祇王寺
真言宗大覚寺派 高松山 往生院祇王寺(ぎおうじ) 2008年12月21日訪問
厭離庵から愛宕街道に戻り、二尊院の前を北に向かって進む。嵯峨二尊院門前往生院町の角に建つ、愛宕道 祇王寺、三宅安兵衛遺志の祇王寺・久保田米僊・金子静枝墓、新田公首塚碑道、檀林寺門跡の4本の道標に従い、西に折れる。小倉山の斜面を少しづつ上っていくと、右手に檀林寺、正面に滝口寺と祇王寺が現れる。この3つの寺院を本日最後に拝観する予定であったが、スケジュールの大幅な遅れから一箇所のみの拝観となってしまった。既に大覚寺に拝観した際、大覚寺と祇王寺の共通拝観券を購入したので、必然的に祇王寺に決まった。
先の道標のあった角の地名が、嵯峨二尊院門前往生院町であったように、この地には往生院が存在していた。安永9年(1780)に刊行された都名所図会に掲載されている祇王寺にも下記のように記述されている。
妓王寺は浄土宗にして往生院となづく、いにしへは西の山上にあり、後世今の地にうつす。本尊は阿弥陀仏にして、脇士は観音勢至なり。
この往生院は、浄土宗の開祖である法然の弟子・念仏房良鎮が開創している。良鎮の生没不詳とする記述が多い。明和8年(1771)祇王寺境内に建立された祇王祇女仏刀自旧跡の碑についての京都フィールド・ミュージアムの説明文では、下記のように記されている。
往生院は、良鎮(?~1182)が融通念仏布教のために再興したと伝える寺であり、一時荒廃していたが江戸時代に祇王寺として復興した。
どのような資料から導き出したかは分からないが、往生院の開創あるいは再興は、この寿永元年(1182)より以前のことと考えられる。この寿永元年を浄土宗の公式HPに掲載されている法然上人の略歴と比較すると、西塔黒谷を出て西山広谷に移り、東山大谷に住する承安5年(1175)と大原談義が行われた文治2年(1186)の間に位置することが分かる。この時期に、小倉山の山麓で祇王寺の上方に往生院が存在していたこととなる。
現在の祇王寺は平家物語に登場する白拍子姉妹・祇王と祇女ゆかりの寺として知られている。平家物語巻第一の6番目に祇王という有名な章がある。およそ次のような話となっている。
平安時代の末、白拍子の祇王は時の権力者であった平清盛に寵愛されていた。その頃、加賀国生まれの16歳の仏という白拍子が都の評判をさらっていた。仏は自らの舞を売り込むために清盛の屋敷を直接訪れた。清盛は祇王以上の白拍子はいないと言い追い返そうとした。祇王は自分の境遇に近い仏を思いやり、清盛に面会の取り成しをした。仏の披露した今様の素晴らしさに感心した清盛は、さらに舞も所望した。仏は祇王を思い、清盛の申し出を断り退出しようとする。機嫌を悪くした清盛は祇王に暇を出し、仏を我が物とした。
失意の祇王は3年間住み慣れた清盛の屋敷を出て、母の刀自、妹の祇女の住む屋敷に移った。ほどなくして、清盛からの使者が訪れ、寂しくしている仏を慰めるために屋敷を訪ねるように催促するようになった。再三の催促に祇王は返事を返さないでいたが、母の強い説得により祇女と二人の白拍子とともに清盛の屋敷に参上した。かつて自分の座っていた場所には、今や仏御前の姿がある。これを見た祇王は悔し涙に濡れた。清盛からの所望に従い、自らと仏御前の運命を謡った。屋敷にいた平家一門の公卿、殿上人、諸太夫から侍に至るまで祇王の謡に涙した。
母の待つ家に戻った祇王は祇女と刀自とともに髪を下ろし、嵯峨の山寺に入った。この時、祇王は21、祇女19であった。親子三人南無阿弥陀仏と念仏を唱える日々を重ねていった。ある秋の黄昏どきも過ぎた頃、庵の網戸を叩く音が合った。こんな頃に訪ねる者は魔物に違いないと思い、恐る恐る戸を開けると、目の前に仏御前の姿があった。仏御前は今までの所業を詫び、儚い栄華を捨て同じく極楽浄土への旅立ちを望んだ。仏御前は編み笠を脱ぐと、その下にはあの美しかった緑の黒髪は既になかった。涙ながらに許しを請う仏御前を受け入れた祇王は、その後四人で朝夕に念仏を唱えることとなった。
