつんと見えた。 鳥羽天皇は康和5年(1103)堀川天皇と女御・藤原苡子の間に宗仁親王として生まれている。苡子は大納言藤原実季の娘で堀川天皇の中宮ではない。中宮である篤子内親王が高齢で子女に恵まれなかったため、苡子は皇子出産の期待をかけられて入内している。宗仁親王を出産したものの、苡子はその直後に28歳の若さで亡くなっている。宗仁親王は祖父の白河法皇の下に引き… ►続きを読む

 

安楽寿院 その2

 

真言宗智山派 安楽寿院(あんらくじゅいん)その2 2009年1月11日訪問 安楽寿院 左に大師堂 右に阿弥陀堂  安楽寿院の項で記したように、応徳3年(1086)白河上皇は、藤原季綱から献上された巨椋池の畔の別業を拡張して南殿を造営している。これが後の鳥羽殿の始まりとされている。しかし鳥羽殿の大部分は、白河上皇の孫に当たる鳥羽上皇の時代に造営されている。 安楽寿院 庫裏と書院 安楽寿院  安楽寿院は鳥羽殿にあった東殿の仏堂として造営されている。鎌倉時代の史書・百錬抄によると、その創建は保延3年(1137)のこととされ、創建当時は単に御堂と呼ばれていた。なお安楽寿院の名称が現れ… ►続きを読む

 

安楽寿院

 

真言宗智山派 安楽寿院(あんらくじゅいん) 2009年1月11日訪問 安楽寿院 書院庭園  御香宮神社の山門を出て、大手筋通を西に下っていく。近鉄京都線桃山御陵前から乗車し、竹田駅で下車する。ここから安楽寿院へ徒歩で向かう。安楽寿院は通常非公開の寺院であるが、今回は第43回京の冬の旅で特別公開となっている。本日訪問した東寺は、鳥羽伏見の戦いで新政府軍の本営となり、東福寺の退耕庵は長州藩の本営であり、後に菩提所となっている。そして伏見奉行所は旧幕府軍の伏見方面の本営であり、御香宮神社には新政府軍が駐屯した。このように洛南の地には鳥羽伏見の戦いに関係するものが点在している。そういえば、油小路… ►続きを読む

 

伏見義民の碑

 

伏見義民の碑(ふしみぎみんのひ) 2009年1月11日訪問 伏見義民の碑  御香宮神社の表門を入った左手には伏見義民の碑が建つ。伏見義民については、大黒寺の項で、木曽川治水工事の責任をとって自害した薩摩藩家老・平田靭負、寺田屋事件の薩摩九烈士とともに触れているが、ここで改めて書いてみる。 御香宮神社庭園 その2で書いたように小堀政一すなわち小堀遠州は、元和5年(1619)に備中松山藩から近江小室藩に移封されている。政一の父・小堀政次はもともと近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)の土豪で、浅井長政の家臣であった。そういう事情から、政一にとって近江小室藩への移封は祖先の地に戻ることでもあ… ►続きを読む

 

御香宮神社庭園 その2

 

御香宮神社庭園(ごこうのみやじんじゃていえん)その2 2009年1月11日訪問 御香宮神社庭園  前回の訪問は小雨降る夕方だったため、御香宮神社の広い境内のどこに庭園があるか分からず、境内を探したことを思い出す。今回は拝殿の西側にある社務所に迷わずに向かう。この庭園の謂れが記されている駒札が社務所の入口前に立てられている。 御香宮神社庭園 御香宮神社庭園 御香宮神社庭園  茶人であり建築家、そして作庭家として有名な小堀遠州は、天正7年(1579)小堀政次の長男として生まれている。父の政次は近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)に生まれ、豊臣秀長に仕えている。最初は10… ►続きを読む

 

御香宮神社 その3

 

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)その3 2009年1月11日訪問 御香宮神社 明治維新伏見の戦跡の碑  前項で御香宮神社と徳川家の関係を記してきた。徳川家康が伏見城の再建に着手すると、豊臣秀吉により深草大亀谷古御香町に移された御香宮神社(古御香宮)は、家康によって旧地に戻され、本殿が慶長10年(1605)に寄進されている。その後も、元和8年(1622)初代水戸藩主・徳川頼房によって伏見城の大手門を表門に、そして拝殿を寛永2年(1625)初代紀州藩主・徳川頼宣よりの寄進を受けている。さらに社殿修復に関しては伏見奉行に出願し、その費用は徳川三家の御寄進金を氏子一般の浄財で行われてきた。また… ►続きを読む

 

御香宮神社 その2

 

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)その2 2009年1月11日訪問 御香宮神社 表門  伏見奉行所跡から、やや上り勾配の道を進むと大手筋通に出る。右手前方に御香宮神社の石垣と築地塀が見える。石垣の高さは大手筋通の上り勾配を示している。大手筋通には朱に塗られた鳥居があるが、御香宮神社の境内への入口には神門が設けられている。石垣に築地塀そして薬医門とは、府社御香宮神社の社号標石がなければ武家屋敷のようにも見える。 御香宮神社 一の鳥居 御香宮神社 境内西南隅の石垣 2.5から3メートル位の高さがある  この表門は元和8年(1622)初代水戸藩主・徳川頼房が伏見城の大手門を拝領し寄… ►続きを読む

