嵯峨野の町並み その9
嵯峨野の町並み(さがのまちなみ)その9 2009年12月20日訪問 2009年12月20日訪問
貞和3年(1347)に夢窓疎石が裏書したことにより、「大井郷界畔絵図」は天龍寺と臨川寺が対立することなく、臨川寺領を維持できるようにその寺領を朱線で囲んで示したことが分かる。その寺領はかつての河端殿だけではなく、南は大堰川の右岸、西は法輪寺橋、北は造路、東は造路が分岐する先までと描かれている。つまり東南隅に臨川寺領、南西隅から北西隅に天龍寺領、そして東北隅から中心にかけてが釈迦堂領と大覚寺領という構成になっている。このように絵図に描かれている範囲が「亀山殿近辺指図」より広がっていることは、臨川寺の寺領を絵図内に収める目的はあったものの、嵯峨の開発が一層進展した結果でもあった。
「亀山殿近辺指図」から「大井郷界畔絵図」への大きな変更としては、亀山殿の東限となった惣門前路が無くなり、朱雀大路が出釈迦大路に名称を変えている点である。かつての惣門前路と朱雀大路の間にあった院近臣、女房そして僧侶などが居住する地域が天龍寺の境内と天龍寺領そして塔頭に置き換わっている。単に亀山殿の敷地に天龍寺が建立されたのではなく、亀山殿とその門前町を再開発して天龍寺を建てたと考えるべきである。さらに惣門前路が失われたことにより、出釈迦大路が嵯峨の南北幹線の地位を取り戻し、都市構造は明快になった。ある意味、棲霞寺と朱雀大路が建立された時期の構成に戻ったようにも見える。勿論、新しい嵯峨の中心はかつての清凉寺や大覚寺ではなく、出釈迦大路と造路が交差する点に移っている。この場所に天龍寺を造ったことは、嵯峨が上皇を中心とした院政都市から天龍寺を中心とした宗教都市に改められたことを明確に示している。そして嵯峨のメインストリートも南北路から東西路の造路に変わっている。朱雀大路から出釈迦大路に名称を変更している点も象徴的である。南より内裏へと続く路を意味する朱雀大路から、単に釈迦堂へ通じる路ということに変えた背景には東西路の造路を新しい嵯峨のメインストリートと位置づけたことに関係したのではないだろうか。
また、天龍寺と臨川寺を建立する際、伽藍を正東西軸、正南北軸に沿って配置している。嵯峨の町並みは西に16度傾けた条里プランによって作られてきた。そして出釈迦大路も16度傾いているのに関わらず、新たな都市軸を嵯峨に持ち込んでいる。「大井郷界畔絵図」を見ると出釈迦大路に面して広場を設け、ここで軸の切替えを行ったのであろう。2004年に京都市埋蔵文化財研究所が行った発掘調査で、霊庇廟の鳥居とそれを囲む柵(玉垣)の穴が発見されている。この穴の配置より天龍寺の南側に建立された霊庇廟も天龍寺同様に東西軸上に計画されたことが確認できた。 天龍寺は数度の焼亡より再興を繰り返してきたが、GoogleMapを見る限り現在の総門、中門、勅使門は大路に正対するように建てられているようだ。その他の天龍寺の堂宇は正東西軸に従って配置されるという不整合が見られる。同じことは三条通に南面する臨川寺にも見られる。
さらに造路が薄馬場より先で分岐しY字路となっている。現在も京福電気鉄道嵐山本線の嵐電嵯峨駅前にその形状が残っている。ここには天下龍門が建てられ、ここより西側は天龍寺を中心とした宗教都市であることを印象付ける役割を担っている。
現在の瀬戸川の付け替えも臨川寺創建に合わせて行われたと考えられている。上記のように芹川は造路を過ぎたあたりから西に曲がり河端殿の北側をかすめて芹河殿を経由して大堰川に注いでいた。臨川寺の境内を確保するためには、北限となった芹川が支障となったことが想像できる。芹川をそのまま真直ぐに大堰川につなぐことで、旧河端殿を北と東側に拡張することができた。
「講座蓮如 第4巻」(平凡社 1997年刊)に所収されている原田正俊氏の「中世の嵯峨と天龍寺」によると、天龍寺と臨川寺の創建により大覚寺の嵯峨における影響力は著しく後退したようだ。大覚寺の検断権、すなわち警察・治安維持・刑事裁判に関わる権限は、北嵯峨と現在の新丸太町通以北に限られた。門跡新入室にあたっての段銭課役の賦課について幕府より認められていたのは、清凉寺の東、現在の嵯峨大覚寺門前六道町、小渕町、清凉寺の北、観空寺の辺りとされていた。清凉寺の門前、すなわち出釈迦大路は大覚寺の支配権が及ばない場所となりつつあった。「応永鈞命絵図」が描かれた応永33年(1426)には後述のようにこの門前にも禅院が展開している。大覚寺は建武3年(1336)に火事によってほとんどの堂舎を失っている。室町時代に入り足利義満の子の義昭を門主と迎えた、再び興隆の機会を得た。しかし義昭は、義教との将軍継承の争いに敗れ日向国で没落したため、大覚寺の再興はなかった。
この時代の嵯峨を現在の地図上に再現すると下記のようになる。
最後に「応永鈞命絵図」を見る。「応永鈞命絵図」は応永33年(1426)に臨川寺住持月渓中珊が第4代将軍足利義持の命を請けて作成したもので、「大井郷界畔絵図」とは80年近い時を隔てている。先ず「大井郷界畔絵図」と比較して明らかに寺院・塔頭の数が増えていること、そして対象とした範囲がさらに拡張されている点であろう。北側は現在の祇王寺、滝口寺のあたりに存在していた往生院が描かれている。そしてほぼ中央上部に釈迦堂があり、出釈迦大路に面して無数の寺院が軒を並べている。東側には康暦2年(1380)に足利義満が建立した宝幢寺とその塔頭の鹿王院が描かれている。宝幢寺は京都十刹の第五位に列せられたが応仁の乱で廃絶している。この絵図の東限は、嵯峨観空寺谷の渓流と広沢池からの水源が合流して桂川に注ぐ有栖川が、京福電気鉄道嵐山本線の車折神社駅と有栖川駅の間を南下するあたりのようだ。
「応永鈞命絵図」に描かれた宗教都市・嵯峨の隆盛は長くは続かなかった。宝幢寺から臨川寺そして天龍寺にかけては、応仁2年(1468)9月7日の合戦によって焼失している。天龍寺も臨川寺も仮堂を建てたものの再興に時間を要した。そして両寺の復興の遅れによって、嵯峨の町並みも荒れ果ててしまった。そして「応永鈞命絵図」以降、江戸時代初期に至るまで洛中洛外屏風を除くと嵯峨を描いた地図が現れることは無かった。
応仁の乱の戦火によって室町時代初期の町並みは悉く失われたが、再び白紙の荒野から改めて開発された訳ではなかった。かつての嵯峨の骨格は近代から現代までも引き継がれている。出釈迦大路、造路そして野宮大路は現在の嵯峨の中でも残っている。また明治時代以降に敷設された京福電気鉄道嵐山線やJR西日本山陰本線も嵐山の中心に近づくと軌道を南に曲げている。相変わらず嵯峨野全体の景観は1250年以上前に定められた条里プランに依っているといってもよいだろう。
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