かつて治承物語と呼ばれていたように、平家物語は治承・寿永の乱を中心に描かれた年代記的な物語、あるいは軍記物だった。古い平家物語には、この祇王の章がないものもあるため、後の時代に加筆されたとも考えられている。恐らく平家物語が世に普及していく過程で、歴史物語に仏教思想が盛り込まれ、さらに叙情性が加わり情緒的な物語に仕上っていったのであろう。
祇王は平家の家人・江部九郎時久の娘として、平安時代末の近江国祇王村(現在の滋賀県野洲市)に生まれたとされている。旱魃で苦しむ故郷の村人を救うために、生まれ故郷の野洲に水路を作るよう清盛に働きかけたとされている。その水路は祇王井川と呼ばれ現在も存在している。
先の祇王祇女仏刀自旧跡の碑には
性如禅尼 承安二年壬辰八月十五日寂
とある。性如禅尼を祇王とすると承安2年(1172)8月15日に亡くなったこととなる。法然が東山大谷に住する承安5年(1175)、往生院の開創者と考えられている良鎮の亡くなった寿永元年(1182)やさらに平清盛の亡くなる治承5年(1181)よりも以前の出来事である。これらの出来事の前後関係に疑問点が残るが、ほぼ同じ時期の出来事であったことにも驚かされる。
次に何時の時点から祇王寺という名称が出てきたかについてである。先の祇王祇女仏刀自旧跡の碑が建立されたのは、江戸時代中期の明和8年(1771)である。安永9年(1780)に刊行された都名所図会に掲載されている往生院の図絵には往生院には祇王寺、往生院の子院である三寶院にも滝口寺と記されている。すでにこの時期には、祇王寺と滝口寺になっていたことが分かる。 中村武生氏は、歴史と地理な日々(新版)に掲載した2010年12月28日のブログで、祇王寺の参道にある「往生院きおうし」という標石の銘から、江戸時代前期の貞享4年(1687)には祇王寺と呼ばれていたことを指摘している。
平安時代後期に良鎮によって開創された往生院は、数多くの坊が建ち並び栄えた。やがて寺勢が衰え荒廃が始まると、往生院とその子院の三寶院のみを残すようになった。その後、江戸時代初期の貞享4年(1687)には祇王寺と呼ばれるようになり、明和8年(1771)には法専尼によって祇王600年忌が行われ、記念碑が建立されている。この時期には往生院というよりは平家物語の祇王を偲ぶ寺院となっていたのであろう。そして安永9年(1780)都名所図会に図会として描かれ、一度は姿を留めるが、また明治初年の廃仏毀釈で廃寺となり、本尊や木像も大覚寺に移されている。
山口敬太氏による「嵯峨野の名所再興にみる景観資産の創造と継承に関する研究 -祇王寺、落柿舎、厭離庵の再興事例を通して-」によると、明治28年(1895)祇王寺再興に携わったのは、嵯峨の有志である井上与一郎、小松喜平治、小林吉明らと当時の村長の野路井孝治そして大覚寺門跡楠玉諦師であった。既に京都府知事を退任し北海道庁長官に就任していた北垣国道によって、嵯峨に保有していた別荘の茶室が寄付された。そして滋賀県野洲郡祇王村の村人は、かつて祇王によってもたらされた水利の恩恵に報いるため「清雅古撲なる草庵」を結んだとされている。そして明治35年(1902)に大覚寺の末寺となっている。そのため現在の祇王寺は真言宗大覚寺派となり、共通券で拝観できるようになっている。また本堂は、文人画家の富岡鉄斎などの尽力によりに建立されている。
檀林寺の瓦葺の山門を越えてさらに坂道を登っていくと、茅葺屋根を頂く小さな山門が見える。門の先には緑の濃い苔の庭と茅葺屋根の堂宇が見える。既に冬の日も沈み、祇王寺の狭い境内には拝観者の姿がいない。以前訪れた時は、強い陽の差す庭に多くの人がいたように記憶している。この日の祇王寺は平家物語の世界を表現するように静かであった。辺りが明るさを失うと庭の苔の青さが一層増すようにも見える。
本堂の南側には清盛の供養塔と言われる五輪塔と祇王、祇女、刀自の墓とされる宝筐印塔が並ぶ。都名所図会には3つの塔と共に平清盛塔 祇王祇女・仏刀自塔と記されている。どうも再興された際に昔の形とは少し異なってしまったのかもしれない。
この記事へのコメントはありません。