 

伏見の町並み その2

 

伏見の町並み(ふしみのまちなみ)その2 2009年1月11日訪問 伏見の町並み 魚屋通の交差点から伏見奉行所跡を眺める 桃山へと続く左手側に上っていく  旧幕府軍の伏見奉行所跡から、新政府軍の本営である御香宮神社に向かう。伏見奉行所跡の石碑が面する通りの名称は分からないが、京町通と本町通の延長すなわち国道24号奈良街道の間の道を北に進む。この道を歩くと実感することは、御香宮神社と伏見奉行所跡との位置関係である。南北に走る魚屋通から大手筋通まで約100メートル程度。この僅かな距離で旧幕府軍と新政府軍が対峙していたことは、実際にこの場所に立たないとなかなか理解できない。そして宇治川に面してい… ►続きを読む

 

伏見奉行所跡 その2

 

伏見奉行所跡(ふしみぶぎょうしょあと)その2 2009年1月11日訪問 伏見奉行所跡  京町通の魚三楼の前を過ぎ、さらに南に進むと、東西に走る魚屋通に出会う。ここで左に折れ、近鉄京都線の高架の下を潜ると目の前に大きな団地が広がる。右に曲がり30メートルくらい進むと、団地の入口の脇に伏見奉行所跡の碑が建つ。ここが慶応4年(1868)1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いにおける伏見方面の主戦地となった伏見奉行所の跡地である。 伏見奉行は、江戸以外の幕府直轄領すなわち天領の内で重要な場所に置かれた遠国奉行の一つである。京都町奉行、大坂町奉行、駿府町奉行の各町奉行に対して伏見奉行は長崎奉行、山田奉行… ►続きを読む

 

魚三楼 その2

 

魚三楼(うおさぶろう)その2 2009年1月11日訪問 魚三楼 南側から眺める 左の建物は比較的新しい 右の建物の暖簾の右側の窓格子に銃痕が見られる  東福寺駅前にある仲恭天皇九条陵・崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵参道の道標を眺めながら、京福電鉄京阪本線に乗車し、7つ先の伏見桃山駅で下車する。改札口を出ると目の前を大手筋通が東西に走る。通りの名前から分かるように、豊臣秀吉が築城した伏見城の大手門へと続く道とされている。 この道を東に進み、近鉄京都線のガード下に入る手前を右に折れる。この道が京町通であることを示す表示板が立つ。伏見築城の際、桃山の伊達街道と共に城下町で最初に開通した「本通り」… ►続きを読む

 

東山本町陵墓参考地 その2

 

東山本町陵墓参考地(ひがしやまほんまちりょうぼさんこうち)その2 2009年1月11日訪問 東山本町陵墓参考地  六波羅門から東福寺の境外に出る。塔頭寺院の東光寺、桂昌院、荘厳院そして願成寺の前を通り、南門を潜り伏見街道に出る。伏見街道、すなわち本町通を北上し、京阪電鉄京阪本線の東福寺駅に向かう。東福寺の中門を過ぎた先、東側の町家の並びが一瞬途絶える箇所がある。地図上では、リカー&フーズおおにしの手前、丁度霊雲院の九山八海の庭の西側に位置する。ここは仲恭天皇の陵墓参考地とされている。既に仲恭天皇については仲恭天皇九條陵 その2で、陵墓参考地についても東山本町陵墓参考地で既に書いているので… ►続きを読む

 

東福寺 その5

 

臨済宗東福寺派大本山 慧日山 東福寺(とうふくじ)その5  2009年1月11日訪問 東福寺 五社成就宮  東福寺の三門の東側に鳥居が見える。鳥居の北側に見える最勝金剛院の参道が緩やかに上っていくのに対して、この部分はいきなり高台となっているので、鳥居の先から石段が始まる。登り切った先に五社成就宮が現れる。石清水、賀茂、稲荷、春日、日吉の五社神を祀るので五社明神社ともいわれる東福寺の鎮守社である。 東福寺 五社成就宮 東福寺 五社成就宮  東福寺 その4で触れたように、寛元元年(1243)3月15日に九条道家は法性寺鎮守惣社を東福寺の鎮守として遷宮を行い、成就宮と号している。… ►続きを読む

 

東福寺 その4

 

臨済宗東福寺派大本山 慧日山 東福寺(とうふくじ)その4  2009年1月11日訪問 東福寺  東福寺 その2、東福寺 その3に続き、創建の頃の東福寺の歴史と共に、東福寺の開山となる聖一国師が住した普門寺と東福寺の北側にあった三聖寺、後の時代に移転してきた万寿寺の歴史についても眺めていく。 東福寺 海蔵院 東福寺 龍眠庵  東福寺開山堂・普門院その3でも記したように、東福寺自体が完成する前に創建された普門寺の存在も現れてくる。凌霄山普門寺は、東福寺常楽庵(現在の開山堂と普門院のある寺域)の西方低地に実在した寺院で、かつては京都十刹の六位に位置付けられていた。開山は東福寺と同じ… ►続きを読む

 
 

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