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横井小楠殉節地 その6



横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その6 2009年12月10日訪問

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横井小楠殉節地

 横井小楠殉節地 その5では同世代人である佐久間象山との比較の中から、横井小楠の思想の柔軟さと革新性を見い出した。いよいよこの項では小楠暗殺がどのように行われたかについて記してみる。
 慶応3年(1867)12月18日、三職が参内し朝議が行われ、王政復古を諸外国に宣言する擬案とともに人材登用・革政所設置の事が議論されている。「復古記 第一冊」(東京帝国大学蔵版 1930年刊)復古記巻十一の12月18日の条には下記のような人選が成されている。

  御任選 御沙汰ニ付言上之向、
列藩
   德川內府    松平閑叟
   松平備前守   伊達伊豫守
   秋月右京亮   脇坂淡路守
   池田信濃守   長岡良之助
諸藩士
  德川
   永井玄蕃頭   戶田大和守
   平山圖書頭   勝安房守
   大久保一翁   西周助
   山岡鐵太郞   松岡萬
  薩州
   小松帶刀    高崎兵部
   高崎左京    五代才助
   桂右衞門
  肥後
   橫井平四郞
  越前
   三岡八郞
  柳川
   十時攝津
  大垣
   小原仁兵衞
  長州
   桂小五郞事 木戶準一郞
  因州
   土肥謙藏
  備前
   牧野權六郞
右、土州參與其外、彼是同意ニ付差出候寫、

 熊本に報せが届いたのは大晦日だったようだ。この時点で肥後藩は態度を表明していないため、藩主細川韶邦の弟に当たる長岡良之助(護美)の出仕も一度は断っている。小楠についても士道忘却事件によって士籍剥奪処分に下しているため、出仕させる訳にはならなかった。良之助は慶応4年(1868)3月1日付で参与となったが、その後も小楠の召し出しを断っている。岩倉具視が5日と6日に書を送り催促したが断られたため、8日は正式に上京を命じている。これには抗する事が出来ず、肥後藩は3月20日付で士籍を復し、なるべく早くの上京を小楠に命じている。4月8日に出発した小楠は大阪に入り、4月23日に参与に任じられている。閏4月21日に三度目の制度改革が行われ、小楠は9人(小松帯刀、大久保利通、木戸孝充、広沢直臣、後藤象二郎、福岡孝弟、副島種臣、横井小楠、由利公正)の参与の内の一人となった。この時期、小楠は健康を害し5月下旬より欠勤し、7月には重態に陥り枕頭に門弟を集め遺表を口授するということもあったようだ。その後、回復し9月15日出勤できるところまで持ち返したが、歩行が困難になり駕籠で往復している。また11月には欠勤がちとなり、12月にはさらに悪化したため、辞職帰国も決意し進退決定の時期を翌明治2年(1869)2月半ばと考えていた。
 山崎正董編著の「横井小楠 傳記篇」(明治書院 1938年刊)によると、小楠は上京後しばらくの間、大宮通四条下ル灰屋八兵衛方に寓していた。しかし手狭のため高倉通丸太町南の西側にあった井上九兵衛方に転居している。井上家は細川幽斎以来、特に肥後藩主の用達を務め武家と町人の間の家格の家柄であった。さらに従者や来客者が増えるに連れ、ここも手狭となり、12月13日に寺町通竹屋町上ル西側で下御霊神社鳥居前の人入屋大垣屋に転居している。これは人足口入れ業の会津藩御用総元締・大垣屋清八のことであろう。侠客の会津小鉄こと上坂仙吉が会津屋敷に出入りを許されるようになったのも大垣屋清八の執り成しとされている。ちなみに2013年の大河ドラマ「八重の桜」でも松方弘樹が演じる大垣屋清八が登場している。清八の養子が大澤善助であり、大沢商会や京都電気鉄道を創設した京都を代表する実業家になっている。 「続日本史籍協会叢書 横井小楠関係史料2」(日本史籍協会編 1937年刊 1977年覆刻)によると12月14日に宿許へ送った書簡(230)には、「寺町通り竹屋町上る所四條殿懸け屋敷」と記されている。さらに12月20日付けの書簡(232)では、「二百枚餘もたゝみ敷御座候」とかなりの規模の屋敷であったことが分かる。横井小楠研究の第一人者であり、「横井小楠」の著者である山崎正董も、「四條殿懸け屋敷」についての説明は行っていない。栗谷川虹氏は「白墓の声 横井小楠暗殺事件の深層」(新人物往来社 2004年刊)において、明治になって華族に列せられた四条家の所有地で、明治17年(1884)の下御霊前町の地籍図を用いて651番地に存在したと推測している。現在でも、京都府京都市中京区下御霊前町651の地番は存在しているが、寺町通に面して南側から伊藤文祥堂、駐車場、丸竹、坂井春明堂の4区画に分割されたようだ。また寺町通も当時は4間幅であり、後年に西へ拡幅している。そのため現在の道路の東側半分が当時の寺町通と考えてよいだろう。二条通より南側、かつての八百卯で寺町通は急に細くなるが、これが元の寺町通の位置であった。さらに通りの東側には御所から流れてきた細い堀もあった。これは寺町通を南に下り、松原通あたりまで続いたようだ。 また丸太町通も現在のように河原町通に直交しておらず、寺町通で一度北側にクランクしていた。その痕跡は丸太町通の北側に残る下御霊前町に見ることができる。国際日本文化研究センターに所蔵されている古地図 京都区分一覧之図、改正、附リ山城八郡丹波三郡は明治9年(1876)の京都の姿を表している。

