吉田屋・清輝楼・大和屋 その2
吉田屋・清輝楼・大和屋(よしだや・せいぎろう・やまとや)その2 2009年12月10日訪問
ついに纏めきれずに、吉田屋・清輝楼・大和屋の紙数が尽きてしまった。nakaさんのブログ「よっぱ、酔っぱ」に掲載されている「吉田屋・清輝楼・大和屋」には、清輝楼、吉田屋、信楽楼の所有者の変遷とその地番が記されている。これを元にして三本木の変遷をもう少し書き続けてみる。
一番北に位置する立命館草創の地にあったのは清輝楼で、三本木中之町の北から2軒目の501番地。現在は株式会社英の事務所と駐車場となっている。清輝楼は神谷ゑいから“みね”に継がれ、明治30年(1897)5月31日に神谷茂太郎が平井権七に売却している。この権七とは下京区寺町松原下ル植松町で喞筒(ポンプ)の製造・小売そして貸金を行っていた平井権七のことであろうか?いずれにしても、清輝楼から貸席の茨木屋を経て、明治33年(1900)には京都法政学校に移っている。山紫水明処 その5で記したように、木崎好尚が明治27年(1894)1月27日に森田思軒に送った手紙には、木崎が山紫水明処の途中で頼支峰の未亡人宅で見かけた光景について記されている
未亡人方にて対話の節引こけ鬢の下女風のもの腰を屈めて入来り茨木屋から参りました、御粗末ながらとて差出せしは風呂敷包にしたる中元の進上物らしければ小生は心の中に夫の茨木屋とは此あたりに名高き料理屋清輝楼の事にて山陽翁が毎に酔を買はれし家なるべし、必定頼家は先代よりの得意なればと今に昔を忘れざる贈物ならんと思へる中、未亡人は手早く風呂敷を打返しながら、相変らず例年の御祝儀に預りましてと申され候、此相変らずの一語中々意味ある言葉と存知候、御一笑迄に書加へ申候
これは上記の神谷家から平井家への売却あるいは京都法政学校設立以前の挿話となるので、清輝楼から茨木屋にかけての時期を神谷家が切り盛りしていたと考えられる。平井家への売却後も茨木屋が存続したかは不明であるが、竹村俊則によると大正年間は洋食の「あづまや」があったとされている。そして昭和2年(1927)より始まった旅館の大和屋も平成9年(1997)に歴史の幕を閉じ、現在は駐車場と事務所に変わっている。
nakaさんのブログでは、平井権七から邦男へ引き継がれた後のことについては触れていない。そのため平井家と茨木屋、洋食の「あづまや」そして大和屋の関係が分からないが、清輝楼から大和屋に直接変わったのではないと思う。
なおフィールドミュージアム京都によると、大和屋は平成8年(1997)までこの地に存続していた。
次いで三本木中之町の南端にあったのが吉田屋で、511番地と511番地の1となっている。Nakaさんは、吉田屋は森田喜兵衛から梅太郎に引き継がれ、梅太郎の時代に売却して新たな場所で月波楼を開いたとしている。ただしその場所が記されていないことから所在地は今のところ不明ということであろう。京都市上京区の発行している区誌「上京・史蹟と文化 第43号」(上京区民ふれあい事業実行委員会 2012年刊)の区民から投稿として寄せられた高橋清氏の「東三本木のこと」には、一時期日本画家の幸野楳嶺が吉田屋に住んでいたとしている。出典が明記されていないので、確かめる術がない。確かに楳嶺は明治27年(1894)に 帝室技芸員になった祝いに東三本木の家を贈られている。そして東三本木に移っているが、翌28年(1895)に亡くなっている。戦後になって湯浅邸となったが、現在はディアステージ上京鴨川となり、地番は南町511番地のひとつとなったようだ。
