京都御苑 堺町御門
京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その2 2010年1月17日訪問
堺町御門はかつての公家町を守る九門のひとつで、現在の京都御苑の南側、丸太町通に面して設けられた門である。寺町通と烏丸通の中間に位置する南北路、堺町通の突き当りに御門がある。葵祭や時代祭が御苑から出発する際に潜って行く門としても有名だが、地図で確認すると御所の建礼門の軸線上には御門はない。そのため祭りの隊列は九条池の手前で東に折れて堺町御門に至る。
幕末に於いては、現在のように御苑の入口ではなく西の九条家と東の鷹司家の間を分ける道の中間にあった。
世の中は欲と忠との堺町
東はあずま西は九重
上記は堀田正睦が上洛し、条約勅許を得ようとした際の宮廷内の情勢を現した狂歌である。堺町御門を挟んで東の鷹司家は関東寄り、西の九条家は九重、すなわち朝廷側ということである。ただし、京都御苑 九條邸跡 その2でも書いたように、安政5年(1859)2月から3月初旬にかけての一時期の政治状況であり、3月12日には、廷臣八十八卿列参事件が発生している。すなわち同月14日に老中・堀田正睦に渡す予定の勅答書中に「此上ハ於二関東一可レ有二御勘考一様御頼被レ遊度候事」を加えたことから、鷹司政通ではなく九条尚忠こそが幕府の便宜を図る者と糾弾されている。 堺町御門の守衛は下記のように長州藩が担当している。また堺町御門の北側には長州藩と縁戚関係のある摂家・鷹司家の邸宅がある。そのため、この堺町御門の周辺で文久3年(1863)の八月十八日の政変での会津藩等との対峙、そして翌元治元年(1864)の甲子戦争の戦場となっている。この項では、姉小路公知の暗殺から八月十八日の政変の勃発までの推移を見て行くこととする。
文久3年(1863)5月20日の夜に起きた猿ヶ辻の変について、京都御苑 猿ヶ辻とその2、そしてその3の3回にわたって書いてきた。町田明広氏は「幕末中央政局における朔平門外の変–その背景と影響について」(「日本歴史 713」(吉川弘文館 2007年10月))を始め、「島津久光=幕末政治の焦点」(講談社選書メチエ 2009年刊)そして未読ではあるが「幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復」(岩田書院 2010年刊)を通じて、姉小路公知暗殺の真相を明らかにしている。「幕末中央政局における朔平門外の変」では、田中雄平が町奉行所で自死したことにより、暗殺の嫌疑が自らに向かった薩摩藩の緊迫した対応について詳しく触れている。
襲撃の翌日の21日には九門警備が強化されている。「中山忠能日記」(「日本史籍叢書 中山忠能日記4」(東京大学出版会 1916年発行 1973年覆刻)))には下記のように記されている。
清和門院 土州 堺町門 長州
蛤門 水戸 寺町門 肥後
乾門 薩州 下立売門 仙台
今出川門 備前 中立売門 因州
石薬師門 阿州
昨夜朔平門辺姉小路少将様へ刃傷之義有之不容易候間右九門口今晩ヨリ御固之義被仰付候間酉刻ヨリ潜り門共〆切候間通行節姓名行先相断可申事此段為御心得可申入旨ニ候御家来末々迄御示置可被成候此段可申入両役被申付候
十一月(五月カ)廿一日 両伝奏雑掌
また、この日には学習院の門に下記のような一文が貼られている。
転法輪三条中納言
右之者姉小路ト同腹ニテ公武御一和ヲ名トシテ実ハ天下ノ争乱ヲ好候者ニ付急速辞職隠居不致ニ於テハ不出旬日代天誅可殺戮者也
明らかに即今破約攘夷派公家に対する警告である。文久年間に頻発した天誅の中でも公家が標的になった唯一の事例であり、幕府関係者あるいは公武合体派ではなく攘夷派に対する襲撃という点でも奇異な事件であった。また、上記のような三条実美に対する警告文は出されたが、姉小路公知殺害について斬奸状らしきものはなかった。
