松尾大社 曲水の庭 その2
松尾大社 曲水の庭(まつおたいしゃ きょくすいのにわ)その2 2009年12月9日訪問
松尾大社 曲水の庭では、この庭が完成するまでの時間的な流れを記し、いかに重森三玲が短時間の内に庭を創り上げて行ったかを明らかにした。また中国の風習である曲水の宴が日本に伝わった時期を考えることで、三玲がこの庭に託した歴史的な想いについても記してみた。 曲水の庭の設計図は、もちろん「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」(社会思想社 1976年刊)に掲載されている。しかし「松尾大社造園誌」(松尾大社社務所 1975年刊)には設計図とともに施工以前の庭の様子や施工中の写真が残され、この庭がどのように造られていったかが良く分かる資料となっている。この項では具体的に庭を構成するものについて詳しく見て行きたい。
既に何度も触れてきたが松尾大社の庭は、松尾山の裾野に作られたものである。そのために西側が高く、東に向って下る土地に作られた庭である。上古の庭では、この土地の特質を活かし、丹波笹の生茂る山中の風景を作り出すことに成功している。現在の上古の庭は重森三玲の意図通り松尾山と完全に一体化している。 もうひとつの特徴は人工的に水を導いたのではなく、酒造りの上でも由緒ある水がこの土地に流れ込んでいる点である。山中に発した御手洗川は霊亀の滝を落ち儀式殿の横を経て、この敷地に注ぎ込んで入る。曲水の庭が作庭される以前にあった社務所西庭の写真にも見ることができる。当時は直線的に庭を横切っていったようだ。恐らく、それより昔からの御手洗川の流路の上に、明治以降になって庭を作ったのであろう。現在でも亀の井のあたりで見られるような、川の両側に石垣を積んだ形状が古い写真にも写っている。以前の庭は、この御手洗川の東側に築山を作り松を植えたようだ。そして社務所の北側に離れのように建てられた休憩所の前を通り一之井川に注ぎ込んでいる。
曲水の庭は、この土地が持つ2つの特徴を活かして造られている。儀式殿横の流入場所と休憩所前の流出場所は昔の流路から大きく変えてないように思われる。この間の高低差は50センチメートルもないように感じられる。その間を6回折り曲げ、四重の流れにしている。
この流れのほぼ中央部分と北よりの2ヶ所に自然石による橋を架けている。北よりの石橋は上古の庭へ行くために設けられた実用の橋である。すなわち社務所から儀式殿へと繋ぐ回廊の下を潜った拝観者は、曲水の庭の流れを眺めながら渡り廊下に沿って社務所側に進む。そして北側の宝物殿への渡り廊下を潜るために石橋を渡ることとなる。拝観者にとっては優美な水の流れを鑑賞するものの、その流れを渡ることができるのは最後の一回のみということだ。そういう意味でもこれは体験する庭ではなく、鑑賞するための庭である。拝観者のための通路はL字型に作られているが、儀式殿の回廊から宝物殿そして社務所との間に作られた渡廊下から鑑賞されることを考慮した庭園構成になっている。すなわち四周から、それも異なった高さから眺められても美しく見るように作られた庭でもある。
もうひとつの橋は社務所の中央から架けられている。この橋を渡ると川の西側の屈曲部に行くことができる。恐らくこの庭で行われる行事を運営するために必要な橋なのではないだろうか。流れの底部には砂利を敷き詰め景としての石を処々に配している。橋を渡った流れの西側は大和絵に出てくるような柔らかな築山が2つ設けられ、サツキとツツジによる刈込みが施されている。築山刈込に蓬莱石を始めとした幾十もの石が山頂から山裾にかけて組まれ、山並みの柔らかさと流れの優美さに傾かないような強さと緊張感を生み出している。また動的な水の流れに呼応するように、静的な山容に動きを与えているともいえる。これらは自然景観の模倣ではなく、現代的な動的表現の手法として用いられたと考えても良いだろう。
曲水の屈曲した岬の部分には青石の小片が鱗の様に敷き詰められている。さらに岬は丸味を帯びるように形成されている。冷たい感じを与える尖った青石をモルタルで固めているにもかかわらず、丸い小石を敷き詰めた州浜のような温かみを感じさせる。経済的であり、維持管理も容易な現代的な表現方法だと思う。これに対して渡廊下から社務所縁側の近くにかけては、赤味を帯びた丹波石による平面的な切石敷としている。先の青石とは異なったテクスチャアと色彩を持つため、2種類の石の張り分けだけで入江のような絵画的な表現を可能にしている。三玲の設計図を見ると白砂と書かれているが、社務所や渡廊下からの眺めるだけの庭でないため、拝観者の通路や雨垂れを受ける軒下部分には、このような施工が必要になったのではないかと推測する。
上記のように事前に作成された設計図と実際の曲水の庭を比較すると、異なった点がいくつか現れてくる。2つの築山を南北に配する所までは設計図通り施工しているが、築山に組まれた石組の量はかなり増やしている。特に設計図では北側の築山には石組みが施されていないのに対して、その頂部には巨大なそして象徴的な三尊石が配されている。また南の山の三尊石は描かれているが、頂部に置かれた独立石の存在はない。須弥山を表現しているのだろうか?
