文書と写真・地図による「記憶」の再現

新三本木の町並み

新三本木の町並み(しんさんぼんぎのまちなみ) 2009年12月10日訪問

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新三本木の町並み 細い東三本木通

 「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)によると、元禄4年(1691)京大絵図には「あきやしき」「三人衆」と記され、現在の三本木町には町名らしきものはなかったようだ。宝永5年(1708)3月8日に発生した火災、つまり油小路通三条上ルの銭屋市兵衛宅より出火した宝永の大火によって、禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が炎上、九条家・鷹司家をはじめとする公家の邸宅、寺院・町屋などを悉く焼失している。この大火後の市街地整備に伴った御所拡張も行われ、三本木1丁目から3丁目までの人家を鴨川西岸の現在地に移して開町している。つまり、宝永の大火以降に東西は東洞院通から烏丸通にかけて、南北は丸太町通から下長者町通までが、新たな御所と公家町に編入されている。現在でも東洞院通丸太町下るに三本木町そしてその先に三本木五丁目が存在している。1丁目から4丁目までが無くいきなり5丁目と不思議な町名表示となっている。碓井小三郎著の「京都坊目誌」(「京都叢書 第15巻 京都坊目誌 上京 坤」(光彩社 1969年刊行))の三本木五丁目の条で以下のように記している。

東洞院通出水下る所を上三本木町と云ひ。一丁目と呼ぶ。下立売下るを二丁目と呼び。椹木町下るを三丁目と唱へ。丸太町下るを四丁目と云ひ。当町に至り五丁目となる。

 すなわち丸太町通以北、現在の京都御苑内の白雲神社の南側から宗像神社そして閑院宮邸までが旧三本木一丁目から三丁目にあたるようだ。そして現在の三本木町が四丁目、そして三本木五丁目、さらにその南の壷町が三本木六丁目とよばれていたようだ。現在の壷町に変わったのは慶安年間(1648~51)頃と「京都坊目誌」には記述されている。また東洞院通より東側はすでに寛文9年(1669)に皇宮地に編入されている。

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新三本木の町並み
丸太町通から入るとすぐに道は左右に分かれる 左は西三本木通、右は東三本木通

 徳川幕府第5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院は宝永の大火より少し前の宝永2年(1705)に亡くなっている。ここに出てくる松平伯耆守とは、松平資俊のことと思われる。常陸国笠間藩初代藩主となった本庄宗資の異父姉が桂昌院であり、宗資の次男の資俊が元禄12年(1699)に家督を継いでいる。そして宝永2年(1705)桂昌院が亡くなる直前、資俊は徳川綱吉より松平姓を与えられ、豊後守、伯耆守へと遷任する。取り立てて功績も無いのに異例の出世を遂げたのは、桂昌院とその縁者による引き立てがあったためとされている。資俊が享保8年(1723)に死去すると、養子の資訓が本庄松平家を継いでいる。さらに資訓の子の資昌の代に丹後宮津藩主となる。松平資俊の嫡子宗彌、そしてその子の資順の2代が比較的早くに亡くなり、資訓を養子として迎えたため、本庄宗資の系統は途絶えている。

 また「焼豆腐屋数之事」に「新三本木之内旅籠屋弐軒有之」と旅館もあったことが分かる。鎌田道隆氏の論文「近世都市における都市開発-宝永五年京都大火後の新地形成をめぐって-」(奈良史学14号 1996年刊)によると、元禄5年(1692)や宝永5年(1708)の大火により多くの寺院が寺町を去ったことから、江戸時代中期には寺町の解体がかなり進んだとしている。そしてこの論文中には、大火後の5月には新河原町筋すなわち先斗町および西石垣、土手町筋、新三本木などで営業していた旅籠屋および豆腐茶屋の停止が命じられたとしている。特に土手町筋、新三本木は新開地として召上げられた土地であったため、このような遊興客のための宿や酒食を提供する店が増加することに対する歯止めを行ったとも考えられる。いずれにしても鴨川河畔が遊興地としての条件が良かったため、これらの大火を契機として、現在のように旅籠屋、茶屋、煮売屋、料理屋などの開業が進んだのであろう。そしてこれらはやがて遊里化へとつながって行く。 寛政5年(1793)に秋月離島が著した「都花月名所」(「京都叢書 第2巻 扶桑京華志 日次紀事 山城名所寺社物語 都花月名所」(光彩社 1967年刊行))では、賞月(つきみ)という条で指月、渡月橋、雙岡などともに三本木を上げ下記のように記している。