5月23日、広島藩の浅野茂勲、米沢藩主・上杉斎憲、岩国領主・吉川経幹に姉小路襲撃犯の捜査が仰せ付けられている。25日の夜になって事態は進展する。伝奏・坊城俊政が会津藩公用人・外島機兵衛を召して、姉小路少将を殺害したのは田中雄平とその同宿の2名であると伝えている。その証拠として、現場に残された犯人の刀を長州・土州の士が見知っていたことを挙げている。また三条実美からも同じ内容の情報が入っていた。外島は黒谷に戻り、松平肥後守に報告したところ召捕れとなり、翌26日に物頭安藤九左衛門にその配下を率い、公用局員の外島機兵衛、松坂三内、廣澤富次郎等を伴い東洞院蛸薬師の田中等の旅宿へ向かい出動した。番頭井深茂右衛門が半隊を不時のための控えとするなど物々しい態勢であった。旅宿に至り朝旨を伝え、田中雄平と仁礼源之丞に坊城邸への同道を求めた。伝奏は田中及び仁礼を会津藩に預けようとしたが、守護職の任にあらずと拒絶されたため町奉行所で監護することとなった。この日の夜、奉行所内で田中雄平は自死している
5月27日に伝奏・坊城俊政は、会津藩主・松平容保、米沢藩主・上杉斎憲、広島藩の浅野茂勲、小松藩主・一柳頼紹に姉小路公知を殺害した者、すなわち仁礼源之丞への糺問を、豊岡隋資、正親町公董、東久世通禧には臨席することを申し付けている。しかし訴獄は町奉行の任務であり守護職が行うものではないという理由で辞退、上杉斎憲からも固辞されている。そのため町奉行・滝川元義に命じ浅野茂勲とともに糾問させようとしたが、浅野茂勲と一柳頼紹も辞退したため、御守衛兵に加わっていた水戸の梶清次右衛門、姫路の河合惣兵衛、長州の佐々木男也、肥後の宮部鼎蔵、轟武兵衛等数名がこの任についた。これら辞退の続出は、列藩である薩摩との関係悪化を鑑みてのものであった。
関博直の「姉小路公知伝」(博文館 1905年刊)によると、十八藩の有志が姉小路家の菩提所である浄華院に会し、姉小路公知の暗殺は田中雄平によるものであったかを討論したとある。これによって襲撃犯は田中雄平に確定している。
松平修理大夫殿乾御門御守衛御免之御書付写
松平修理大夫殿 先日以来乾御門御守衛被仰付置候処、今日より御守衛御免之旨相達被申候、就而者御守衛人数之詰所仮小屋無程取払有之候間、右取払相済候はゞ、薩州人九口御門内往返無之様可被制候、右之趣を以御留守居中へ申達候得共、各様為御心得被申達候、以上
九月廿九日 両伝
雑掌
御次第不同、八門御門御守衛御詰合衆中
松平修理大夫殿御家来九口御門内通行御指留之御書付写
松平修理大夫殿御家来之内、御用御使者之外、九口御門内通行可被制止候様被仰出候間、右之段心得可有之旨、飛鳥井殿雑掌市岡式部殿より御達有之事
上記は「官武通紀」に掲載された御書付写である。このようにして薩摩藩は5月29日には乾御門守衛免除に留まらず、九門内立ち入り禁止も申し付けられている。なお、新しく乾門の守衛の任に就いたのは、雲州松江の松平定安であった。
京に於ける薩摩藩士は、このままでは朝敵となり中央政界からの退場を余儀なくされることを強く恐れた。文久3年(1864)1月23日に関白を辞し、さらに3月25日には内覧も辞した近衛忠煕前関白も島津久光に書簡を相次いで送り、久光の上京が混迷する政局を打開する唯一の手立てとしている。5月30日には久光を京都に召す内勅が発せられ、7月12日には御親征の儀御用として召命の沙汰が下っている。これは主上の真意に沿ったものである。この一事より、主上の薩摩藩への信頼は揺らぎないものであったことが分かる。生麦事件の賠償金が幕府から支払われた英国は、今度は薩摩藩との直接交渉を行うため鹿児島に艦隊を派遣する準備を行っていた。久光は猿ヶ辻の変が起こる以前の3月14日に上京したものの、20日には帰藩の途についている。藩内体制を強化し薩英戦争に備えるため、藩内に留まらざるを得ない状況にあった。さらに追い打ちをかけるように、急進派主導の朝議により7月16日に久光上京の要請が取り消されている。そのため実際に久光が上洛を果たしたのは、八月十八日の政変後の10月3日のことであった。