これらは施工を行いながら決めたことなのであろう。恐らく、これらの石組なしでは、曲水の流れ、丸味を帯びた岬の数や長さ、そして築山の刈込などから柔らかい静的な庭になったのではないだろうか?それを補正するために行われた変更と考える。
三尊石は重森三玲の作品によく現れる表現方法である。また複数の三尊石を一つの庭の中に取り入れることも、例えば東福寺塔頭光明院など、ごく初期の作品から行われている表現方法でもある。最晩年の作品だけに、ここでは集大成のようにも見えてくる。
曲水の流れは、浅く爽やかに、そして速からず遅からずに調整しなければならない。先ず、この庭に入ってくる水の量を管理しないといけない。水量が多すぎると躍動感は感じられるものの、雅びさは失われる。あくまでも水底が見えなければならない。しかし水の流れが余りにも少ないと動きが感じられず、静水のように感じるだろう。そして曲水の宴を行うための庭であるならば、当然のことではあるが杯が流れる深さは確保しなければいけない。
速からず遅からずは、この庭に入ってくる水の速度と庭内の勾配に関わってくる。庭に流入する水の速度管理は、拝観者の目に触れない所で行うことができるので比較的容易であろう。むしろ庭内の流れの速度管理は、最初に作庭した時の高低差と流れの総延長距離によって決まってくる。つまり何回折り返すかは庭の平面構成だけでなく水の流れも検討して決めなければならいことである。そして庭が完成してしまうと後で調整することが難しいことでもある。
なお設計図には築山の下に暗渠を通していることや、以前の庭の形状が記されている。暗渠は大雨などが降り御手洗川の流量が急激に増加した場合でも、曲水の庭に流れ込む水の量を管理し、庭の破壊を防ぐ上で必要な装置でもある。
「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」では、曲水と遣水の違いに触れている。もともと遣水は池泉に流れ込むように使うものである。それに対して曲水の方は、池泉に流れ込むものもあるが、流れ方に重きが置かれている。すなわち曲水の宴が行われるような意匠となっていなければ曲水にはならない。そのため遣水よりも制約が多いともいえる。
写真では分かり難いが、曲水の庭から上古の庭に移る時に、曲水の流れの最後が一瞬見える。拝観者は上古の庭に一歩踏み入ると直ぐに磐座と磐境と対座しなければならない。すでに曲水の庭の水の流れが、どうなったかなど気にしていられないだろう。実際に渡廊下を越えて所からは水の存在は無くなっている。そのような気持ちの切り替えのために、三玲は水の流れを渡廊下の部分でさり気無く消し去っている。実際には休憩所の西面に水を流し北側の一之井川に合流させているが、それを拝観者に気が付かせないように行っているだけである。
曲水の庭に使用されている庭石は上古の庭と同様の緑泥片岩で、曲水の底部は青砂、敷石は丹波石と鳴戸石。植栽はサツキとツツジの刈込みのみを用いている。植物の多様性で華やかに見せる意図は、この庭には無い。
先にも触れたように儀式殿と宝物殿の間の庭は、即興の庭と名付けられている。この庭は昭和49年(1974)9月23日と翌24日の二日間で完成している。鞍馬赤砂と白川砂をモルタルで直線的に敷き分けるなど、重森三玲が良く用いる手法が見られる。三玲らしい庭ではあるものの上古の庭と曲水の庭と比較して見ると、当たり前な感じがする。すなわちここでは新しい試みを行っていないように感じるからであろう。とは言っても、そのまま余白として残して置く訳にもいかないので、とりあえず埋めたということだろうか?ちなみに上記の「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」に掲載されている設計図には空白のままとなっている。
なお奥に見える竹垣のデザインは重森完途によることが、上記の日本庭園史大系に記されている。
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