文書と写真・地図による「記憶」の再現

法成寺址 その4

法成寺址(ほうじょうじあと)その4 2009年12月10日訪問

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法成寺址 法成寺址の碑 京都市の説明板

 法成寺の成り立ちを考える上で、興福寺から始まる藤原氏の氏寺について、法成寺址その2その3 と3回にわたって書いてきた。ここでは法成寺自体について記してみる。
 法成寺の位置は、「扶桑略記」所引の無量寿院供養願文に「鳳城東郊、鴨河西畔」、「栄花物語」に「東の大門に立ちて、東の方をみれば、水の面まもなく、筏をさして、多くの榑材木をもて運ぶ」とある。「小右記」に「京極東辺」、「阿裟縛抄」に「近衛北、京極東」などとあることから、東は鴨川、西は東京極、南は近衛となる。すなわち現在では西は梨木町通を南に延長した線、南は荒神口通に並行でやや南よりということになる。恐らく京都市の遺蹟詳細地図索引の中の50番の御所の242(https://g-kyoto.gis.pref.kyoto.lg.jp/g-kyoto/APIDetail/Gate?API=1&linkid=825206c3-0990-4f31-9e7d-c3d70e3351b3&mid=671 : リンク先が無くなりました )を参照するとよいだろう。これを見る限り現在の荒神口通の中心より20m位南となる。そして寺域は東西2町、南北2町(ただし後年になって3町)であったと考えられている。(追記2018年7月13日 京都市の遺蹟詳細地図索引はリニューアルされ上記のリンクでは見えなくなりました。京都市の「京都市遺跡地図提供システムhttp://web.gis.survey.ne.jp/Kyoto/iseki/main.htm
」をご参照ください。法成寺跡は遺跡番号242です。)
 この位置に藤原道長が法成寺を建立したのには、平安京内に僧房を持ってはいけないという原則に従ったと考えられている。これは平城京で宗教勢力との政争に巻き込まれた反省より平安京建都以来の決まりとなっている。そして出家し僧侶として暮らすための生活の場を自らの土御門第に隣接する、東京極大路の東側という平安京の外に求め、道長は住房として御堂を伴う院家建築を営んでいる。さらに造営している過程で院家建築を寺院の伽藍建築に移行させたと杉山信三は著書「藤原氏の氏寺とその院家」(吉川弘文館 1968年刊)で解説している。

 栄華の絶頂期にあった藤原道長も胸病を始めとする多くの病に苦しみ、寛仁3年(1019)3月21日に出家する。同年7月16日より、土御門第の東に中河御堂(無量寿院)・九躰阿弥陀堂の造営に着手する。建築は年があけた寛仁4年(1020)1月から着工し、正月19日には上棟式を迎えている。寺中をならして池を掘り、仏像を安置した後、3月22日に供養が行われている。この堂宇には九躰の丈六阿弥陀仏像を本尊とし、観音像・勢至像そして四天王像あわせて十五躰の像を安置した11間の建物で、敷地内の西にあり東向きで池に面していた。それ以外にも出家した道長が僧侶生活をおくために僧房にあたる寝殿などがあったと想像される。この阿弥陀堂をはじめとし、十斎堂・西北院・金堂・五大堂・薬師堂・釈迦堂・東北院などの堂宇が次々と造営されていく様子は、「栄花物語」に描かれている。

 藤原氏の退潮に伴い法成寺も衰退し、鎌倉末には廃絶している。法成寺と推定される瓦は発見されているものの、その遺構は未だに発掘されていない。法成寺の伽藍がどのようなものであったかを考古学的に実証することは困難である。そのため復元予想図等は上記の「栄花物語」等の記述を元に推測されたものでしかない。平安建都1200年を記念して制作された1000分の1の平安京の模型(現在は京都市生涯学習総合センター 京都アスニーにて展示)でも法成寺の姿を見ることができる。残念ながら現物を見る機会を得ていないが、この模型作成の機会となった「甦る平安京」展に合わせて出版された「よみがえる平安京」(村井康彦編集 淡交社 1995年刊)において土御門殿と並ぶ法成寺の姿を見ることができる。
 敷地は東西・南北同じ正方形の形状をしている。近衛大路に面して南大門と東京極大路に西大門が築かれている。南大門の北側には中ノ島を持つ大きな池泉があり、この池を囲むように西・北・東に建てられた複数の建物は回廊を以ってひとつに繋がれている。印象的なものは中ノ島に対して東西南北から4本の橋が架けられていることである。池の南側には回廊が巡らされていないので、池泉は三方向が囲まれ、南に開く形状となっている。また東南隅には五重塔が建てられているが、対称的な場所に西搭を見ることもできない。この中心部の建物群以外にもその北側に3つの建物群が東西に並ぶように建設されている。これらの諸堂宇についての説明を下記に行う。

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法成寺址 法成寺の変遷 1  金堂造営直前(1021)の無量寿院
杉山信三著「藤原氏の氏寺とその院家」より

