徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

清三宝大荒神尊

 

清三宝大荒神尊(きよしさんぽうこうじんそん) 2010年1月17日訪問 清三宝大荒神尊  護浄院の荒神口通に面した山門の東脇に、清三宝大荒神尊と記された石碑が建つ。一見すると護浄院の建てた寺号を示す碑の様に見えたが、裏側(南面)の建立者を見ると、三宅安兵衛遺志とある。大正15年12月の建立である。三宅安兵衛遺志についてはどこか項を改めて書こうと考えているが、なかなか資料が集まらなく未だ筆を執るに至っていない。ここでは現在分かっていることだけをもとに書いてみる。 三宅安兵衛とは現在の京都市中京区高倉通六角西入ルに住む織物商であった。この人物の生涯については子の清治郎が父母の十三回忌として昭… ►続きを読む

 

護浄院

 

天台宗 護浄院(ごじょういん) 2010年1月17日訪問 護浄院 清荒神  京都府立鴨沂高等学校の校門脇に建てられた明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯の石碑を確認した後、寺町通を北上して荒神口通を右に曲がる。法成寺址の前を過ぎてさらに東に進むと、新烏丸通の東南角に護浄院が現われる。この寺院のある荒神町は寺町通から河原町通を越え三本木通までの荒神口通に面した南北町である。鴨沂高等学校のグランドは荒神町であるが、荒神口通の南側にある校舎は松蔭町に含まれている。また護浄院を過ぎると荒神口通の南側は上生洲町になる。南北町であるにも関わらず荒神口通の南側は護浄院と河原町通より先の数軒のみが荒神町であ… ►続きを読む

 

明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯 その2

 

明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯(めいじてんのうぎょうこうしょきょうとふじんじょうちゅうがっこうあと)その2 2010年1月17日訪問 明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯 2009年12月10日撮影  2010年1月に京都府立鴨沂高等学校を訪れた際はまだ高校として使われていたが、2014年には既に建替工事が始まっていた。そして2016年には校舎も無くなっていたので非常に驚いた。当初は平成28年(2016)末には完成する予定だったが、土壌汚染が判明し竣工が平成30年(2018)夏に延びてしまったようだ。この土壌汚染の原因が過去の土地利用に関係するものなのか気になるところではあるが、この項では… ►続きを読む

 

京都府立鴨沂高等学校 その2

 

京都府立鴨沂高等学校(きょうとふりつおうきんこうとうがっこう)その2 2010年1月17日訪問 鴨沂高等学校 九条家河原町邸の門を移築  京都市教育会が大正4年(1915)に建立した「従是東北 法成寺址」の石碑についての事々を法成寺址 その5において書いてきた。石碑が建てられた後に鴨沂高等学校のグランドを囲むコンクリート製の塀が造られたため、塀には石碑を避けるような半円形の窪みが設けられている。京都ではこのような窪みを多く見掛けるのは昔からの碑を地域の人々が大切に守ってきたからであろう。 この碑の東北には、かつて藤原道長が最後の時を過ごすために建立した法成寺が存在した。そして道長の没後も… ►続きを読む

 

昭和京都名所圖會 その4

 

昭和京都名所圖會(しょうわきょうとめいしょずえ)その4 昭和京都名所圖會 地図上へのプロット  昭和京都名所圖會から その2、その3と3回にわたり竹村俊則の経歴と共に「新撰京都名所圖會」全七巻(白川書院 1965年完結)から「昭和京都名所圖會」全七巻(駸々堂出版 1989年完結)までの執筆の経緯を書いてきました。本来、「新撰京都名所圖會」を完結した時点で当初の竹村の目的が完了していたはずでしたが、彼が予想していた以上に社会の変化が激しかったこと、そして自らの手による挿画が時代から取り残されて行ったことが、二度目の執筆に向わせたと思います。その反省があったため、「昭和京都名所圖會」は「新撰… ►続きを読む

 

昭和京都名所圖會 その3

 

昭和京都名所圖會(しょうわきょうとめいしょずえ)その3 昭和京都名所圖會 「昭和京都名所圖會 巻一」 洛東-上 今熊野図 竹村俊則画 昭和54年9月 このような広域の鳥瞰図も描いている  昭和京都名所圖會 その2では、「新撰京都名所圖會」の完結と白川書院の廃業までを書いてきました。この項では「昭和京都名所圖會」の執筆以降を書いて行こうと思います。 「新撰京都名所圖會」が完結してから6年経た昭和46年(1971)に巻四の第五版が発行されています。この版は第四巻としては新字に改訂してからの最初の刷り増しとなりました。竹村はこの巻のあとがきも全面的に書き換えています。 この巻は巻三の洛中の部の… ►続きを読む

 

昭和京都名所圖會 その2

 

