徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

櫻本陵 その2

 

櫻本陵 (さくらもとのみささぎ) その2 2008年11月22日訪問 櫻本陵  安楽寺の石段を下りた先に、東西50メートル南北100メートル位の大きな緑地が残っている。既に周囲は宅地化された中に、矩形の敷地が手付かずに残されている。この冷泉天皇の櫻本陵の正面は、哲学の道をよーじや銀閣寺店の角から東に入った先にある。 冷泉天皇は天暦4年(950)村上天皇の第2皇子・憲平親王として生まれる。生後間もなくして、第1皇子の広平親王を押しのけて立太子となる。これは時の権力者である藤原実頼・師輔兄弟の力が働いていたと考えられている。広平親王の母は大納言藤原元方の娘・祐姫であり、憲平親は藤原師輔の娘・… ►続きを読む

 

安楽寺 その2

 

浄土宗住蓮山 安楽寺 (あんらくじ) その2 2008年11月22日訪問 安楽寺 方丈の東庭  霊鑑寺門跡の石段を下り、道を北に進むと右手に安楽寺の大樹と石段、その上に建つ萱葺きの山門が現れる。 安楽寺 山門前 拝観者の途切れることがない  安楽寺は2008年5月に訪れたが、霊鑑寺と同様に非公開のため山門の写真を撮影し、中の様子を伺うだけであった。こちらの寺院も春と秋に特別公開が行われる。春は桜、躑躅、皐の美しい時期に土日と祝日のみ公開される。夏は7月25日に行われる鹿ケ谷カボチャ供養の日、そして秋は紅葉の11月から12月初旬の土日、祝日に公開される。前回の5月の訪問は丁度、躑躅と… ►続きを読む

 

霊鑑寺門跡 その2

 

臨済宗南禅寺派円成山 霊鑑寺門跡 (れいかんじもんぜき) その2 2008年11月22日訪問 霊鑑寺門跡 中門から庭園を眺める  大徳寺の塔頭 総見院を出て再び東門を出てタクシーを捜す。大徳寺を訪問する観光客は、この東門の前にある駐車場で下車するため、乗車客待ちのタクシーが停まっている確率が高い。 タクシーは霊鑑寺門跡と法然院を目指して北大路通を東に進む。賀茂川と高野川を越えると一乗寺町に入る。白川通で右折し南に下り、今出川通の交差点から鹿ケ谷通に入る。鹿ケ谷通は観光客の多い哲学の道の西側を平行に走る道である。そして市立第三錦林小学校の角を東に入り、霊鑑寺門跡の石段の前に約30分で到着す… ►続きを読む

 

大徳寺 総見院

 

大徳寺 総見院 (だいとくじ そうけんいん) 2008年11月22日訪問 大徳寺 総見院  興臨院を出て、三門、仏殿そして法堂を左手に見ながら北に進む。孤篷庵へと続く東西路を西に曲がると右手に総見院の山門が見える。通常非公開の塔頭であるが、何かの催しが行われているのか、門が開いているので少し中を覗いてみる。 総見院は、大徳寺117世住持古渓宗陳と開山として、天正11年(1583)織田信長の一周忌の追善のために秀吉によって創建されている。そのため寺名は信長の戒名 総見院殿贈大相国一品泰厳大居士に由来している。しかし天正16年(1588)後で触れるように古渓は秀吉の怒りに触れ九州に配流される… ►続きを読む

 

大徳寺 興臨院 その2

 

大徳寺 興臨院 (だいとくじ こうりんいん) その2 2008年11月22日訪問 大徳寺 興臨院 南庭  黄梅院を出て、次の訪問予定の塔頭興臨院を目指して、龍源院の前を過ぎ勅使門と三門の金毛閣に向かう。勅使門の西側に位置する興臨院には、既に2008年5月に訪問しているので、このブログを書き始めてから二度目となる。通常非公開の塔頭であるが春と秋に特別公開が行われる。前回は春で今回は秋の拝観となるので、季節の違いが感じられるのではないだろうか。 大徳寺 黄梅院 新しい庫裏 大徳寺 興臨院 方丈玄関の唐門  興臨院は天文年間(1521~1533)に、能登の守護・畠山義総が大徳寺86… ►続きを読む