 先の杉山信三による「藤原氏の氏寺とその院家」では、法成寺の伽藍配置試案を4つの時期に分けて作成している。金堂が造営される直前の治安元年(1021)頃の無量寿院には、阿弥陀堂、十斎堂、三昧堂、南楼、宝蔵、西中門、南門、西門、西北院そして寝殿が既に存在していた。中央の池には島が築かれ建物群は西側の多くが建設され、池の東側には十斎堂、三昧堂、宝蔵の3つの建物が建つのみであった。また土御門大路より北側には何も建設されていなかった。
 金堂造営が始まったのは治安元年(1021)2月頃のことであった。そして「小右記目録」6月27日の条に「被立無量寿院講堂」とあり、「左経記」の7月15日にも「無量寿院金堂棟上」とある。この治安元年の2月28日に道長の室倫子が出家しているため、その居住の場として西北院御堂が建設されている。供養はこの年の12月2日に行われたことが「小右記」に記されている。金堂の供養は西北院より遅く、治安2年(1022)7月14日に行われた。金堂には三丈二尺の金色大日如来を中心に、二丈金色釈迦如来・薬師如来、そして文殊利菩薩、弥勒菩薩そして梵天・帝釈天・四天王を中央から外へ外へと安置している。寺号が無量寿院から法成寺に改められたのもこの時であった。そして、この頃には完成している五大堂にも彩色二丈不動尊と同じく一丈六尺の四大尊を安置していた。先の杉山の試案に従うと、金堂は池の北側に南面する形で建設されている。これを建設するために土御門大路以北も敷地に加えられ、池に面して建てられた寝殿は西北院の北東に移されている。そして五大堂が金堂の東側に建設され、歩廊でつながれている。すなわち阿弥陀堂と寝殿で始まった無量寿院が僧房を北側に移し、寺院として伽藍配置に移行したのが金堂の完成した治安2年のことであった。そして寺号も法成寺に改められる。金堂と五大堂、新たな寝殿以外にも、金堂の北側に西に鐘楼、東に経蔵を建てている。さらに拡張され一体化した旧土御門大路以北に、定基僧都の住房と通救僧都の住房、さらに僧房を増築している。そして西門と南門を建替え、西門と北門を新築している。

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法成寺址 法成寺の変遷 2  薬師堂造営直前(1023)の法成寺
杉山信三著「藤原氏の氏寺とその院家」より

 道長は伽藍を完成するために薬師堂と阿弥陀新堂を造営している。金堂を中心にした堂宇配置を行う上で寛仁4年(1020)に造営した阿弥陀堂の建設位置とその規模が薬師堂建立の妨げとなったのかもしれない。北の金堂の南北軸を中心として東側に薬師堂を建設するためには、西側の阿弥陀堂の位置を西南に移すとともにさらに間口の広い建築に変更する必要があったと推測される。薬師堂の落慶供養は治安4年(1024)6月26日に、阿弥陀新堂の供養は遅れて万寿3年(1026)3月20日に行われている。この時には既に阿弥陀堂に安置されていた九躰阿弥陀仏増は新堂に移されている。さらに杉山は十斎堂も万寿4年(1027)に再建され、2月24日に新しい十斎堂に仏を移したと推測している。これも薬師堂を建設する上で障害となったのかもしれない。新しい十斎堂は、かつての阿弥陀堂の位置、すなわち金堂の西南に南面する形で再建されている。そしてこれと対称となる金堂の南東の場所に釈迦堂を新築し、万寿4年(1027)8月23日に供養を行っている。これによって金堂を中心に、左に十斎堂と阿弥陀堂、右に釈迦堂と薬師堂が左右対称に配置されることとなる。無量寿院創建時の建物は三昧堂、南楼、宝蔵を残すだけとなっている。また万寿2年(1025)より着手したと考えられている尼戒壇の供養は、万寿4年(1027)3月27日に行われている。尼戒壇は宝蔵の南に建てられたと考えられている。
 次に道長が着手したのは造塔であった。阿弥陀新堂と十斎新堂とほぼ同時期に企画され、万寿元年(1024)から工事の始まった塔は、万寿4年(1027)の末頃に竣工したと考えられている。その場所は敷地の東南隅である。この年の12月4日に道長は病没しているため、突貫で施工されたようで、翌万寿5年(1028)9月2日の大風で鴨川が氾濫し、寺地が冠水すると塔の先端が三尺程度巽の方角に傾く。道長の嫡子の頼通によって塔は解体され、壇を新たに築き固め、その上に礎石を据え直している。この解体から再築の間の長元2年(1029)8月8日には塔の心柱が倒れる事故も起こしている。この塔の供養は長元3年(1030)10月29日に行われている。以上が道長の時代に行われた法成寺の普請の歴史である。

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法成寺址 法成寺の変遷 3  天喜火災直前(1058)の法成寺
杉山信三著「藤原氏の氏寺とその院家」より

