文書と写真・地図による「記憶」の再現

立命館草創の地



立命館草創の地(りつめいかんそうそうのち) 2009年12月10日訪問

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立命館草創の地

 頼山陽書斎山紫水明処の道標に従い丸太町通より新三本木町に入り込んだ。現在では、どこにでも見かけることの出来る普通の住宅街だが、開町からの歴史を眺めると実に奥深い町であったことが分かる。頼山陽書斎山紫水明処では山紫水明処へ導く道標を建立した人物について記した。新三本木の町並みその2では、町の形成から、この町に住んだ秋月悌次郎について触れた。山紫水明処では内部の見学もしないのに、その5までを使い、山紫水明処についてはもちろん、頼山陽の生涯とその系譜、さらには山陽の転居歴について書いてみた。また吉田屋・清輝楼・大和屋その2では、nakaさんのブログ「よっぱ、酔っぱ」に掲載されていた「吉田屋・清輝楼・大和屋」を思い出し、手元にあった資料をもとに書き足してみた。すでに100年前のことあるいは50年前のことでも明らかではなくなりつつあることを思い知らされた。立命館草創の地の碑について記すこと以って新三本木の最後とする。
 吉田屋・清輝楼・大和屋 その2でも触れたように、この碑の建つ地にはかつて清輝楼があった。明治33(1900)5月、西園寺公望の秘書官であった中川小十郎は、法律と政治の二科による私立京都法政学校を開校している。平成12年(2001)に建立された副碑によると、清輝楼を仮校舎として明治33(1900)6月5日の夜間授業から開校している。そして翌34年(1901)12月には、広小路河原町の新校舎に移転している。すなわち清輝楼に立命館の前身となる私立京都法政学校の仮校舎があったのは1年6ヶ月位のことであった。立命館の広小路キャンパスは上京区広小路通寺町東入ル中御霊町にあったが、昭和56年(1981)北区等持院北町の衣笠キャンパスにさらに移転している。跡地には立命館学園発祥地の碑が建ち、ここにもかつての校舎の写真が残されている。廬山寺の南側、現在の京都府立医大付属図書館の狭小な敷地にあった。竹村俊則の「新撰京都名所圖會 巻3」(白川書院 1961年刊)にはかつての広小路キャンパスの鳥瞰図が掲載されている。

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立命館草創の地
竹村俊則著「新選京都名所圖會 巻3」(白川書院 1961年刊)の立命館広小路キャンパスの挿絵

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立命館草創の地

 専門学校令により私立京都法政学校は、明治36年(1903)に私立京都法政専門学校へと組織変更が行われ、翌37年(1904)に私立京都法政大学に改称している。大学部に法律学科、経済学科、予科、専門学部には法律科、行政科、経済科、高等研究科を設置している。西園寺公望が明治2年(1869)に京都御苑内の私邸に設置した私塾立命館の名称の継承を願い出てこれを許可されたのが明治38年(1905)のことであった。そして大正2年(1913)財団法人立命館を設立すると共に、校名を私立立命館大学と改称している。そして大正11年(1922)大学令により旧制の立命館大学となる。

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立命館草創の地 主碑
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立命館草創の地 副碑

 西園寺公望は嘉永2年(1849)、清華家の一つ徳大寺家の徳大寺公純の次男として誕生する。4歳の時に、同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続している。幼少時には住まいが御所に近く、年齢も近かったことから、嘉永5年(1852)生まれで後の明治天皇となられる祐宮の遊び相手として度々召された。
 嘉永生まれの公望は若年であったため、岩倉具視や三条実美のように幕末期における政治活動に身を投じることはなかった。しかし戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、奥羽征討越後口大参謀として各地を転戦し、新潟府知事などを歴任している。
 明治2年(1869)9月23日、京都御苑内にあった自邸に私塾立命館を創設している。私塾立命館も公家の家塾と同様に賓師として漢学者らを招いていたが、家塾よりは一般的な教育機関を目指したものであったようだ。塾生には西園寺門客や家臣のみならず多くの若者が遠方からも集まり、塾は次第に内外の時事問題を議論する場になっていった。諸藩から集まる若い塾生の中には地方の郷士の出も多く、西園寺の側近として最後まで行動をともにする中川小十郎の郷里である丹波出身者も多くいたようだ。塾の評判が高くなるにつれ、さらに多くの若者が集まるようになり、ついには100人程度までにふくれあがった。明治3年(1870)4月23日、塾のあり方に不穏な空気を感じた京都府庁は差留命令を発し、私塾立命館を閉鎖している。明治2年(1869)5月、ようやく函館戦争が終結したものの、同年中に横井小楠と大村益次郎が暗殺されている。また雲井龍雄が政府転覆を陰謀したとされる雲井事件も明治3年(1870)に発生している。明治維新は戊辰戦争の終結によって達成されたのではなく、まだまだ新政府の基盤は不安定のままであった。さらに翌4年(1871)には広沢真臣の暗殺や二卿事件が起きている。政府は常に不穏分子の存在に目を光らせていた中の一つの事件と考えてよいだろう。官を辞した公望は、大村益次郎の推薦を得て官費でフランスに留学し、明治13年(1880)10月21日の帰朝まで、凡そ10年間をフランスで過している。

 現在、京都御苑内に残る西園寺邸跡には白雲神社が建てられている。明治天皇の東遷に伴い、西園寺家も東京に居を移している。西園寺家の鎮守社であった妙音堂が、明治11年(1878)にかつての鎮座地名に因み白雲神社に改められている。

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立命館草創の地 鴨川グランドコーポが見える

「立命館草創の地」 の地図


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立命館草創の地 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 立命館草創の地 35.019 135.7704
01  立命館発祥の地 35.0234 135.7687

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