法成寺址 その2
法成寺址(ほうじょうじあと)その2 2009年12月10日訪問
藤原氏の氏寺についてもう少し続ける。
藤原忠平によって開創された法性寺への参籠が増えると、近くに御所あるいは山荘が造営されている。藤氏長者第19代の藤原師通の寛治の頃(1087~94)になると白河法皇により鳥羽殿の造営が始まる。南殿の御堂証金剛院が供養されたのが康和3年(1101)3月29日のことであった。また白川の地に法勝寺、尊勝寺を造営し、承久2年(1114)11月29日には、付近に設けた御所の一つとなる泉殿の中にある蓮華蔵院の御堂で供養している。師通の子で藤氏長者第20代の藤原忠実が平等院を建立したのも、白河法皇が御所の中に御堂を建立したことと同じであった。 忠実の子の藤原忠通(藤氏長者第21代)が法性寺に別業を造営始めたのは久安3年(1147)の頃だと考えられている。翌4年(1148)2月11日には完成した法性寺殿に遷御している。忠通の室の藤原宗子の発願により、この新宅にも最勝金剛院の御堂が建てられている。これより少し前の応徳3年(1086)白河天皇が退位後の居所として鳥羽離宮の造営を始めている。なお鳥羽上皇が営んだ仏堂が起源とされる安楽寿院の創建は保延3年(1137)のことである。 院政の中心が鳥羽殿であったことから、忠通が鳥羽殿の北東の地にある法性寺の近くに別邸を建設したことは十分に理解できる。久安4年(1148)7月17日には、近衛天皇、鳥羽法皇、崇徳上皇などの御臨幸の元で、宗子が造営した新堂の供養が行われている。そして久安6年(1150)11月26日、宗子が建立した最勝金剛院を御祈願所となし、同院の四至内に官吏などが入ることを禁じている。これは久安4年7月に供養した新堂に最勝金剛院の法号が与えられたことから生じている。また四至の限界を、東は山科境から西は河原まで、北は貞信公墓所山から南は還坂南谷までとされている。これは「太政官牒」(東福寺文書)に記されているもので、これが最勝金剛院の寺域と見なされているようだ。ちなみに還坂南谷とは、稲荷山から車阪を結ぶ道をかつて還坂と呼び、現在も仲恭天皇九條陵の南に深草車阪町や今熊野南谷町の地名が残る。
久寿元年(1155)9月15日、宗子は法性寺殿で没す。翌日御所から東南二町余に建立された塔の地下に埋葬されている。崇徳天皇の中宮となる藤原聖子は忠通と宗子の間に産まれた長女である。保元元年(1156)に勃発した乱に敗れた崇徳上皇は讃岐に配流され、中宮の聖子もまた出家し皇嘉門院となる。藤原忠通は宗子の没後も新しい御所の造営を行っていた。浄光明院の御堂は法性寺大道より西の新御所内に造られたようで、最勝金剛院の西に位置するため西御堂と呼ばれていた。そして応保2年(1162)6月8日、忠通は法性寺別業で出家し、長寛2年(1164)2月19日に没している。享年68。同月21日、法性寺山の貞信公御墓の東側に葬られている。
忠通の没後、皇嘉門院は猶子としていた異母弟の九条兼実の後見を受け、治承4年(1180)に兼実の嫡男・良通を猶子として、最勝金剛院領などを相続させている。これが九条家の家領の源流となった。皇嘉門院は養和元年(1182)12月4日に没し、翌5日皇嘉門院の葬送は最勝金剛院の西面北の四足門から御車を入れ、御所と御堂の南を通り、同院の東南の丘にある崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵に葬られている。この他にも多くの藤原北家の人々は、忠平が建立した法性寺の近傍に墓所を設営している。開創後300年近く経ても、法性寺が藤原氏の氏寺であり続けたことは、新たな墓所の設営からも明らかである。
その後の法性寺の変遷については、九条兼実とその子息である九条良通と良経、そして良経の嫡子の九条道家の三代が大きな役割を果たしている。