賀茂川の西岸二條の北四町計にあり又新河原町これも鴨川の西岸也 三條の南也俗にぽんと町といふ
何れもひがし山の月を賞して洛下遊宴の地也

 天保13年(1842)8月、島原以外の遊里を禁じているが、その際、祇園・二条・北野・七条は事実上私娼を認めている。しかし三本木の名が記されていなかったことより、娼妓の場ではなかったとも考えられている。嘉永年間(1848~54)に入ると大いに賑わい不夜城ともよばれる。そして正式に遊里となったのは明治3年(1870)のことであった。しかし碓井小三郎著の「京都坊目誌」(「京都叢書 第15巻 京都坊目誌 上京 坤」(光彩社 1969年刊行))では、維新により大いに頽廃し、「時世の変遷此方面の遊客を減し同5年自然に廃業するに至れり。而して其の区域は上之町。中之町。下之町に限りしなり。」としている。その後、明治30年(1897)東三本木花街の再興許可が下りたが、各方面より批判が生じ延期になったまま復活することはなかった。

 幕末史における三本木町は、文政5年(1822)に頼山陽がこの地に居宅を構えたことから始まるといってもよいだろう。そして山陽はここで「日本外史」と「日本政記」の執筆と推敲を行っている。特に幕末の勤皇思想に多大な影響を与えた「日本外史」は、全二十二巻、漢文体で書かれている。山陽は文政10年(1827年)に交流のあった元老中首座の松平定信に進呈され、その2年後に刊行している。平安時代末期の源氏と平氏の争いから始まり、北条氏・楠氏・新田氏・足利氏・毛利氏・後北条氏・武田氏・上杉氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏までの諸氏の歴史を、武家の興亡を中心に家系ごとに分割されて書かれている。
 この「日本外史」を書きあげた山陽の居宅は、文人雅会の場として書画の展観や詩賦の交換そして煎茶会などが開催されていた。このように山陽の周辺には京坂の文人が集まり一種のサロンを形成していた。その主要メンバーは、父である頼春水とも関係があった木村蒹葭堂と交友した人々の子であることが多い。大阪の儒者篠崎三島の養子・小竹、京都の蘭医小石元俊の子・元瑞、大阪の南画家岡田米山人の子・半江、京都の浦上玉堂の子・春琴が挙げられる。さらに僧雲華、仙台出身で長崎帰りの文人画家・菅井梅関・尾張出身の南画家・中林竹洞、やや年長の先輩格として陶工の青木木米、そして遠く九州から文人画家の田能村竹田も加わっている。山陽の三男の頼三樹三郎、池内大学、梅田雲浜等と共に悪逆四天王に数えられた梁川星巌も、文政2年(1819)頃に京で山陽に出会い意気投合している。そして天保2年(1831)9月頼山陽の病床を見舞い江戸へ下る旨を伝えている。山紫水明処から鴨川を挟んで東岸、川端通丸太町上ルに梁川星巌寓居跡、すなわち鴨沂小隠があった。ここで注意すべき点は、星巌が鴨沂小隠に移り住んだのが嘉永2年(1849)9月以降のことである。つまり星巌は、山陽の生前には川端通丸太町には住んでおらず、二条銅駝坊や木屋町三条下ルあたりに住んでいたと思われる。ともあれ山陽と星巌の間には頻繁な交流があったことは確かである。
 山紫水明処は山陽の書斎として使用された鴨川沿いの建物であり、これを含む居宅自体は水西荘と称していた。山陽の生前より山紫水明処の周囲には妓楼が建ち並ぶようになり、三味線や歌声が聞こえていたようだ。そして山陽の死後、妻の梨影は水西荘を福井藩の医者安藤精軒に譲り、支峰、三樹三郎、お陽の三人子供を連れて富小路へと転居している。その後、京都の頼家を継いだ支峰は東山知恩院の新門前通東大路東入ル松原町という場所に京都頼家の本宅を構えている。明治23年(1890)山陽より三代目となる頼庫山によって安藤家から水西荘が買い戻され、現在の財団法人・頼山陽旧跡保存会の所有に至っている。

 幕末の政治の舞台とされている吉田屋については、後の項で触れることとする。

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新三本木の町並み 右手に入口が見える

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