京都市産業観光局が運営している京都観光Naviには吉田屋跡に建てられた駒札を見ることができる。これはかつて立命館草創の地の碑と共に建てられていたが、今回の訪問で見つけることが出来なかったので既に撤去されたようだ。立命館の建立した副碑の中でも、「なお清輝楼は、明治維新の中心的な担い手のひとりの桂小五郎(木戸孝允)と幾松(のちの木戸夫人)の逸話でよく知られる吉田屋のあとをうけ継いだものといわれ」とあるので、その混同はかなり広まっているようだ。 なお上記の清輝楼跡地の中之町501番地と吉田屋跡地と考えられる南町511番地の間にある南町502番地に鴨川グランドコーポが建つ。
ここで村松剛氏の「醒めた炎」(中央公論社 1987年刊)を参照してみる。上巻の15番目の章に「三本木」があり、463ページより木戸松子の出自などとともに当時の三本木の様子を描いている。小説の形式はとりながらも、出典や調査結果を踏まえながら書いているため、小説家の創作の部分と歴史的な事実の切り分けがある意味で容易である。まず村松氏は岡鹿門の「在臆話記」の「吉田屋の水楼、すなわち山陽の山紫水明荘なり」を引用し、さらに「いはゆる水西荘(中略)酒楼の旧に復し、吉田屋と唱ひたるなり。楼上楼下、優かに百余名の遊客を容る」と続けている。旧水西荘を自称したのは吉田屋の宣伝と推定している。岡鹿門の「在臆話記」は、「随筆百花苑 全15巻」(中央公論社 1980年刊)の1巻と2巻に納められている。該当する箇所は、「随筆百花苑 2巻」の在臆話記第四集第三の“小原鉄心豪挙会諸名流” と第四集第四の“山紫水明処”にある。解題によると、この第四集は文久2年(1862)から元治元年(1864)にかけての事柄を書き綴ったことになる。小原鉄心は大垣藩の城代で文久3年(1863)に主君の戸田氏彬に従い上洛しているが、岡鹿門が記しているのは、その前年、文久2年(1862)5月18日。京より越前に発つ前日に行われた別れの宴のことと思われる。
吉田屋ノ水楼、即山陽ノ山紫水明荘也。文人ハ、支峰、静逸以下、画工ハ対山、耕石以下、凡都下ノ書家、篆刻、文墨ヲ以テ名ヲ成ス者七八十名ヲ会集、一々挨拶、其意ニ充シメ、絃歌如レ雨。
この後、鹿門は“山紫水明処”という章で、この小原鉄心の別宴を再び記している。
此ノ山紫水明処ハ、セミノヲ川ノ浅瀬ニ臨ミ、蒲団被テ寝タル姿ナル三十六峯ノ紫緑ヲ望ミ、其西岸ニ枕ミ、一條、二條中間ノ勝地ヲ占メタル、本ハ酒楼ナルニ、山陽、西遊帰後、其業大イニ行ハレ、文壇ニ虎視シ、飛鳥モ落ル比、購ヒ得タル、所謂ル水西荘也。鉄心ノ別筵ヲ開キタル時ハ、酒楼ノ旧ニ復シ、吉田屋ト唱ヒタル也。楼上楼下、優カニ百余名ノ游客ヲ容ル。山陽ノ名ヲ以テ、勝名愈々著ハル。
この後、村松氏は上記の駒札が吉田屋の旧跡ではなくもっと北側の大和屋に建てられたこと、そして大和屋の前身が清輝楼であることを記している。すなわち吉田屋が水西荘と大和屋の間に存在していたことを明らかにしている。さらに維新後、吉田屋の跡に幸野楳嶺が住み、土地は湯浅金物店の主に買い取られ湯浅邸となった。湯浅金物店は湯浅電池となり現在のGSユアサに連なる。湯浅電池と湯浅商事の社長で、戦後の湯浅電池の中興となった湯浅佑一に確認したところ、かつての吉田屋の敷地面積は湯浅邸の倍の500坪位であったと記している。山紫水明処の東西方向の奥行きが24間であることから、東三本木通に面した間口は21間、37m程度あったこととなる。当然、現在の南町511番地、ディアステージ上京鴨川の敷地だけでは500坪にはならない。村松氏のインタビューが正しければ、かつての吉田屋の敷地は、北側の501番地か南側の515番地のどちらかを含んでいなければならないこととなる。