 

大徳寺 黄梅院

 

大徳寺 黄梅院 (だいとくじ おうばいいん) 2008年11月22日訪問 大徳寺 黄梅院 庫裏前の庭  東光寺の山門を出て、次の訪問地である大徳寺を目指す。天得院の角を西に曲がり、中門を潜り本町通に出る。本町通を北に進み、九条通の高架下にある伏水街道第二橋の親柱を見ながら歩くと、左手に京阪電鉄東福寺駅が現れる。電車はJR東海道本線の下を潜り、塩小路通の手前から地下に入っていく。鴨川の東岸川端通の下を北に進み、終着駅の出町柳駅で下車する。地上に出てタクシーに乗車し、賀茂川の西岸の出雲路を北上し北大路通を左折すると、およそ15分で大徳寺の東門に到着する。 黄梅院は永禄5年(1562)織田信長… ►続きを読む

 

東福寺 東光寺

 

東福寺 東光寺 (とうふくじ とうこうじ) 2008年11月22日訪問 東福寺 東光寺  天得院の山門を出て臥雲橋から続く南北路を南に下ると、六波羅門と勅使門の手前の右手に東光寺の山門が見える。通常は非公開の塔頭であるが、この11月は公開しているという噂を聞いて訪れたが、どうも公開していないようだったので、庫裏前の路地のみを拝見させていただいた。 東福寺 東光寺 山門 東福寺 東光寺 庫裏へ続く路地  東光寺は、鎌倉時代末期の応長元年(1311)東福寺第7世無為昭元(大智海禅師)によって創建された。無為昭元は、寛元3年(1245)生まれ、東福寺の開山聖一国師(円爾)の法を嗣ぎ… ►続きを読む

 

東福寺 天得院

 

東福寺 天得院(とうふくじ てんとくいん) 2008年11月22日訪問 東福寺 天得院 方丈南庭 手前にチャボヒバの木が見える  即宗院の山門を出て、偃月橋を渡り、方丈と本堂の間を西に進む。日下門を出て右側に天得院の山門が見える。 前回東福寺を訪れた際は公開されていなかったため、山内の塔頭のひとつとして紹介はしたが、今回は龍吟庵や即宗院とともに、秋の特別公開が行われているので訪問する。 東福寺 天得院 山門  天得院の公式HPによると正平年間(1346~70)玉渓慧格をとして、東福寺第30世無夢一清によって開創された道場とされている。無夢一清は永仁2年(1294)に生まれ、玉渓慧&… ►続きを読む

 

東福寺 即宗院 その3

 

東福寺 即宗院(とうふくじ そくしゅういん) その3 2008年11月22日訪問 東福寺 即宗院  公開されていないが、即宗院墓地には、道島五郎兵衛、奈良原喜左衛門、田中新兵衛そして中井弘(桜洲)の墓が残されている。  文久2年(1862)4月23日伏見の旅館・寺田屋に集まった薩摩藩尊攘派を鎮撫するため、道島五郎兵衛は大山綱良や奈良原繁と共に島津久光によって使わされた。急進派の有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口伝蔵の6名が死亡、重傷を負った田中謙助と森山新五左衛門の2名も切腹、さらに大阪藩邸で療養していたため寺田屋に参加できなかった山本四郎も藩命に背き抵抗した後… ►続きを読む

 

東福寺 即宗院 その2

 

東福寺 即宗院(とうふくじ そくしゅういん) その2 2008年11月22日訪問 東福寺 即宗院 薩摩藩士東征戦亡之碑  即宗院と島津家の関係で記しておかなければならない出来事が幕末から維新にかけて起きている。  まず幕末の勤王僧・月照について始めなければならないだろう。文化10年(1813)大坂の町医師玉井宗江の子として生まれている。文政10年(1827)清水寺成就院蔵海の室に入り,得度して忍介(忍鎧)と称する。天保6年(1835)蔵海の死去により成就院持住となる。一山の改革に着手するも成功せず、嘉永6年(1853)に出奔する。翌安政元年(1854)境外隠居の処分を受ける。 この頃より… ►続きを読む

 

東福寺 即宗院

 