昭和京都名所圖會(しょうわきょうとめいしょずえ)その2 昭和京都名所圖會 「昭和京都名所圖會 巻一」 洛東-上  昭和京都名所圖會では、1965年に全7巻で完結した「新撰京都名所圖會」とその後に時代の変化に合わせて改訂出版された「昭和京都名所圖會」を紹介するに留まってしまいました。この項では竹村俊則の経歴を中心に書いて行こうと考えています。 竹村俊則については、なかなか纏まった資料がないように思われる。いろいろな所で見る経歴やエピソードは、自らの著書のあとがきや新聞等のインタビューによるものが多いようです。このあたりを手際良くまとめたのが、板井博彦氏の「竹村俊則と新撰京都名所圖會」(京都… ►続きを読む

 

昭和京都名所圖會

 

昭和京都名所圖會(しょうわきょうとめいしょずえ) 昭和京都名所圖會 「新撰京都名所圖會 巻三」 洛中の部1  2016年末から2017年始に向け、竹村俊則の「昭和京都名所圖會」の特集を準備してきました。しかし想像以上に作業に作業時間を要したことにより、2017年1月末更新という何とも格好の悪いこととなりましたが、ここに公開いたします。  竹村俊則については、本ブログでも何回か取り上げていますので、御存知の方も多く居られることと思います。比較的新しいエントリーとして、大久保利通旧邸で、「京の史跡めぐり」(京都新聞社 1987年)を参照しております。明治11年(1878)の大久保暗殺後も大久… ►続きを読む

 

法成寺址 その5

 

法成寺址(ほうじょうじあと)その5 2010年1月17日訪問 法成寺址 左側は京都府立鴨沂高等学校の運動場  明けましておめでとうございます。2017年最初の更新となります。 昨年は9月頃から”別の作業”が忙しくなり、なかなか更新することが出来なくなりました。その作業も凡そ目途がつき、3月頃には完了する予定です。そうすればもう少し更新頻度も上がると考えておりますのでよろしくお願いいたします。  廬山寺墓地と慶光天皇廬山寺陵(その2、その3、その4、その5)を拝観し、御土居を見学した後、廬山寺の山門より、再び寺町通を100メートルほど南下すると京都府立鴨沂高等学校が現われる。鴨沂高等学校に… ►続きを読む

 

史跡・御土居

 

史跡・御土居(しせき・おどい) 2010年1月17日訪問 廬山寺 御土居  廬山寺墓地の東側、河原町通との間に南北に並ぶ木の列が見える。墓地の地盤に比べてやや高台になっている箇所が、豊臣秀吉の天正の地割りと共に築かれた御土居の東端にあたる。中村武生氏の「御土居堀ものがたり」(京都新聞出版センター 2005年刊)によれば、御土居建設は天正19年(1591)年に入ってすぐに着手されている。同書では近衛信尹の「三藐院記」を引用し、「閏一月に開始して、二月に過半ができた」としている。凡そ22.5Kmに及ぶ大土木工事を少なくとも2ヶ月、長くみても4ヶ月以内に完成させたこととなる。このように短期間の… ►続きを読む

 

慶光天皇廬山寺陵 その5

 

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その5 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺陵  慶光天皇廬山寺陵 その4では、尊号一件の目的とするところとその始まり、そして松平定信の老中筆頭への昇格と関白鷹司輔平との交渉の経緯を書いてきた。ここでは朝廷側から申し入れられた“小一条院に準じる待遇”に対する幕府の拒絶から結末までの交渉を見て行く。 寛政3年(1791)4月22日、京の鷹司輔平より再度の照会依頼が定信に送られてきた。長和6年(1017)に藤原道長の圧力によって自ら皇太子の身位を辞退した第67代三条天皇の第一皇子の敦明親王に小一条院の尊号を前例とし、閑院宮典仁親王への尊… ►続きを読む

 

慶光天皇廬山寺陵 その4

 

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その4 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺  慶光天皇廬山寺陵 その3では、天明8年(1788)1月30日に発生した天明の大火による御所焼失から寛政度の復古造営までの朝幕交渉について見て来た。御所御千度参において幕府との交渉の機会を得た光格天皇は、これを前例として御所造営の際には復古様式の採用を幕府に認めさせることに成功している。この項では御所御千度参と寛政度御造営に前後して発生した尊号一件について書いて行く。 既に京都御苑 閑院宮邸 その2でも記したように、尊号一件は光格天皇が父である典仁親王に太上天皇号を贈ろうとしたことから始… ►続きを読む

 

慶光天皇廬山寺陵 その3

 

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その3 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺 南北に長く複数の墓石が配置されている  慶光天皇廬山寺陵 その2では、元々病弱であった後桃園天皇の急逝、安永8年(1779)11月25日の光格天皇即位から始め、天明7年(1787)6月7日より発生した御千度参りを中心に書いてきた。当時、天明2年(1782)から続く天明の大飢饉の真最中であり、同7年(1787)5月には農村から貧困に耐え切れず都市部に流入した人々により江戸、大阪で打ちこわしも行われている。御所の周りで自然発生した御千度参りは、このような世相を打破するため単に神仏に頼るではな… ►続きを読む

 

京都の地図 その4

 