九条兼実は藤原忠通の六男として久安5年(1149)に生まれている。藤氏長者第29代の兼実は九条家の初代でもある。ちなみに忠通の四男の基実が近衛家の初代となり、この世代で藤原北家は近衛家と九条家に分かれている。さらに3代後に一条家、二条家そして鷹司家が分かれ五摂家が完成する。この兼実の時代に、法性寺内に定法寺と光明院そして報恩院の御堂が造られている。定法寺は正安元年(1299)の「法性寺御陵山指図」によると、最勝金剛院とは谷を隔てた東にあり、更にその北に定法寺殿赤堂と記されている。なお定法寺の起源やその後の経緯については明らかになっていない。また光明院についても位置規模等は不明である。報恩院は兼実が法性寺の付近に作った御所、月輪殿の中に建てた御堂の号である。そのため、九条兼実は月輪殿あるいは後法性寺殿とも呼ばれる。
建久七年の政変で関白の地位を追われた兼実は二度と政界に戻ることなく、建仁元年(1201)12月10日には長年連れ添った妻・兼子(藤原季行の女)に先立たれ、建仁2年(1202)正月27日、法然を戒師として出家、円証と号する。文治4年(1188)将来を嘱望した長男・良通を失い、さらに次男・良経も建仁2年(1202)12月に摂政となるが、元久3年(1206)3月に38歳の若さで急死している。兼実は良経の長男の道家を育てることに全てを傾けるようになる。 建永2年(1207)2月に起こった承元の法難では法然の配流を止めることはできなかったが、配流地を自領の讃岐に変更して庇護した。同年4月5日、兼実は59歳で没する。 幼い頃より兼実に引き取られて養育された道家は、承元3年(1209)3月、姉の立子を皇太弟の守成親王の妃として娶わせることに成功する。このことにより左近衛大将、権大納言、内大臣、右大臣と栄進を続ける。承元4年(1210)11月、後鳥羽上皇の強い意向により守成親王は土御門天皇の譲位を受けて順徳天皇となる。更に立子との間に懐成親王(後の仲恭天皇)が生まれると、道家は東宮補佐役となる。建保6年(1218)12月には叔父の九条良輔が死去したこともあり、左大臣にまで栄進する。これは天皇家の外戚関係になったことと、岳父の西園寺公経が鎌倉幕府との関係が深かった事から幕府の後ろ盾によるところも大きかった。
建保7年(1219)4月、順徳天皇が懐成親王に譲位して上皇となり、懐成親王は践祚して仲恭天皇となる。そして外叔父に当たる道家は摂政となる。その直後、後鳥羽上皇によって承久の乱が起こされる。挙兵は失敗し幕府軍の勝利に終わる。仲恭天皇は廃位され、後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されている。そして討幕計画に反対していた土御門上皇も自ら望んで土佐国へ配流された。道家は後鳥羽上皇や順徳上皇たちの討幕計画には加わらなかったものの摂政を罷免されている。寛喜3年(1231)7月、長男の九条教実に関白職を譲ったが、なおも朝廷の最大実力者として君臨し従一位にまで栄進する。そして教実が文暦2年(1235)3月に早世すると、道家は再び摂政となるが近衛家の猛反発に合う。嘉禎4年(1238)出家して法名を行恵とするものの権勢を維持する。 道家が東福寺建立の発願をしたのは、嘉禎2年(1236)のこととされている。3年後の延応元年(1239)に仏殿の立柱を行い工事を始めている。これが東福寺の創設である。これは藤原忠通の造った最勝金剛院の西側に計画された。そして最勝金剛院の東側には御所と御堂からなる光明峯殿の造営を行ったようである。嘉禎3年(1237)正月、道家は法性寺に行き、門を建てている。この年の8月から9月かけて御影堂と御所を造る敷地を見て廻っている。福山敏男は著作「光明峯寺の歴史」(「寺院建築の研究 下 福山敏男著作集 三」中央公論美術出版 1983年刊)の中で、これらの工事は東福寺や月輪殿ではなく光明峯寺殿の造営に着手したことを表していると考える。また上記のように嘉禎4年(1238)4月25日に法性寺別庄で出家したのも月輪殿の報恩院ではなく、峯殿であったと推測している。この光明峯寺は三の橋川の上流、現在の大雲院南谷別院の西側から京都国際高校の敷地の西側三分一程度が含まれていたと考えられている。またこの光明峯寺の更に東の地に高野山の金剛峯寺の奥ノ院の御廟を模した御影堂を建立し、没後は遺体を御影堂の下に納めるように命じている。