文書と写真・地図による「記憶」の再現

高台寺 圓徳院 その2

高台寺 圓徳院(えんとくいん)その2 2009年11月29日訪問

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圓徳院 北書院北庭

 高台寺 圓徳院では、圓徳院が建立されるまでの歴史を高台院とそれを取り巻く木下家の人々を中心に記してきた。この項では圓徳院庭園を中心に書いていきたい。
 碓井小三郎が大正4年(1915)に纏めた「京都坊目誌」(新修京都叢書刊行会 光彩社 1969年刊)では、「庭園は今に存す。所謂石庭式なり。空池に石橋を架し奇石を安徘す。傅て小堀政一の作と云ふ。手水鉢あり檜垣と名く世に著名なり。」と記されているのに対して、重森三玲・完途共著による「日本庭園史大系 9 桃山の庭二」(社会思想社 1972年刊)では、その可能性の低いことを指摘している。つまり高台寺の造営と共に慶長10年(1605)に、この庭が新築されたならば、小堀政一が手がけた可能性もあるが、伏見城より化粧殿とともに庭石も運んできたならば、政一の作と考えることが難しい。重森完途氏(文末にKとあるので庭園の記述は完途が担当したのであろう)は伏見の庭師であった庭者仙、あるいは河原者與四郎兄弟か賢庭あたりを推定している。
 その上で、伏見城の作庭者である賢庭が最有力であり、その庭を移したであれば、再び賢庭に依頼がきたのではないかと考えている。この庭には、中央の山畔に二箇所の三尊石組、西部と西部護岸に近い箇所にも三尊石組を配している。このように三尊石組を一つの庭の中に多用する意匠は、醍醐寺三宝院南禅寺金地院に見られるが、これらは賢庭が携わっているため、その名を上げ得ると判断したようだ。更には三尊石組の手法に、賢庭が得意とした不等辺三角形を使用していることも、その根拠となっている。いずれにしても、作庭者が文献に残されていないため推測の域を超えることはないが、化粧殿が移建されてから2ないし3年以内には、この庭も完成していたと考えられる。

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圓徳院 北書院北庭

 圓徳院北庭園は書院の北から東側にかけて築かれており、その面積は約210坪程度である。これはこの地に庭が移建された当初より、やや狭くなっているようだ。すなわち寛政元年(1789)に小方丈が焼失し、同7年(1795)再建された折に枯池部分が改められたと考えられている。枯池はかつて水を溜めていたかのような深さに作られている。これは名古屋城二ノ丸、三ノ丸庭園や二条城庭園のような池泉形式の意匠を踏襲しながら枯山水の庭園となっている。このあたりの意匠と表現に重森完途氏は桃山時代の庭園の特色を見出している。 この庭は禅宗寺院の庭ではなく、もともと木下家の住宅庭園であった。そのため蓬莱の回遊鑑賞庭園の様式で作庭され、禅院の枯山水の持つ厳しさなどを見ることはできない。庭園の構成は北部から東部にかけて作られた琵琶形の枯池を中心に、鶴亀二島を配置し、巨石の石橋を架ける桃山末期の様式を強く示している。庭園の中心部は東北隅の築山であり、ここに枯滝石組みを配している。三尊石組を不等辺三角形状に數群展開させるなど豪華な表現となっている。

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圓徳院 北書院北庭 鶴島
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圓徳院 北書院北庭 中央の枯滝石組

 枯滝石組の一番奥には約四尺二寸(126センチ)の立石を用い、その前の傾斜地に約五尺三寸(159センチ)を置き、上段の滝口の役を果たしている。その前方には約三尺七寸(110センチ)前後の石を三個用い、下段の滝口を重厚に仕上げている。さらにその左右に滝添石を配するなど桃山時代の庭園の豪壮さを体現している。また枯滝石組の前には実際の水を落とす際に用いる水分石を置いているのも、水を用いた池泉のような意匠を枯山水で表現している一例として重森完途氏は指摘している。
 ただし圓徳院のある地は東山から流れ出る菊渓川の流路に当たり、地名の下河原も菊渓川の河原地であることから名付けられている。現在では治水が行き届き河川の姿を見ることもできないが、高台寺の境内の北側から圓徳院の東に位置する高台寺塔頭の岡林院の境内には、流路が残されているようだ。そのようなことから考えると、圓徳院は水の便が良くないので池泉庭園ではなく枯山水庭園にしたとは一概に言えないようにも思える。サイフォンの原理を使用すれば築山から水を落とすことも可能ではないだろうか?

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圓徳院 北書院北庭 第一の橋と鶴島
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圓徳院 北書院北庭 第一の橋

 枯滝石組の右側には、約五尺二寸(156センチ)の中央石を中心とした集団石組がある。この南側にある約六尺三寸(189センチ)の石を中尊とした三尊石組は西を向き、池中の亀島と相対している。池中の鶴亀島は向かって左が鶴島で、右は亀島となっている。鶴島には約三尺(90センチ)の中央石を立て、西南部に約四尺三寸(129センチ)東部には約四尺七寸(141センチ)の立石を配し、書院寄りの方に重点を置いて構成されている。亀島の亀頭石は鶴島の方に向けられている。鶴島の西南部には3個の石を組み合わせた岩島がある。

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圓徳院 北書院北庭 鶴島と第二の橋
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圓徳院 北書院北庭 第二の橋