京都の地図(きょうとのちず)その4 2016年8月18日登録 京都の地図 2016年3月の旅行に使用した地図 全体図ではマーカーの位置も分からない  設定変更について その4でも少し触れたが、2016年3月の撮影旅行の際に持参した地図は、その前の2014年10月に作成した三階層構造のpdfファイルとは異なるものであった。実際に現地で使用して感じた違和感、率直に言えば使い難さによっている。 2014年10月の地図の構造については、京都の地図 その3で、その作成方法を詳しく記しているので、繰り返すことはしない。ここでは生成された地図の問題点のみを上げることとする。 先ず最も使い難さを感じたも… ►続きを読む

 

設定変更について その7

 

設定変更について(せっていへんこうについて)その7 2016年8月17日登録 設定変更について Olympus社製 E-PL6 2015年秋よりサブカメラに加わりました  設定変更について その6では、ファイル名称及びディレクトリ構成についての変更を書いた。この項ではデータベース部分の改造と「徘徊の蔵書棚」の新設について記す。 既に書いてきたように、データベース部分に大きな問題があることは明白である。個々のデータベースでそれぞれ座標値を持っているため、実際のところ誤った位置に表示された場合どの座標値が問題か探すことが困難になっている。解決方法は、「撮影対象及び地図表示の座標値を一元化管理… ►続きを読む

 

設定変更について その6

 

設定変更について(せっていへんこうについて)その6 2016年8月17日登録 設定変更について Nikon社製 D7000 現在のメインカメラ  設定変更について その5では、情報の一元化を図るために今まで作成してきたデータベースを壊し、必要な情報のみを残して新しいデータベースを作成することの背景を書いてみました。2008年に本ブログを書き始めた頃より、“こんなものがあったら楽になるだろう”という気持ちで各種のツールを作成してきました。そのため8年も経つとシステム全体に冗長性が目立ってくる。既に使わなくなっている機能も実装されたままで、何のために必要かも理解できなくなりつつある。ある程度… ►続きを読む

 

設定変更について その5

 

設定変更について(せっていへんこうについて)その5 2016年8月17日登録 設定変更について Trip Recorder 747Pro 既に販売終了しているようだ  またまた、3ヶ月ぶりの更新となってしまいました。前回の最後が2016年5月29日の慶光天皇廬山寺陵 その2でしたので、本当に長い間ブログの執筆をサボってしまいました。慶光天皇廬山寺陵の項自体、まだ書き掛けのままであったので、長い中断と言わざるを得ません。なんと気が付けば世の中はお盆休みに入り、4年に一度のオリンピック一色に染まっていました。 大久保利通旧邸 その3から梨木神社 その2の3ヶ月間の空白は、1年半振りの京都旅行… ►続きを読む

 

慶光天皇廬山寺陵 その2

 

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その2 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺陵  慶光天皇廬山寺陵では、桃園天皇から光格天皇に至る江戸時代中期の朝廷の様子を中心に幕府の衰退の兆しにも触れてきた。この項では光格天皇によって行われた朝儀の再興、朝権の回復について書いて行く。 明和8年(1771)8月15日に閑院宮第2代典仁親王の第6皇子祐宮として生まれている。そのままならば兄の美仁親王が閑院宮家を継ぎ、祐宮は安永元年(1772)9月には聖護院宮忠誉法親王の付弟とされ、将来的には聖護院門跡に入る予定であった。しかし後桜町天皇から譲位され即位した後桃園天皇が病弱で欣子内親… ►続きを読む

 

慶光天皇廬山寺陵

 

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう) 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺陵  薬医門の右脇に大阪皇陵巡拝会が建立した慶光天皇廬山寺陵への道標が残されているように、廬山寺の境内には慶光天皇の陵墓が築かれている。慶光天皇とは京都御苑 閑院宮邸 その2でも記したように閑院宮第2代典仁親王である。閑院宮家は四世襲親王家として現在のところ一番新しく作られた宮家である。伏見宮・有栖川宮・桂宮の宮家がいずれも当時の天皇家とは遠縁になっていることより、皇統の断絶が危惧される中、天皇の近親者によって新たな宮家を創設するべきという新井白石の建議によっている。最初の世襲宮家である伏見宮の… ►続きを読む

 

廬山寺墓地

 

廬山寺墓地(ろざんじぼち) 2010年1月17日訪問 廬山寺墓地  廬山寺 その2でも触れたように、2008年5月13日に廬山寺を拝観した際には廬山寺陵の存在を知らなかった。そのため御土居を訪れることもなかった。その後、陵墓に関係するHPや文献を調べて見逃していたことに気が付き、今回の訪問では予定に繰み込んだ。 廬山寺の墓地は本堂の東側、御土居沿いに作られている。山門及び本堂が寺町通に西面しているので、自然と寺地の奥に墓地を作ることとなったのであろう。つまり寺町通から山門を潜ると正面の大師堂に至る。もともと北側の山門は大師堂のために造られた門と考えても良いだろう。そのため南側の薬医門が本… ►続きを読む

 
 

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