 頼通の時代になって法成寺の整備は一応の完成を見る。金堂の北側に新堂講堂が建設され、新たに建てられた鐘楼と経蔵を回廊で結んでいる。この堂宇の供養は永承5年(1050)に行われている。なお鐘楼は長久2年(1041)7月20日の地震で「顛倒」したという記事があるから再建されたことが明らかである。またそれより前の長元3年(1030)8月21日に西北院と対称の位置に東北院を造営し供養を行っている。
 また天喜5年(1057)3月14日に八角円堂の供養が行われている。円堂が建てられたのは敷地の西南隅で、先の塔と対称をなす場所であった。これを以ってほぼ法成寺の伽藍は完成している。

 既に述べたように、病を得た道長が寛仁3年(1019)3月21日に出家をするために造営したのが法成寺の前身となる無量寿院であり、その目的は自らの住房を造ることであった。そのため住房と念誦を行うための九躰阿弥陀堂、十斎堂、法華三昧堂が園池を伴う寝殿に添えられて造営された。しかし少し健康を取り戻した道長は院家建築である無量寿院を法成寺という伽藍建築に変更しようとした。これは当初の目的とは全く異なっている。そのため新たなマスタープランに従って一度建設した堂宇を取り壊しながら新しい堂宇を建設して行った。杉山も先の著作で、「うつり気の多い道長の性質に由来して、計画のない造営となり、それが普請好きという嗜好によって拍車かけられ」と説明しているが、全くその通りであっただろう。法成寺は道長一代に納まらず、頼通に引き継がれて一応の完成を見るが、天喜6年(1058)2月23日の火災によって悉く焼亡している。

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法成寺址 法成寺の変遷 4  天喜火災後再建(1090頃)の法成寺 
杉山信三著「藤原氏の氏寺とその院家」より

 法成寺の再建は翌3月27日より始まっている。同年10月27日には阿弥陀堂、薬師堂、五大堂の上棟式を頼通臨席で行われている。そして康平2年(1059)10月12日に阿弥陀堂と五大堂の供養を行っている。なお新たな堂宇の位置は元の法成寺に従っている。康平4年(1061)7月21日に東北院の供養を行っている。さらに康平8年(1065)10月18日には、金堂の供養が薬師堂と観音堂とともに行われている。観音堂は焼亡前の法成寺にはなかった堂宇であり、金堂の西側、五大堂と対象の位置に建設されている。なおこの時期までには経蔵と鐘楼も出来上がっていたと考えられている。
 延久6年(1076)2月2日に頼通は没している。享年83。そして同年10月3日に一条天皇の中宮で後一条天皇と後朱雀天皇の生母でもある上東門院彰子が法成寺阿弥陀堂中で没している。道長の長男と長女が相次いで亡くなり、法成寺の経営は頼通の六男の師実が引き継ぐ。師実は承暦3年(1079)10月5日に宝塔、十斎堂、釈迦堂を建立し供養している。元から法成寺にあった塔に一塔を加え左右に配するように頼通は考えていたので、先ず叔父の教通(頼通の同母弟で藤氏長者第17代)が宝塔建設に着手したが、承保2年(1075)9月15日に病没している。師実がこの建設計画を引き継いでいる。十斎堂には丈六金色大日如来、丈六阿弥陀如来・薬師如来・釈迦如来像、普賢・勢至・地蔵・定光・観世音菩薩像を、釈迦堂には旧像の釈迦如来と六天及び十大弟子と八部衆に彩色を施し安置している。そして講堂が竣工したのは寛治4年(1090)で、供養されたのは承徳元年(1097)10月17日のことであった。
 天喜6年(1058)2月23日の火災に以降に復興した法成寺には、南中門と回廊が巡らされている。すなわち北面に左から観音堂、金堂、五大堂、西回廊は北から十斎堂と阿弥陀堂、東回廊には釈迦堂と薬師堂が配され、南にも回廊を巡らせることで四周を閉じた奈良様式の寺院になっている。杉山の試案を見ると各堂宇が整然と計画的に配置されていることが良く分かる。道長の当初造営した無量寿院との差は歴然である。浄土曼荼羅図を建築で表現したことは六勝寺形式にも影響を与えている。
 しかし寛治4年に完成を見た法成寺の終滅は案外に早いものであった。その原因となったものは地震等の天災や戦乱ではなく、藤原氏の退潮に伴って維持管理することができなったためと考えられている。「徒然草」第25段に下記のようにある。

京極殿・法成寺など見るこそ、志留まり、事変じにけるさまはあはれなれ。
御堂殿の作り磨かせ給ひて、庄園多く寄せられ、我が御族のみ、御門の御後見、世の固めにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせ果てんとはおぼしてんや。
大門・金堂など近くまでありしかど、正和の比、南門は焼けぬ。
金堂は、その後、倒れ伏したるまゝにて、とり立つるわざもなし。無量寿院ばかりぞ、その形とて残りたる。
丈六の仏九体、いと尊くて並びおはします。行成大納言の額、兼行が書ける扉、なほ鮮かに見ゆるぞあはれなる。法華堂なども、未だ侍るめり。これもまた、いつまでかあらん。
かばかりの名残だになき所々は、おのづから、あやしき礎ばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし。

 このように正和年間(1312~7)に金堂が倒れ、兼好が見た唯一の遺構であった阿弥陀堂も元弘3年(1331)に焼亡している。

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