道家は寛元元年(1243)3月15日に法性寺鎮守惣社を東福寺の鎮守として遷宮を行っている。そして同年8月22日に盛大な祭礼を始めて行っている。これは現在の東福寺三門の東にある五社神社の元となる成就宮のことであり、現在の位置に移されたのは後年のことであった。この鎮守の遷宮は法性寺と東福寺の社地移動に伴うものと、福山敏男は「法性寺の位置」(「寺院建築の研究 下 福山敏男著作集 三」中央公論美術出版 1983年刊)で考えている。 建長2年(1250)11月に「九条道家初度惣処分状」を記し、東福寺、惣社、最勝金剛院、宝光院、普門院、報恩院(月輪殿)、光明峯寺そして家地、荘園等の相続を定めている。建長4年(1253)2月19日の「九条道家第二度処分状」で光明峯寺は家の長者として一条実経が管領するが、その次には早世した教実の子である九条忠家に譲るように記している。そして同月21日、この地で九条道家が没し遺命に従って光明峯寺に葬られた。
以上のように藤原忠平が創建した法性寺に、藤原道長は五大堂を建立し、藤原忠通の時代には別業が造営され最勝金剛院も建立されている。九条兼実は月輪殿と報恩院を法性寺の中に建てたが、その孫の九条道家は法性寺を再編し、円爾を開山に迎え新たな禅宗寺院として東福寺を開創している。そして忠平の法性寺は東福寺に吸収される形で消えて行く。東福寺創設の発願は嘉禎2年(1236)のこととされているが、実際に法性寺よりの社地変更が行われたのは寛元元年(1243)と考えられている。また道家は月輪殿の東に峯殿と光明峯寺そして奥ノ院を造営し、没後はこの地に葬られている。東福寺の仏殿建設は延応元年(1239)から始め、建長7年(1255)に完成するが、さらに建設工事は続けられ法堂が完成したのは文永10年(1273)であった。その後、報恩院、最勝金剛院そして光明峯寺は姿を消し、現在に残ったのは東福寺のみである。東山区本町16丁目にある法性寺は明治維新以後、旧名を継いで再建されたものであるが、本堂に安置する国宝の千手観世音菩薩像は、旧法性寺の潅頂堂の本尊と伝えられている。また東福寺の塔頭の最勝金剛院も昭和46年(1971)に旧地付近に再興されたものである。
「法成寺址 その2」 の地図
法成寺址 その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
旧法性寺址 南西 | 34.9777 | 135.771 | |
旧最勝金剛院址 北西 | 34.9757 | 135.7751 | |
旧定法寺址 南西 | 34.9757 | 135.7771 | |
旧光明峯寺址 北西 | 34.9756 | 135.7797 | |
旧光明峯寺 奥院址 北西 | 34.975 | 135.7813 | |
旧月輪殿址 北西 | 34.9771 | 135.7764 | |
旧定法寺殿赤堂址 南西 | 34.9771 | 135.7775 | |
旧藻壁門院法華堂址 北西 | 34.9771 | 135.7779 | |
西峰 北西 | 34.9778 | 135.7792 | |
北西峰 南東 | 34.9784 | 135.7793 | |
01 | ▼ 旧法性寺址 | 34.9791 | 135.7707 |
02 | 旧最勝金剛院址 | 34.9757 | 135.7751 |
03 | 旧定法寺址 | 34.9757 | 135.7771 |
04 | 旧定法寺殿赤堂址 | 34.9771 | 135.7775 |
05 | 旧光明峯寺址 | 34.9756 | 135.7797 |
06 | 旧光明峯寺 奥院址 | 34.975 | 135.7813 |
07 | 旧月輪殿址 | 34.9771 | 135.7764 |
08 | 旧藻壁門院法華堂址 | 34.9771 | 135.7779 |
09 | 西峰 | 34.9778 | 135.7792 |
10 | 北西峰 | 34.9784 | 135.7793 |
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