教王護国寺(東寺) その2
真言宗総本山 八幡山 教王護国寺(きょうおうごこくじ) その2 2008年05月18日訪問
東寺の建物を中心に南側から境内を見ていく。
まず九条通に面して建つ南大門は明治28年(1895)に三十三間堂の西門を移築したものであり、重要文化財に指定されている。
南大門から一直線上に配置された伽藍の一つである金堂は国宝に指定されている。東寺の中心をなす堂宇で、諸堂塔のうちもっとも早くから建設が始められている。弘仁14年(823)の空海への下賜の際には、既に完成していたと推定されている。しかし上記のように文明18年(1486)の土一揆で焼失し、その後は100年近く再建されなかった。現在の建物は慶長8年(1603)豊臣秀頼の寄進、片桐且元の普請奉行によって再建されたもの。入母屋造本瓦葺きで、外観からは二層の建築物にも見えるが、一重の裳階が付けられている。建築様式は和様と貫や挿肘木を多用して高い天井を支える大仏様が併用されている。このように構成された内部の広大な空間には、台座と光背を含めた総高10メートルに達する本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。これらの像は金堂再建時に仏師・康正により作成されている。日本の仏教彫刻衰退期である桃山時代において佳作となっている。
重要文化財に指定されている講堂は、金堂の北側に建てられている。講堂は金堂とは異なり、東寺が下賜された弘仁14年(823)にはまだ建立されていなかった。空海により天長2年(825)に着工、承和2年(835)頃完成している。創建当初の金堂と講堂の周囲は回廊が巡らされていたとされている。京都市生涯学習総合センター・京都アスニーに展示されている平安京復元模型(http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/about/institution/honkan/heiannkyou/heiannkyoumokei2.html : リンク先が無くなりました )に見ることができる。 やはり講堂も文明18年(1486)の火災で焼失するが、金堂よりは早く5年後の延徳3年(1491)に最優先で再建されている。これが現存する単層入母屋造で純和様の講堂である。須弥壇中央に大日如来を中心とする五体の如来像(五智如来)、向かって右(東方)には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩)、向かって左(西方)には不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)が安置されている。須弥壇の東西端にはそれぞれ梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には多聞天・持国天・広目天・増長天の四天王像が安置されている。合計21体の彫像が整然と安置され、立体曼荼羅を構成している。空海没後の承和6年(839)に開眼供養が行われ、日本最古の本格的な密教彫像である。全体の構想は空海によるものとされる。
21体の仏像のうち、五仏の全てと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時、平安時代前期を代表する密教彫像として国宝に指定されている。
食堂は講堂の後方、境内の北寄りに建つ。最初の食堂は、空海没後の9世紀末から10世紀初め頃にかけて完成したと推定される。文禄5年(1596)の地震で倒壊、2世紀以上後の寛政12年(1800)にようやく再建工事が始められる。この再建された食堂も昭和5年(1930)12月21日の「終い弘法の日」に失火で焼失している。現在の建物は昭和9年(1934)に完成したものである。
内部に安置されていた旧国宝の本尊千手観音立像と四天王像もこの昭和5年の火災で焼損している。千手観音像は修復され、旧国宝指定解除はなされなかった。しかし四天王像は焼損の程度が大きかったため修復不可能と判断され指定解除されたが、平成5年(1993)から合成樹脂注入による表面の硬化が行われ、現在も再建された食堂に安置されている。
境内の東南に配された国宝の五重塔は、高さ54.8メートルで木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826)空海により、創建着手にはじまるとされているが、実際の創建は空海没後の9世紀末であったと考えられている。その後、雷火や不審火などで4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644)3代将軍・徳川家光の寄進で建てられている。