「大垣つれづれ」に掲載されている「頼山陽邸の北隣の家」によると、山紫水明処の北隣、現在の三本木南町519番地の1には、陶工の青木木米の別邸があったとしている。木米は鴨川東岸、祇園新地の木屋の主でもあった。別邸の庭には老龍庵と名付けられた老松があった。儒学者で漢詩人、そして狂詩作家でもあった中島棕隠は、夏の住まいとして木米より借りることがあったようだ。文政13年(1830)棕庵は鴨川の東岸に住むことに決し、二条新地に新居、銅駝余霞楼を営んでいる。また嘉永2年(1849)川端丸太町に鴨沂小隠を建てた梁川星巌も安政4年(1857)10月に東三木に移り、鴨沂水荘と名付けている。そして翌5年(1858)9月2日、この家で病死している。星巌の死後に紅蘭が捕縛されたのもこの家でのことであった。なお釈放された紅蘭は万延元年(1860)4月に川端丸太町の旧宅に帰住している。 星巌のあと、持主が変わり谷口藹山の持物となった時期もある。藹山は小原鉄心が私淑した禅僧、鴻雪爪と親しかった。上記の岡鹿門の「在臆話記」に記されている鉄心の催した別筵もこの地で行われ、鹿門が吉田屋と誤って記憶したのかもしれない。さらに慶応4年(1868)3月から閏4月にかけて、鉄心と雪爪は京都にいた。鳥羽伏見の戦いに旧幕府軍として参戦した大垣藩を、新政府に帰順させた鉄心は、閏4月15日、鍋島閑叟、長州藩の長松秋琴と雪爪、鉄心の四人で酒間に聯句を娯しみ、二日後の17日には大久保利通、木戸孝允、由利公正、横井小楠、長州の広沢兵助に寺内暢三、名和緩、土佐の福岡孝悌という面々がこの家に集まったとしている。
それでは山紫水明処より一軒おいた北隣の三本木南町515番地(現在は存在していない517番地か?)には何があったのか?
ここには信楽楼があったことが分かっている。nakaさんによると上京区三十番組添年寄を勤めた谷出源右衛門から“あい”に受継がれたとしている。あいは、与謝野晶子とも親交があり年齢的には2、3歳年上だったとされていることから明治初年生まれであったのであろう。その父である源右衛門が南町515番地を買い取った、あるいは旅館を始めたのは、明治維新後に三本木町の遊郭が衰退した頃であったのではないかと思われる。与謝野晶子が定宿として使ったことから、志賀直哉、谷崎潤一郎、吉井勇や白樺派同人が会合に利用した旅館でもある。明治45年(1912)4月22日に谷崎潤一郎が信楽に滞在する長田幹彦を訪ねたことが、昭和7年(1932)に書かれた「青春物語」(「谷崎潤一郎全集 第13巻」(中央公論社 1986年刊))に残されている。この昭和7年時点で谷崎は下記のように記している。
私は京都には全く一人も友達がなかったので、着いた明くる日、私より一と足先に此の地へ来て三本木の「信楽」と云ふ宿に滞在してゐた長田幹彦君の所へ飛んで行った。此の「信楽」と云ふ旅館は今はなくなってゐるだらうが、女将が与謝野晶子さんの旧友であるとかで、そんな縁故から文人の投宿する者が多かたうたやうに聞いてゐる。
このように考えて行くと、森田梅太郎が吉田屋を売却したのが明治初年であれば、511番地と515番地(かつての511番地の1か? そして現在の517番地か?)から水西荘の北隣までが吉田屋だった可能性も残る。面積的には500坪には満たないが、単に湯浅邸の倍位という発言がもとになっていると考えればよいのであろう。村松氏は同書内で「山陽の死後水西荘は人手に渡り、吉田屋がそのすぐ隣にまで軒をひろげたので、吉田屋が旧水西荘であるという錯覚が生じた。」とも記している。しかし信楽旅館は晶子の父の鳳宗七の京都の定宿であったとされているので、かなり早い時期から旅館として存在していたであろう。そうすると吉田屋は清輝楼に隣接する501番地(鴨川グランドコーポ)と511番地(ディアステージ上京鴨川)の上に存在したと考えるほうが自然である。勿論、村松剛氏の「醒めた炎」を信じるならばである。
この記事へのコメントはありません。