東福寺 即宗院(とうふくじ そくしゅういん) 2008年11月22日訪問 東福寺 即宗院 庭園  龍吟庵の中門を出て、小振りな表門を背にして偃月橋を眺めると、左手に即宗院の山門が石段の上に見える。即宗院は最勝金剛院とともに東福寺の境内の中でも東端にあるため、東山の峰々の斜面上に位置する。この地形的な特徴は、泉涌寺の塔頭・悲田院から日吉ヶ丘高校の南東を通り、東福寺へと向うと即宗院の高台に突き当たることで良く分かる。つまり即宗院の境内の東半分は、鬱蒼とした樹木に覆われているが、明らかに日吉ヶ丘高校や周囲の民家に比べて小高くなっている。どうも東福寺自体が一様な傾斜面上にあるわけでなく、悲田院・… ►続きを読む

 

東福寺 龍吟庵 その2

 

東福寺 龍吟庵 (とうふくじ りゅうぎんあん) その2 2008年11月22日訪問 東福寺 龍吟庵  方丈側から偃月橋を渡り切ると、右手の石段の上に即宗院の山門、正面の石段の上には龍吟庵の方丈へと続く表門が現れる。もともと常時公開していないためか、この表門の左手に仮設の券売所が作られている。緩やかな反りを持つ杮葺切妻屋根の表門は、桃山時代に造られ、現在は重要文化財に指定されている。この表門は偃月橋を渡る手前から、方丈の大屋根の手前に美しい姿を現しているが、公開時は券売所が邪魔をしてしまう。ここで拝観券を購入し、斜め右手に続く敷石を進み中門を潜る。右手の庫裏と正面の方丈玄関へ… ►続きを読む

 

東福寺 龍吟庵

 

東福寺 龍吟庵(とうふくじ りゅうぎんあん) 2008年11月22日訪問 東福寺 龍吟庵 龍吟庭  2008年秋の特別拝観を見るため、6時発の新幹線で東京を出て京都を訪れる。京都駅の八条口より徒歩で東福寺に向う。新幹線からJR奈良線に乗り換えて東福寺駅で下車することも可能だが、乗り換えの時間を考えると歩くのとそれ程変わらないので、今回は歩いて東福寺に行くこととした。東洞院通の京都駅から先の部分は竹田街道とされているが、この道を南に下り九条通を東に入る。 東山橋から鴨川を眺める 東福寺駅の踏切 電車が来る直前  鴨川に架かる東山橋を渡ると、JR奈良線と京阪電鉄の東福寺駅の踏み切… ►続きを読む

 

国立京都国際会館

 

国立京都国際会館 (こくりつきょうとこくさいかいかん) 2008年05月20日訪問 国立京都国際会館  宝ヶ池の北側に昭和41年(1966)建設された国立京都国際会館へは、いつかは訪れなければいかないと思いつつ、なんとなく足が向かないまま未訪問のままであった。それは地理的な理由もあったが、むしろどうしても見なければという積極的な気持ちを欠いていたためであろう。今回も近くまで来たついでに遠くからだけでも眺めておこうという気楽な気分になれたためである。 国立京都国際会館  戦後の建築設計競技は、昭和23年(1948)の世界平和記念聖堂と広島平和記念公園、昭和27年(1952)丸の内の東… ►続きを読む

 

宝ヶ池

 

宝ヶ池 (たからがいけ) 2008年05月20日訪問 宝ヶ池  岩倉の実相院門跡の前から京都バス・四条河原町行きに乗車し、最後の訪問地・蓮華寺を目指す。花園橋停留所で下車した後、高野川の上流に向かって歩いていく。叡山電鉄三宅八幡駅の前で高野川の北岸に渡り、大原から若狭へと続く国道367号・鯖街道を東に進む。蓮華寺の駐車場の先を左に入ると蓮華寺の山門が現れる。花園橋から徒歩15分、17時直前に山門を潜ることができたが、残念ながら拝観は既に終了した旨を告げられる。再訪を期して、京都バス・上橋停留所から国際会館駅行きに乗車する。まだ日が高いので宝が池公園を最後の訪問地とする。 宝ヶ池 叡山… ►続きを読む

 

岩倉の町並み

 