初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置するが、真言密教の中心尊である大日如来を五重塔の心柱に看たてている。
一列に配置された南大門・金堂・講堂・食堂の諸堂と五重塔以外にも、国宝や重要文化財に指定された建物が建ち並ぶ。
境内の東側には五重塔と庭園の他に、拝観入口の慶賀門の南側の掘割で囲まれた中に重要文化財の宝蔵が建つ。平安後期建立の本瓦葺校倉造の倉庫で、東寺最古の建造物である。
空海が唐の国師・恵果から授かり、国宝となっている密教法具や犍陀穀糸袈裟、両界曼荼羅、仏舎利、五大尊など多くの寺宝を長い間、護ってきた。そのため延焼を避けるため周囲に掘割を巡らしているのであろう。
境内の西側には、北から大日堂、御影堂、毘沙門堂、小子房、蓮花門、灌頂院そして鎮守八幡宮が並ぶ。
大日堂は、江戸時代には御影堂の礼拝所として使われてきた。その後、桓武天皇、嵯峨天皇をはじめ足利尊氏などの位牌を納める尊牌堂となり、さらに大日如来を本尊としたことで大日堂となった。現在は先祖供養などの回向所となっている。
かつて空海が住房としていた境内西北部の「西院」と呼ばれる一画に、住宅風の仏堂として国宝の御影堂が建つ。全体は檜皮葺きとなっているが、前堂、後堂、中門の3部分からなる複合仏堂である。当初の堂は康暦元年(1379)の火災による焼失後、その翌年に後堂部分が再建されている。10年後の明徳元年(1390)弘法大師像を安置するために北側に前堂、その西側に中門が再び増築されている。
御影堂の南側にある毘沙門堂は、羅城門の二階にあった兜跋毘沙門天を安置するために建てられている。京都の都七福神とされている兜跋毘沙門天は現在宝物館に収蔵されている。
小子房は昭和9年(1934)に再建されている。堂本印象の障壁画のある6つの部屋(鷲の間、雛鶏の間、勅使の間、牡丹の間、瓜の間、枇杷の間)で構成されている。小子房の西門は蓮華門と呼ばれ、壬生通りに面して鎌倉時代に再建された八脚門で国宝に指定されている。
灌頂院は境内南西隅に位置する。密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式である伝法灌頂、正月の8日から14日までの間に天皇の安泰を祈願する儀式・後七日御修法などの儀式を執り行うための堂で、内部には仏像は安置されていない。
鎮守八幡宮は南大門を入った左側にある。東寺創建当時、王城鎮護を願って祀った社で、東寺の鎮守神である僧形八幡神像と女神像2体を安置する。薬子の変の際、空海はここで嵯峨天皇勝利の祈祷を行っている。明治元年(1868)に焼失後、1世紀以上を経た平成4年(1992)に再建されている。
東寺の五重塔は京都の景観を構成する重要なシンボルであるが、京都駅の南側に位置するため、今まで訪れることがなかった。原広司氏の設計による京都駅新駅舎が平成9年(1997)に竣工している。日本の駅舎建築として後世に残る名建築であることは間違いないが、高さ60メートルに及ぶ巨大な壁面は京都の中央軸を南北に完全に分割してしまっている。
しかしこの分断は、駅舎竣工以前の東海道新幹線の高架が建設された時から始まっていたとも言える。。この鉄道路がケヴィン・リンチの「都市のイメージ」に出てくるedgeによって、京都の町並みの連続性を中断し、かつての平安京の広がりを想像することを困難にしていることは明白である。
「教王護国寺(東寺) その2」 の地図
教王護国寺(東寺) その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 東寺 北総門 | 34.9841 | 135.7476 |
02 | ▼ 東寺 観智院 | 34.9827 | 135.7479 |
03 | ▼ 東寺 北大門 | 34.982 | 135.7476 |
04 | 東寺 食堂 | 34.9815 | 135.7476 |
05 | ▼ 東寺 講堂 | 34.9807 | 135.7476 |
06 | ▼ 東寺 金堂 | 34.9803 | 135.7476 |
07 | ▼ 東寺 南大門 | 34.9795 | 135.7476 |
08 | ▼ 東寺 五重塔 | 34.9798 | 135.7487 |
09 | ▼ 東寺 宝蔵 | 34.9815 | 135.7488 |
10 | ▼ 東寺 御影堂 | 34.9816 | 135.7467 |
11 | ▼ 東寺 小子房 | 34.9805 | 135.7466 |
12 | ▼ 東寺 潅頂院 | 34.9798 | 135.7466 |
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