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続日本史籍協会叢書 99~100 横井小楠関係史料1~2
日本史籍協会叢書 1938年発行 1977年覆刻

 明治2年(1869)1月5日、横井小楠は前日の新年初参朝に続き出仕している。6人の刺客も朝四つ前(午前10時)頃には丸太町通と寺町通の角の仕出屋に集合していた。既に小楠は参朝していたことは、再び屋敷の門前に駕籠が据えられていたことで確認できる。刻限が過ぎ八つ(午後2時)前になると寓居前より空の駕籠が寺町通を北上する。刺客は二手に分かれ堺町御門と寺町御門より御所に入り、大宮御所あたりで合流し、小楠の退出を待った。八つ過ぎに退朝すると、小楠を載せた駕籠は寺町御門を出て寓居を目指して南下する。護衛は4人。駕籠の脇に若党の松村金三郎、5・6間おいて若党の上野友次郎、門弟の横山助之進と下津鹿之助は20間遅れて随っていた。籠駕が丸太町通を過ぎたあたりで短銃が発砲され、これを合図に駕籠めがけて二人の刺客が殺到する。たちまち駕籠には両側から刃が刺し貫かれるが、小楠は刃を交わして駕籠の外に出て、小刀一本で応戦する。ニ三合は交わせたものの横合いから斬り込んだ一撃に倒れた。小楠の首級をあげた刺客は丸太町を西へと走り去る。山崎正董の「横井小楠 傳記篇」では、これを横山と下津、そして急を聞いて寓居から駆け付けた若党の吉尾七五三之助が追い、吉尾が「富小路夷川」あたりで刺客に追い着いたとしている。そして刺客は首級を投げ付け、吉尾が拾う間に跡形もなく逃げ去っている。これは太政官日誌に掲載されている「宮川小源太ヨリ届書寫」から山崎が引用したものである。宮川小源太は小楠の門弟であり、小楠側の報告書をとして事件当日の日付で提出されたものである。どうも情報が混乱した上、生き残った小楠側の証言には保身を考えた発言も含まれ、そのまま信用することもできないようだ。「日本史籍協会叢書 大久保利通文書 3」(日本史籍協会編 1928年刊 1983年覆刻)の大久保家蔵の「横井参與遭難に關する報告書寫」を見ると、小楠の首級は、「麩屋町通竹屋町下ル溝中へ首打捨」とある。これは正月5日の報告書である。襲撃から地点から200メートル程度離れた場所に当たる。ここは「富小路夷川」よりも近い。

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暗殺 明治維新の思想と行動
松浦玲 勁草書房 1979年刊

 小楠暗殺の報は、すぐに朝廷及び新政府に伝えられた。午後4時の議定・参与の退朝時刻には未確認ではあるものの小楠遭難が知らされている。恐らく他の議定・参与より早く退朝して難にあったのであろう。「輔相、議定、参与一同驚愕せり。」と松平春嶽の当時の日誌(「台省日紙」)に記されている。太政官日誌にも以下のように勅使が送られたことが記されている。

参與横井平四郎退朝ノ砌リ途中ニ於テ危難ニ遇候趣達天聴ニ候處深ク御驚愕被在 即刻侍臣長谷少納言ヲ以テ左ノ通被仰下危難ニ遇候趣達
              横井平四郎
今日退 朝之途中ニ於テ危難ニ遇候趣達天聴ニ御驚愕被在 不取敢侍臣ヲ以テ御尋被下候事

 翌六日には肥後藩主細川韶邦に、横井小楠の葬儀のために300両が下されていることも「太政官日誌」に残っている。

御沙汰書寫
              細川中将
舊家来横井平四郎儀昨五日退 朝於途中横死之趣不愍ニ被思食候依之右葬禮式等之為手當金三百両被下候間厚相營可申候事。

 正月7日に門弟等によって葬儀が営まれ、肥後藩と関係の深い南禅寺天授庵に葬られた。その墓地には藩祖細川幽斎夫妻をはじめ同藩士の墳墓が並ぶ。高さ一尺に満たない「肥後故臣参與横井平四郎墓」は明治7年(1874)竹崎律次郎夫妻によって高さ三尺の「沼山横井先生墓」に換えられている。

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横井小楠
松浦玲 ちくま学芸文庫 2010年刊

「横井小楠殉節地 その6」 の地図





横井小楠殉節地 その6 のMarker List

No.名称緯度経度
 横井小楠殉節地 35.0171135.7673
01  京都御苑 寺町御門 35.0199135.7669
02  京都御苑 堺町御門 35.0177135.7631
03  横井小楠宅 35.0164135.7671

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