岩倉の町並み (いわくらのまちなみ) 2008年05月20日訪問 岩倉の町並み 実相院門跡への道程で見かけた古い道標  岩倉の地名の由来は、山住神社にある巨石が神体となり石座神社と称される古代磐座信仰、あるいは平安京造営時に一切経を納めるために京の四方の山上に設けられた4つの岩蔵の一つとされている。平安時代の文献には石蔵として現れ、現在使用している岩倉となるのは鎌倉時代以降である。5世紀後半以降に開拓が始まる。幡枝地区は早い時期から集落が形成されており、律令制のもとでこれらの集落は山城国愛宕郡栗野郷に属する。特に平安時代以降、岩倉は貴人の別荘地・隠棲地や病者のための静養地とされるとともに… ►続きを読む

 

実相院門跡

 

天台宗単立寺院 岩倉山 実相院門跡 (じっそういんもんぜき) 2008年05月20日訪問 実相院門跡 西庭園  円通寺の山門を出て、京都府道40号線下鴨静原大原線を少し大原方向に下り、民家の中に入っていく。円通寺 その2で触れたように、新しい道路が作られ、まさにこれから住宅街として開発されようとしていた。恐らく現在はさらに進んでいるのだろう。東の方向に進んでいくと10分程度で京都バスの円通寺道停留所に着いた。ここから岩倉の実相院に行くため、岩倉村松行きのバスに乗車し、国際会館駅前、岩倉駅を経由して岩倉中町で下車し、あとは徒歩で向かう。岩倉中道を北上し、途中で西側を並行に南北に走る京都府道… ►続きを読む

 

円通寺 その2

 

臨済宗妙心寺派大悲山 円通寺 (えんつうじ) その2 2008年05月20日訪問 円通寺 庭園  円通寺の項でも触れたように、後水尾上皇は正保4年(1647)より長谷と岩倉の山荘に行幸を重ねてきた。そして慶安元年(1648)4月にも長谷の山荘に行幸し田植えを見学している。翌慶安2年(1649)9月には東福門院、顕子内親王そして明正上皇を伴い長谷と岩倉を訪れている。上皇はこの行幸において幡枝で観月の宴を開いている。これが最初の幡枝への行幸であり、幡枝御殿の上御茶屋であったと考えられている。 円通寺 比叡山の眺め 正伝寺 比叡山の眺め  小沢朝江氏の論文「後水尾院の幡枝御殿につい… ►続きを読む

 

円通寺

 

臨済宗妙心寺派大悲山 円通寺 (えんつうじ) 2008年05月20日訪問 円通寺 庭園  八大神社の一の鳥居と一乗寺下り松を見た後、曼殊院道を西に進み白川通に出る。そのまま北大路通の交差点辺りまで白川通を南に下る。昼食を摂った後、タクシーに乗車し幡枝の円通寺を目指す。車は白川通を北上し、白川通北山の交差点で左折し、叡山電鉄と高野川を越えて北山通を西に走る。昨日、深泥池から上賀茂神社へ歩いた道と同じように、北山通から鞍馬街道に入り北上する。深泥池畔からさらに鞍馬街道を進む。道は次第に勾配をきつくしていくと共に、民家の数も少なくなっていく。白川通北大路から、およそ20分弱で円通寺の前に着いた… ►続きを読む

 

一乗寺下り松

 

一乗寺下り松 (いちじょうじさがりまつ) 2008年05月20日訪問 一乗寺下り松  八大神社の二の鳥居を潜り、詩仙堂を左手に見ながら坂を下っていくと、正面に大樹と共に八大神社の一の鳥居が見える。その横を過ぎると左手に松の木が植えられた石段が現れる。これが宮本武蔵と吉岡一門の決闘で有名な一乗寺下り松である。 一乗寺下り松 八大神社の一の鳥居  今日、我々が知る宮本武蔵像は吉川英治によるところが大きい。その元となったのが、承応3年(1654)宮本武蔵の養子・宮本伊織が父武蔵の菩提を弔うために、豊前国小倉藩手向山山頂に建立した自然石に刻まれた顕彰碑文・小倉碑文である。高さ4.5メートル… ►続きを読む

 
 

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