窮地に陥ったのは薩摩藩だけではなく、近衛忠煕前関白と中川宮も5月29日の九門内立ち入り禁止により薩摩藩の支援を受けられなくなった。関白と宮が政治的な後ろ楯を失ったことは、公武合体派全体の退潮、急進派の権勢拡張へとつながり、主上の真意に反する勅旨が発せられるような事態になっていく。
それでも6月11日には薩摩藩士の九門出入は従来通りに戻されている。これは、京都御苑 猿ヶ辻 その4でも記したように、滋野井公寿と西四辻公業の出奔が事件に関係し、薩摩藩が関与した可能性が薄くなってきたためである。事件の発生を契機に、勢いを増した即今破約攘夷派の中川宮に対する攻撃が激しくなってきた。京都御苑 猿ヶ辻 その3でも取り上げた会津藩公用人・広沢安任の「鞅掌録」(「日本史籍協会叢書 会津藩庁記録3」(東京大学出版会 1919年発行 1982年覆刻))によると、薩摩藩からの支援が得られなくなった中川宮は長州・土佐両藩の藩士との謁見を優先し、薩摩藩との関係を清算するような行動を見せている。姉小路暗殺事件の犯行が薩摩藩によるものだと推定されるだけでも、薩摩藩からの支援を得ることが危険を招くことを中川宮も既に分かっていたであろう。さらに薩摩藩に対する非難が自分にも及ぶことを防ぐために、距離を置いたということである。しかしこのような豹変とも見られる宮の行動も功を奏しなかったようだ。
6月23日には伝奏・野宮定功の雑掌より会津藩に、中川宮家家臣・山田勘解由と伊丹蔵人の捕縛命令が下るという事態が発生している。会津が固辞したため、伝奏は守衛兵を以って捕縛している。その罪状は西国に下ろうとしたこととされ、中川宮が島津久光と謀議を行うために2人の家臣を薩摩に送ったという浮浪等の憶測によるものであった。後日、山田勘解由等は宮の命に従い、楠正成の墓を弔うために西下したことが判明している。
もともと姉小路卿殺害の5月20日より10日前の文久3年(1863)5月10日は攘夷実行期日であり、長州藩が馬関海峡を封鎖し、通過する艦船に砲撃を実施している。6月に配流と、米仏の艦艇による報復攻撃が開始され、6月5日のフランス東洋艦隊は前田、壇ノ浦の砲台に砲撃を加え、さらに陸戦隊を降ろして砲台占拠を果たしている。海軍が壊滅状態になり、砲台にも甚大な損害を受けた長州藩も、奇兵隊はじめとする諸隊を結成するなど、強硬姿勢を崩すことはなかった。6月16日には京の急進派公卿は監察使として正親町公董を長州藩へ派遣し、7月4日には周防宮市に到着している。監察使の派遣は長州藩の攘夷実行を褒賞し、さらなる西国諸藩の攘夷実行を強いるものであった。
海峡の対岸に位置する小倉藩が攘夷に加わらないことに憤慨した長州藩は、京に小倉藩の罪状をあげつらい小倉藩征討を懇請した。一旦は慰撫したものの、8月1日には家臣を上京させ朝廷に長州の言い分を伝言せざるを得なくなった。4日には国事寄人の錦小路頼徳を勅使として派遣を内定したものの、それを取り止めて9日に中川宮を西国鎮撫使に任じている。実質的な小倉藩征討総帥を、宮は引き受けることなどできず、即日短才を事由に辞退を直奏している。このように文久3年(1863)6月中旬より8月初旬にかけての中川宮の政治的な立場は非常に危ういものであった。
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