文書と写真・地図による「記憶」の再現

東福寺 万寿寺

東福寺 万寿寺(とうふくじ まんじゅじ) 2008年12月22日訪問

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東福寺 万寿寺

 本日は泉涌寺と東福寺の塔頭を中心に廻る。すでに両寺の本坊や主要な塔頭を拝観しているが、塔頭の多い寺院であるため、まだまだ見るべき箇所が多く残されている。
 四条室町のホテルを7時頃にチェックアウトし、京都市営地下鉄烏丸線で京都駅に向かう。荷物をコインロッカーに入れ、徒歩で東福寺を目指す。現在では京都府道115号線と呼ばれる竹田街道は、京都駅の建設によって分断された東洞院通の南側部分である。この道を南に下り、大石橋の交差点で東に折れ九条通を進む。九条通は鴨川を越えるために陸橋となり東大路通と合流する。この陸橋を上らず、既に何回も歩いた道であるJR奈良線と京阪電鉄の踏切を渡り、伏見街道に入る。そして陸橋の北側の側道を登ると、目の前に東福寺の塔頭 万寿寺が現れる。

 万寿寺の起源は平安時代の後期、白河上皇が六条内裏に建てた六条御堂に遡る。
 白河天皇と中宮賢子との間に、承保3年(1076)第1皇女・媞子内親王が生まれている。母に似て非常に美しかったといわれ、白河天皇の寵愛を一身に受けた。中御門右大臣藤原宗忠が寛治元年(1087)から保延4年(1138)までを綴った日記・中右記によれば、媞子内親王は「身体美麗、風容甚盛、性もとより寛仁、接心好施」とある。容姿麗しく優美であり、施しを好む寛容な心優しい女性であったという。
 承暦2年(1078)准三宮。同年に3歳で斎宮に卜定され、大膳職へ初斎院入りしている。同3年(1079)着袴、野宮へ移り、さらに同4年(1080)伊勢に下向している。応徳元年(1084)母后賢子が崩御したことにより、斎宮を6年で退下し帰京する。 父の白河天皇は応徳3年(1086)に退位し、弟の堀河天皇に譲位している。内親王は寛治元年(1087)堀河天皇准母として入内する。そして寛治5年(1091)中宮に冊立、寛治7年(1093)女院となり、郁芳門院と称する。天皇の同母姉妹で非配偶の后は前代未聞であり、廷臣たちの反感を買ったといわれている。永長元年(1096)病を得て享年21で崩御する。
 郁芳門院の死を悲しんだ白河上皇は2日後に出家したとされている。そして永長2年(1097)菩提のために、六条殿に御堂を建て、これが万寿寺の起源となる六条御堂である。

 財団法人京都市埋蔵文化財研究所が行った現地説明会の配布資料の中に、平安京左京六条四坊三町(旧万寿禅寺)跡現地説明会資料がある。この中で六条殿の位置を下記のように同定している。
     六条内裏は東西一町、南北二町の敷地を占め、東側に高倉小路、西側に東洞院大路、北側に六条坊門小路、南側に六条大路が通っていました。

 六条御堂は康和元年(1099)、保安4年(1123)、平治元年(1159)に焼失しているが、その都度再建されている。鎌倉時代には法然の弟子である湛空が住していたことから、天台系の浄土教の寺院であったと推測される。正嘉年代(1257 ~ 1259)に入り、湛空から御堂を受け継いだ十地上人(覚空)とその弟子の慈一上人(宝覚禅師)が東福寺の開山である円爾禅師に帰依したことから、浄土教から臨済宗に転じている。そして寺号も六条御堂から万寿禅寺に改められ、弘長元年(1261)に開堂の儀が行われている。
 その後、文永10年(1273)に火災に遭い、元徳2年(1330)には後宇多院皇女の崇明門院から土地を賜って、六条の旧地のやや北方、高倉通の西、樋口小路の南の地点に移転した。そのため付近には下京区万寿寺町、万寿寺中之町の町名が残っている。寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会の万寿寺の記述によると、
     宝覚禅師を開山として樋口富小路にあり

となっている。樋口富小路とは樋口小路と富小路の交差点であり、樋口小路は現在の万寿寺通である。都林泉名勝図会の記述は文永の火災以降のものであることが分かる。

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東福寺 万寿寺 鐘楼を持った山門

 暦応年間(1338~1341)、万寿禅寺は十刹の第四位に列せられていたが、延文3年(1358)第2代将軍足利義詮が五山制を京都と鎌倉のそれぞれに五山を置くように改訂した際、万寿寺が京都五山の第五位に加えられている。
永享6年(1434)の大火で類焼し、永享9年(1437)大殿、山門、方丈などが再建されるが、天正19年(1591)東福寺北側にある天台宗寺院・三聖寺の隣地に移転してくる。
 阪口貢氏の日本建築学会論文「三聖寺の伽藍について」によると、三聖寺は弘長元年(1261)頃、十地覚空の弟子で円爾禅師に帰依した宝覚禅師が開山として建立された寺院としている。これは六条御堂から万寿禅寺に改められた時期と同一する。万寿寺がこの地に移転してきたのも三聖寺の開山が万寿寺の開山の法嗣であったとも考えられる。
 鎌倉時代には大伽藍を持つ有力寺院であった三聖寺も次第に衰微し、明治6年(1873)に万寿寺に合併される。そして明治19年(1886)に今度は万寿寺が東福寺の塔頭となる。明治14年(1881)に東福寺の仏殿が焼失した際、万寿寺にあった釈迦三尊像を東福寺に移して新しい本尊としている。これが現在東福寺の本堂に安置される本尊釈迦三尊像で、元来は三聖寺に安置されていたものである。このほか、東福寺境内にある愛染堂と仁王門、万寿寺入口にある鐘楼ももとは三聖寺の建物であった。昭和10年(1935)には京都市電と東山通、九条通の開通により境内が分断され、万寿寺は東福寺の飛び地のような位置に置かれることとなっている。

 万寿寺は非公開寺院であるため、鐘楼を上層に載せた山門から境内を伺うだけとなった。

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