 西部から鶴島に直線状に架けた自然石のもの、鶴島から亀島へ南東方向に架けた自然石の橋と亀島から対岸へやはり南東方向に架けた切石橋の三橋が、「く」の字型に架けられたところに桃山様式を見て取れる。第一の橋には長さ約九尺(270センチ)幅三尺七寸(111センチ)厚さ一尺四寸(42センチ)の巨石が用いられている。この厚さの石橋は桃山時代末の特徴を示している。室町時代末期から桃山時代初期にかけての薄い板石状の石橋は、次第に厚くなってゆく。そして天正(1573~92)から慶長(1596~1615)にかけて石厚は極限となり、また江戸時代初期には薄くなっていく。圓徳院の庭が築かれたと考えられている慶長12年(1607)頃は、まさに桃山時代の様式が極限となった時代であった。西に二石、東の一石の橋添石を用い、このような巨石を枯池面より三尺二寸五分(98センチ)の高さに架けている。単に石の大きさだけでなく、架構自体もこの庭の豪壮な印象を形成していることが分かる。
 鶴島と亀島に架けられた第二の橋には、長さ約十尺(300センチ)幅四尺(120センチ)厚さ一尺八寸(54センチ)と、さらに大きな石を使用している。注目すべき点はこの石は二つに折れている点であろう。天龍寺庭園にも見られる表現方法でもある。すなわち完全な石橋にわざと割れ目を入れ、不完全なものとすることで、完全なものにあるバランスの取れた美にはない力強さを持ち込んでいる。
 第三の橋は自然石ではなく切石を使用している。3つの橋が同じ形式で造られる必然性はないようだ。本派本願寺庭園(西本願寺書院庭園)でも三橋の内の二橋を大面取の切石橋にし、残りの橋に自然石を用いた例がある。ただし重森完途氏は、この現存する橋は江戸中期以降の後補であり、元は大面取の緩やかな曲線を画いた切石橋であり、さらに第四の橋が存在していた可能性を推測している。

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圓徳院 北書院北庭 亀島と第三の橋

 書院北側には檜垣の手水鉢と呼ばれる珍しい手水鉢が置かれている。これは檜垣の塔すなわち三重石塔の笠の部分を用いて手水鉢にしたものと謂われている。重森氏は檜垣の塔の笠はではなく、宝塔の笠であり、それを横に立て中央部を削り込んで長方形の水穴を作りだしている。横幅三尺二寸(96センチ)厚さ一尺(30センチ)高さ一尺四寸(42センチ)の大きさの手水鉢となっている。作者不明であるが独創性にあふれた作品でもある。笠の軒の反りから室町時代頃の宝塔を利用したと思われるが、この様式の手水鉢の本歌となっている。

 この庭園に使用されている石材は殆どが山石系統のものであるが、京都は勿論として各地からの石が使われている。この石材の産出地からも、圓徳院庭園が伏見城中から移されたと謂うことを実証している。また、伏見城の作庭に際しては豊臣秀吉がその権勢を使い、日本全国から名石を運ばせたことが想像される。
 繰り返しになるが、この庭は木下利房が自らの住宅の書院の庭として作ったものであり、決して禅院のために作庭したものではない。そのため枯山水様式を取りながらも、峻嶮さを感じることはない。むしろ豪壮な構成の中に暖かさや親しみやすさをも感じる。もとの伏見城中でも書院の庭として作られたからであろう。

 重森氏は枯滝石組、三尊石組、橋石組と橋の配置そして全体の地割が桃山様式を見事に現わしているのと同時に、これらの各局部が有機的に結びつき一つの庭園となっている点に注目している。そして現代にも多くの示唆を与える桃山芸術の見事さを称賛している。
 圓徳院庭園の評価については、全く重森氏の指摘の通りだと思う。しかし最初にこの庭を目にした時に感じたことは、それとは少し異なっていた。
 例えば同じような巨石を用いた天龍寺の塔頭 宝厳院庭園では庭園を鑑賞するというよりは、奇異な自然を体験するアスレチックフィールドという感覚に陥った。これは宝厳院の庭園が回遊式庭園であり、間近で人と庭石の大きさの比較を強いられたためであったのだろう。恐らく宝厳院庭園の作庭者の狙いはそこにあったのであろう。 しかしこの圓徳院では庭石の大きさに驚かされたものの、見ている対象が庭園で無くなるような感覚にはならなかった。恐らく現在の公開方法が書院からの拝観に限っていたためであろう。これにより庭園の全体像を最初に理解することができた。そしてこの庭園が古典的な様式によって構成されていることを確認できた点が宝厳院庭園との違いとなっている。たまたま今回訪問した時には、夜間公開の準備のための庭師が入っていた。庭師との比較により石組の大きさが、初めて実感することができた。書院から眺めた時に感じた庭石の大きさより、一回りから二回り大きな石を用いていたことが分かった。

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圓徳院 北書院北庭
庭師との比較で橋石の大きさが分かる

 それでも200坪程度の庭園の広さと石組の大きさ、あるいは構成自体にアンバランスな感覚を抱いた。恐らく伏見城中にあった際には、もう少し庭自体が広かったのではないか?その方がこの庭の良さを引き出せたのではないかとも考えた。少なくとも庭を取り囲む建築の規模は全く異なっていただろう。例えば先にもあげた本派本願寺庭園や二条城二ノ丸庭園はその建築との比較で観賞している。もともとスケールの大きな空間に合わせて設計された庭を、例えば住宅レベルに持ち込むことは行ってはいけないという観念が自然に働いてしまう。それを実験的に行ったものが圓徳院庭園であり、常識や予想に反して成功を収めたのがこの目の前の姿であったと思う。

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圓徳院 北書院北庭

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