佛光寺本廟
佛光寺本廟(ぶっこうじ ほんびょう) 2008年05月16日訪問
粟田神社の急な参道を下り、青蓮院から来た道をさらに東に入ると道幅は次第に細くなる。この道の右側に佛光寺本廟の山門が現れる。
佛光寺は下京区高倉通仏光寺下ル新開町にある真宗佛光寺派本山。山号は渋谷山。
佛光寺の公式HPによるとその起源は、越後に流罪にされた親鸞が、赦免の翌年建暦2年(1212)に京都に戻り、山科の地に草庵を結んだことに始まる。真宗開闢の根本道場を意味して、興隆正法寺と号していた。この後、親鸞は弟子の真仏に任せ、関東での布教活動に旅立ったとされている。 元応2年(1320)第七世了源により、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都東山に移すべく、山科から今比叡渋谷(現在の京都国立博物館の辺り)に寺基を移す。この移転にともない佛光寺は、多くの参詣者を迎え隆盛を極める。これに対して本願寺第三世覚如は元亨元年(1321)親鸞の廟堂である「大谷廟堂」を寺院化し、本願寺と号している。しかし当時の本願寺は青蓮院の末寺に過ぎず、本願寺第八世蓮如の時代、寛正6年(1465)延暦寺西塔の衆徒により大谷本願寺が破却されるまでに至り次第に荒廃していく。また佛光寺も興隆にともない天台宗・延暦寺の弾圧が強まっていく。
応仁元年(1467)に応仁の乱が起こり、佛光寺も諸堂を焼失する。それとともに文明13年(1481)第十四世を継ぐべき経豪が本願寺の蓮如に帰依し、山科西野に興正寺を創建、48坊のうち42坊など有力末寺とともに本願寺に帰参する事態が発生する。佛光寺の寺勢は急激に衰え、代わって本願寺が台頭するところとなる。興正寺は西本願寺の脇門跡であったが、明治9年(1876)第27世本寂の際に独立し、真宗興正派となる。本山興正寺も本願寺派の本山本願寺と隣接した位置にある。
天正14年(1586)豊臣秀吉の都市改造により、佛光寺は寺基を五条坊門の龍臥城に移す。
佛光寺本廟は、文永9年(1272)東山鳥辺野より親鸞の遺骨を移した真宗佛光寺派の御廟所である。
花洛名勝図会には三条通にある粟田焼の窯の煙の上に了恩寺と共に描かれた図会が残されている。
佛光寺本廟の境内には三条小鍛冶宗近古跡の碑が建つ。これは大正6年()に粟田口町の住人が記したものである。実際の三条小宗近の住居は三条通の北側、合槌稲荷附近にあったと言われている。
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